午前二時―――草木も眠る丑三つ時と呼ばれるその刻は、古来より魔が訪れる時と伝えられている。その魔を信じ、恐れる者も未だ少なくない。


 だが、その魔を実際に見た者が、歴史を通して何人いたのだろう。千か、万か。もしかしたら片手で足りるかもしれないが、それも今となっては知る由もない事である。伝承とは、それが必ずしも真実とは限らないのだ。


 月明かりも雲に隠れた、曇天の夜。風すらも寝入っているのか、辺りには音一つ存在しない。その代わり、麻帆良郊外にある森を、伝承に伝えられた存在が闊歩していた。


 それは、いっそ壮観と言っても差し支えない光景だった。五十体ほどはいるであろう、古来より日本に伝えられてきた魔の数々が、人知れず暗闇の森を進行する。


 時刻は奇しくも、午前二時を指していた。


「親分、今回はまた随分と簡単な命令でしたね」


 兜を被った小さめの鬼―――もっとも成人男性程度は有る―――が、外見とは裏腹に砕けた口調で言葉を発した。声をかけられた相手である、この集団の頭を勤める巨大な棍棒を所持した大鬼は、人の胴体を遥かに超える太さの腕を持ち、全身には筋肉の鎧を纏っていた。


「そうやな。妨害があるとは聞いとるが、ここまで頭数揃える必要が有ったかは確かに疑問や。まぁ、ワシらは命じられた事を全うするのが仕事。気張っていこうや」


 小鬼と同じく、気さくな声で頭が返した。


 彼らが命じられた事は、一人の少女の奪還だった。写真を見て顔を確認し、そのための小道具も、召喚主から渡されている。後はその者を探し出し、連れてくるだけだ。


 大の大人一人いれば事足りそうな事に、なぜ五十もの化生を揃えたのか。頭の大鬼は疑問でならなかったが、それも意識から外した。


 今小鬼に言った通り、彼らは与えられた使命を忠実に全うするモノなのだ。そこに余分が入る隙間は無い。ならばある意味彼らこそ、もっとも他者に依存したモノと言えるだろう。


 呼ばれなければ現世に現れる事も出来ず、命じられた事項だけを達成し、そして消えていく。儚い粉雪のようだ。だが、だからこそ彼らはその命令に全てをかけ、僅かの時を謳歌する。


 何一つ起きているモノがいない舞台を化生たちが我が物顔で進んでいく。その足音は自らを喝采し、息遣いは共演者を鼓舞していく。


 普通ならば、この時点で彼らを召喚した者の命令は達成されたも同然だろう。これだけの数の魔を相手にできるような人間が一体どこにいると言うのか。仮にいたとして、都合よくこの場にいるなどそれこそ奇跡に他ならない。


 だが、それならばおかしな話だ。太古より存在し、人間では太刀打ちできない彼らを、何故多くの人が目撃できず、また信じていないのか。対処の方法が無い程の暴力ならば、必ずどこかに確固たる伝承が残るはずである。


 しかし、それが無いのならば、意味する所はただ一つしかない。つまり―――


 ガサッ、と彼らの頭上に有る木が揺れた。最後尾を歩いていた頭とその周辺にいた者達だけが、それに気づいた。


 最前列を歩いていた一体の化生が、頭上で発生した音を訝しみ顔を上げる。


 視界に映ったのは、刀を振りかぶる少女だった。


「神鳴流奥義―――」


 言葉を呟きながら、少女の刀は化生を唐竹に両断した。敵が来たと真っ先に理解した数体の化生が、我先にと少女に殺到する。


 しかし、


「―――百烈、桜華斬!」


 少女の周囲に風が走る。鎌鼬の様に鋭く、そして速く振り抜かれた幾条の剣線が、彼女に近づこうとしていた化生を次々と切り刻んだ。舞い上がる血飛沫は、その名の通り桜の花弁となって夜に散った。


 ―――人は長い歴史の中で、いくつもの試行錯誤を重ね、化生に対抗する術を生み出した。それを、一部の者に密かに伝えてきたのだ。その中の一人が、今化生を切り伏せた少女なのである。


 構えられた刀―――少女の身長ほどはあろう野太刀の切っ先から、明確な殺気が滴っている。それは言葉よりも明確に、彼女の敵意を化生たちに伝えていた。


「―――ほう、これが召喚者の言っとった妨害か。…………しかしまさか、神鳴流とはなぁ」


 頭の大鬼が忌々しく、そして懐かしむように小さくぼやいた。


 神鳴流。古の京を守り、魔を打つために組織された戦闘集団。他の誰よりも魔を知り、そして打ち倒してきた者達。


 即ち、彼ら化生の天敵が、目の前の少女なのだ。


「面白い…………お前ら、そこの可愛い娘っ子はやる気やそうや。相手したるで」


 頭の号令に従い、全ての化生が戦いへと身を切り替える。途端、周囲に殺気が満ちた。それを感じ取り、少女が刀の柄を強く握りなおす。


 彼女が手にしている刀は、身長を超える程の長刀だが、少女の姿に違和感は無い。すっぽりと、長刀は彼女の一部として収まっていた。


 数体の化生が少女に走りよる。既に慣れてしまった光景を見据え、平静のまま少女はその進軍に応じた。一体の化生が少女に向かって第一撃を放つが、容易く避けられ一刀の下に切り捨てられる。第二第三とそれは続くが、彼女の長刀が闇夜に踊っただけで、結末は変わらなかった。


 三体の化生を切り伏せた勢いを殺さず、少女は化生の群れまでの間合いを詰め始めた。近づいてくる少女に化生も応戦するが、少女の刀はそれを上回る。あらゆる攻撃を避け、捌き、受け流し、間合いに捕らえた途端、化生を切り続けた。激しくも美しい舞いのようだ。役者だけが揃っている舞台で、花形役者が舞い続ける。その美しさを前にして、化生は自分たちの舞台を死守しようと少女に踊りかかった。


 留まる事を知らない少女の両側面に、二体の化生が回り込んだ。一体は獣の様な鬼、もう一体は鎧を部分的に身に着けている一つ目の鬼だった。


 一つ共通しているのは、少女の命を一撃で奪えるほどに太く凹凸のある腕だ。


 二体の鬼が同時に腕を振りかぶる。少女の退路は塞がれていた。正面は化生の群れが道を塞ぎ、後退も恐らく不可能だ。左右の鬼の拳は振りかぶった形からして、横薙ぎに振るわれるだろう。


 しかし、だからと言って左右の鬼を倒すのも不可能だ。片方を倒せても、その瞬間、もう片方の拳に打ちのめされてしまう。そもそもこの数に、いかに天敵と言えど少女一人で挑んだのが間違いだったのだ。


 だが、絶体絶命の状態に陥っても、少女の瞳に恐れは映っていない。鋭い眼差しは変わらずキッと前を睨み、その端で振り下ろされる鬼の腕を捕らえて―――


「流石だ、龍宮」


 その腕が、吹き飛ぶ様を見届けた。


 ダンダン、と銃声が夜の帳を引き裂く。それは少女の遥か背後より響き、音速を超えて飛翔する弾丸は、少女を守護する様に化生を穿ち抜いていく。狙いは正確にして一発必殺。唯の一つも外れない弾丸は、次々と化生の群れに綻びを生み出す。


「新手か! テッポウとは、やってくれるわ!」


 頭の鬼が、弾丸の飛んできた方角を睨み叫ぶも、その視界に射手の姿はおろか、影や形すら捉える事は叶わなかった。この魔弾の射手は、一キロメートルもの距離を置いて狙撃しているのだから、化生といえど肉眼で捕らえる事は不可能だろう。


「全く、無鉄砲に突っ込みすぎだ。援護するこちらの身にもなって欲しいな、刹那?」


「何を言う。お前がいるからこそ、私はこうして前を見れるんだ。後ろは任せたぞ、龍宮」


「ふふ、了解だ。安心して行け」


 十分な太さを持った二本の枝で足場を確保し、スコープを通して少女―――桜咲 刹那を見ていた龍宮 真名が、通信用の呪布を使い僅かな交信を終える。それはこの二人が、どれだけの戦場を共に駆け抜けて来たかを思わせるに十分な時間だった。


 刹那の刀が化生を断ち、真名の弾丸が化生を穿つ。初めに五十という数を誇っていた化生の軍勢も、今ではその数を半数近くまで減らしていた。


 ―――だが、このまま容易く敗れるようでは、化生は化生足りえない。


 真名の鷹の目が化生を射抜き、放たれる魔弾が刹那の横を抜けようとした化生を穿つ。ボルトアクションで次弾を装填し、次の獲物を探してスコープを走らせる―――その、僅かの隙。


「―――しまっ!」


 真名の表情が強張る。スコープから覗く一キロメートル先の光景に背筋が凍った。弾を撃ち、次の弾丸を装填しようとした一瞬の隙に、三体の化生が刹那に間合いを詰めていた。


 烏族。武芸に秀でた化生の上位種。人が両手でやっと扱えるであろう大剣を片手で振りかぶり、三体がほぼ同時に刹那に迫っていた。


『間に合え―――!』


 急いでボルトアクションを起こし、次弾をチェンバーに装填。刹那一人であの三体を制するのは不可能だ。先の鬼と同じように、一体を倒しても残りの二体が刹那の命を絶つだろう。


 助けられるのは自分だけだ。そうやって己を奮い立たせた真名が、狙いを定めて指を絞ろうとした。


「―――下がれ、刹那」


 群青の疾風が、弾丸よりも速く、刹那の下へ駆け寄っていた。


 その声を聞いて、慣性の法則を無視したような速度で刹那が後退する。入れ替わりに現れたのは、美しい陣羽織を風になびかせる男だった。下ろせば腰にまで届きそうな長髪をポニーテールにまとめた男は、余裕然とした含み笑いを讃え、先の刹那とほぼ同程度の尺度を持った刀を片手に、三体の烏族と対峙した。


 それを見て、烏族は男をせせら笑う。たった一人で、我ら三人を相手にできるか、と。


 ―――それが、自分達の最後とも知らずに。


 そこからの男の剣舞は、いっそ神懸かっていたと言っても差し支えないものであった


 右側から詰め寄った烏族が逆袈裟に放った太刀を男は、川が流れるような自然さで受け流す。返す刀で左側にいた烏族の剣を腕ごと落とし、正面から迫った烏族の唐竹を瞬間移動のような一歩で避けた。その瞬間には右の烏族の首を断ち、無手で襲ってきた左の烏族の喉を貫き、再び剣を構えた最後の烏族をそれよりも疾く斬首刑に処した。


 全ての時が止まる。瞬きの間に三体の烏族を切り伏せた男を、この場の全てが凝視した。それは、刹那や真名、化生に止まらず、まるで登場を待っていたかのように顔を覗かせた月までもが、男を見ていた。


「小次郎―――さん」


「何を呆けておる刹那。そら、攻め込むぞ」


 戦場に似合わぬ軽い声で振り返る事無く男―――小次郎がそう言い捨てると、刹那の反応を待たず化生へと歩み出した。決して走る事はなく、優雅とも取れるその歩みはあまりにも場違い。それで化生も時を取り戻したのか、新たに現れた敵に向かい各々の凶器を構えた。


「……気も、魔力も感じん。得物もただのポン刀、間違いなく一般人―――今のは偶然や!」


 一体の化生がそう吼えると、小次郎に向かって飛び出す。他の鬼に比べて細身ではあるが、その分速さに長ける鬼が、異型の象徴ともいえる禍々しい爪を振り上げた。


 目の前の男はこの鬼が感じた通り、気も魔力も持たない男。加えてその手に握る刀も、五尺余りという規格外の長さを除けば普通の刀だった。ならば、人を超える身体能力を持つ自分達が負ける道理は無い―――はずだった。


 鬼が小次郎の間合いに入った瞬間、何の予備動作も見せずに刀が振るわれる。脇目も振らずに首を目指す斬戟だ。


 小次郎の斬戟には、正確に言えば予備動作は有った。ただそれが、無いと錯覚してしまうほどに少ないだけである。自分を信じて疑わなかった鬼は、それ故に小次郎の一刀を信じられずにこの世を去った。


 月光に濡れた刀が夜を裂き、その後に首を落とした化生の骸を積み上げる。あっという間に主役の座を頂戴した小次郎の戦いもまた、刹那と同じく舞いと呼称できるほど美しいが、それは刹那と同等の物ではなく、質を異にするより洗練された舞踊のようであった。


 化生が小次郎の間合いを侵犯する。だがその瞬間にそれぞれの首へと刀が奔り、一切の慈悲無く首と胴体を別れさせた。時にはその一刀を避け、捌く化生もいたが、例外無く切り返しの二刀目で命を断たれた。


 それはもはや、“間合い”と呼べる次元の物ではない。僅かでも侵入したモノに一切の漏れなく首に一閃を奔らせ、両断する。人を超える化生ですら抵抗を許されないそれを、純粋な人間が行うのだ、間合いなどと呼べる筈もないだろう。


 結界。小次郎の間合いは、そう呼ぶのが相応しいほどに凶悪だった。


 数多の同胞の末路を見ながら、再び一体の化生が小次郎の結界に踏み込んだ。途端に長刀が奔る。だがこの化生はそれを避けようとせず、腕を犠牲にする事で結界を突破した。


「は、あ―――!」


 痛みと歓喜で声を震わせながら化生は走る。抜けた。あの剣の鬼神から、その結界から、命からがら抜け出した。


 後は、このまま森を抜けて、目的の少女を―――


「―――どこに行くのだ?」


 化生の世界が傾く。おかしいと思ったその時には、頭だけが地に落ち付していた。


「侮るな。この歩みは燕を捕える過程で生まれた物。私から逃げたくば、燕を超えることだ」


 一言死に際を看取り、再び化生達を正面に捕えた小次郎は、あろう事か唯の一歩で、抜け出した化生を再び結界の中に押し込めたのだ。


「―――どういう事ですか、小次郎さん」


 不機嫌そうな声が小次郎の耳に届いた。それは、ある程度距離を取り小次郎の横に並んだ、刹那の口から発せられていた。


「いや、失敬失敬。此度の私の役割は裏方と重々承知であったが…………余りにも退屈でつい、な」


 非難の視線を浴びせる刹那に、小次郎は変わらず軽い声で答えた。全く悪びれないその態度に、刹那が語気を強めて言い返す。


「つい、で勝手に持ち場を離れないでくださいっ。貴方の今回の役割は私と龍宮の二段構えを抜け出した妖怪の討伐でしょう」


 刹那と当の本人が認めたように、今夜の小次郎の本来の役割はそういったものだ。最前線を刹那、中衛に保険として小次郎を置き、最後衛から真名が二人の援護を行う。今夜が小次郎の警備員としての初仕事と考慮し、学園長である近右衛門自らが命じた布陣だった。その陣形を勝手に崩されたのだから、刹那の怒りはもっともだろう。


「あぁ、だからそれは無論分かっている。本当を言えば、私とてこのように出しゃばる気はなかったのだが―――」


 その事実を突きつけられてなお、小次郎の態度に変化は無い。そして言葉を区切り、横目で刹那を見ながら口の端を吊り上げて、


「ふと見てみれば、刹那に危機が迫っていたのでな。考えるよりも早く、つい持ち場を離れてしまった」


「ぐっ」


 そう、否定しようの無い事実を言い放った。


 僅かに恨めしげな視線を小次郎に送った刹那であったが、はぁ、と溜め息を吐くと、諦めの言葉を口にした。


「……分かりました。持ち場を離れた事に関しては言及しません。その代わり、後ろに一匹も通さないでくださいね」


「言わずもがな。元よりそのつもりだ」


 刹那が刀を構え、小次郎が自然体に刀を沿える。その二人のやり取りを密かに微笑ましい目で見ていた真名も瞳を引き絞り、残り二十を切った化生達に銃口を向けた。


 化生が吼える。それは勝利を求める鬨の声か、はたまた断末魔の叫びか。












「奥義―――斬岩剣!」


 気を纏わせた刀を上段に振りかぶり、叩きつけるように振り下ろす。斬岩剣とは名の通り、岩をも断つほどの奥義だ。それは目の前にいた妖怪を得物ごと断ち切り、とうとう妖怪の軍勢を一桁にまで落とし入れる。周りに二体ほど鬼が残っていたが、龍宮の弾丸が眉間を打ち抜く事で消えていった。


 私の周囲に妖怪がいなくなったのを確認して、小次郎さんに視線を移した。狐のような面を被り刃のついたトンファーを持った妖怪と、烏族の二体を同時に相手にしながらも全く引けをとらず、むしろ妖怪たちを圧倒している。無論、気はあの夜と同じく使っていない。もっとも、小次郎さんの場合は使えない、が正しいのだが。


『しかし……これが、小次郎さんの本当の力か』


 月光を鎬で煌かせながら、小次郎さんの刀が夜に舞う。目を凝らしても切っ先はまるで霞んでいる。それは明らかに、先日行われた試合で見せたそれよりも疾かった。


 だが、違いが出るのも当然だろう。刀子先生と行ったのは試合―――つまり『試し合い』で、今行っているのは『死合い』なのだ、その差は明確だろう。


 小次郎さんの刀が烏族の首を飛ばす。自分一人では敵わないと理解したのか、狐女は一歩後退して、そのまま距離を取ろうとした。


 しかしそれも叶わない。瞬き一つする間に、離れたはずの二人の距離が元に戻っていた。一番面食らったのは狐女だろう。あんな動き、誰が出来ると思う。


 一歩歩く―――それだけの行為から無駄という無駄を省き、前動作を極限まで少なくした最速の一歩を踏む。その効果は見ての通りだ。たった一歩分という短い距離ではあるが、小次郎さんはその一歩だけ、瞬間移動じみた速度を手に入れる事が出来る。


「名は確か……『逸歩いっぽ』、だったか」


 呟いて、なるほどと思う。『逸脱した歩み』とは考えた物だ。気を使わずに妖怪を圧倒できる事といい、この人には驚かされっぱなしだ。


 とうとう小次郎さんの刀が狐女の首を落とした。何度か真名の銃声も轟き、辺りに静寂が戻る。感覚を周囲に伸ばして残党を索敵してみるが、この近くで気配を放っているのは私たち三人だけだった。


「ふむ…………どうやら、今のが最後だったらしいな。頭と思しき鬼が見当たらぬが、恐らく逃げたのであろう。しかし如何に化生と言えど、女の首を落とすのは心が痛む」


 小次郎さんも同じく周囲を探ったのか、全身から力を抜きつつそんな事を言った。本当に言った通りの事を思っているのか、ふぅ、と重苦しいため息までついている。


「龍宮はどうだ? お前から残党は見えないか?」


「あぁ、どうやらいないみたいだ。依頼は無事終了と言っていいだろう」


 龍宮と通信を取り、最後の確認を終える。私も小次郎さんに習い、一息つきながら力を抜いて―――


「刹那、左へ跳べ!」


「え―――がっ!」


 ズンッ、と言う音が、私の右半身から響いた。顔色を豹変させて小次郎さんが叫ぶのと同時に、私の体を凄まじい衝撃が襲った。何の気構えすらしていなかった私は、猛烈な勢いで横に流れていく風景を呆然と眺め、そのまま木に激突した。


「かはっ……!」


 肺の中の空気を全て吐き出されながら地に倒れこむ。咄嗟に小次郎さんの指示通りに跳んである程度軽減できたものの、あまりの唐突さと痛みからまともに頭が働かない。それでも、長年の経験が敵を確認しようと、視線をそこに向けさせた。


「なるほど、術者が何であないにワシらを送り込んだかようやっと分かったわ。こないな連中が揃っとるなら、むしろ五十で妥当ってとこやろな」


 私が先程まで立っていた位置の後方二メートル。逃げたと思われた、頭の鬼が立っていた。


 腕の太さは小次郎さんの胴体を優に超え、赤銅色の皮膚が筋骨隆々とした全身を包んでいる。身長にいたっては私の約二倍もあった。手には身長を超えるほど大きな得物―――恐らくあれが私を吹き飛ばしたのだろう―――である棍棒が握られていた。


「大丈夫か、刹那!」


 朦朧としかけていた私の意識を龍宮の声が引き戻す。急いで駆けつけてくれたのだろう、額に僅かの汗を浮かべながら私をゆっくりと起こしてくれた。それでも体の色々な部分が傷んだが、それを奥歯で噛み殺して、大丈夫だ、と強がって見せた。


「ほう、流石は化生よな。その図体で完全に身を潜められるとは恐れ入る」


 大鬼と相対している小次郎さんの声が響く。相変わらず、戦場とは思えない軽やかな声。表情もまたいつものそれと変わらず、口の端を吊り上げた余裕を含む笑みを浮かべている。だがそれとは反対に、刀から漏れ出る冷気を伴った殺気は、大鬼の首の辺りに漂っていた。


「なーに、大した手品やあらへん。目的の嬢ちゃんを攫う時に使うよう渡された消音と隠形の札を使ただけや。一回こっきりやけどな」


 棍棒を肩に担ぎ、同じく戦場には相応しくない口調で大鬼が返した。二人の距離は四メートル前後離れている。恐らく、小次郎さんの立っている位置が、あの大鬼の間合いの一歩外なんだろう。


 隣で何かが動く気配を感じた。痛む首をそちらに向けてみれば、ゆっくりと拳銃を構えようとしている龍宮の姿があった。


 ―――しめた。この距離なら龍宮はまず的を外さない。加えてその弾丸は魔術付与を施された特別製だ。つまりあの拳銃が火を吹けば、大鬼は何も出来ず『向こう』に還る事になる。


 龍宮が殺気と気配を出来るだけ殺し、ゆるゆると銃口を大鬼に向けていく。私にはもう気を配っていないのか、はたまた小次郎さんに全神経を集中しているのか、大鬼はこちらに気付くそぶりを見せない。そしてとうとう銃口が対象を捉え、龍宮が引き金を引き、


「止めろ、龍宮殿」


 弾丸が吐き出される前に、小次郎さんがその勝機を切り捨てた。


「な―――」


 あまりの事に龍宮の動きが硬直する。その一瞬で、大鬼がこちらに意識を向けてしまった。


「―――ふん。そうやったテッポウ使いがおったんやったな。あかんな、お前さんの剣技があんまりにも人外離れしとるから忘れてしもうた」


「人外離れとは異なことを。それを言うのであれば常人離れではないのか?」


「何も特別な事出来ん純粋な人間がワシらを圧倒すりゃあそんな言葉も使いたくなるわい」


「ククッ。なるほど、それは確かに」


 大鬼の言い回しに、小次郎さんがクツクツと失笑する。絶好の勝機を自ら無下にしたくせに、全く悪びれた様子も無い。その態度が純粋な仕事人である龍宮の癇に障ったのだろう、まるで敵を見るような目で龍宮が小次郎さんを睨みながら、怒気をはらんだ言葉を投げつけた。


「どういう事だい。何故、今私を止めた」


 その視線には殺気までもが込められていた。龍宮は金で動く人間だが、それ故に金で頼まれた事は必ず果たそうとする。その絶好の好機を、あろう事か味方に邪魔されたのだ。小次郎さんへの怒りは至極まっとうなものと言える。私でさえ不快感を感じるのなら、龍宮の怒りは相当の物だろう。


「何、大した理由ではない。この化生、私に斬らせてくれ」


「―――」


 あっさりと返された理由に、龍宮が言葉を失った。自分が斬りたい。ただそれだけの理由で、この人は勝機を捨てられるのか。


「…………ではもし、斬れなかったらどうするんですか?」


「そのようなことは有りえぬが―――仮になったとして、其処な魔法使いがどうにかしてくれよう」


 そう言うと、敵と相対しているにも関わらず、小次郎さんがスッと視線を横に流した。それは私たちの背後に向けられていて、振り向いた先には、伝説の魔法使いが立っていた。


「エヴァンジェリンさん…………」


「フン、随分な格好だな、桜咲 刹那」


 気付けば後ろに立っていた彼女は不機嫌なのか―――と言うかこの人が上機嫌な時はそうない―――睨むように私を見下してきた。その隣にはいつも変わらず茶々丸さんが付き従っており、私に一礼をして視線を正面に戻す。その先には、小次郎さんがいた。


「なぜ、貴女がここに?」


「以前と同じだ。貴様らがここの妖怪を相手にしている時、別方向からも馬鹿が侵入してきた。その対応に私が駆り出され、早く終わったからこちらの様子を見に来ただけだ」


 私を見たのは最初だけ。今は視線を正面に向けたまま、私の問いかけに答えた。その瞳は真剣で、まるで何かを見逃さぬとばかりに、瞬きもせず最後の戦場を凝視している。


「下らん仕事で不愉快だったが―――どうやら、一番の見せ場に間に合ったようだな」


 ポツリと、呟くようにエヴァンジェリンさんが言った言葉。それが何故か大切な事に聞こえて、私も正面に視線を戻した。


「―――グァッハハハハ! 何て酔狂な男や! 自分が斬りたいからて、勝機を捨てるとはなぁ!」


「そう驚くことでもあるまい。先に其方が吹き飛ばした女子は私の教え子だ、その仇を己で取りたいと思うは至極当然であろう?」


 大鬼が爆発したように笑い、それをいつも通りの口調で切り返す小次郎さん。違いない、と大鬼が更に笑ったが、一通り笑い終えると大鬼は棍棒を八双に構えた。


「なら、尋常に勝負、と行こか。今更戦いを長引かせるのもあれやし、一瞬で終わらせようや」


「それは粋なことを言う。では私も、相応しい技でお相手せねばなるまい」


 ピン、と空気が張り詰める。向き合う二人は何も変わってはいない。ただ、二人から溢れ出した殺気が辺りを締め付けたのだ。大鬼は小次郎さんを叩き潰そうと殺気をぶつけ、小次郎さんは大鬼を切り裂くために殺気を鋭利に凝縮した。


 と、小次郎さんの腕が動いた。それは斬るための動作ではなく、まるで周囲に何かを示すようにゆっくりとしている。自然体に揺らいでいた刀が持ち上げられて行き、小次郎さんが大鬼に背を向け、目線と水平に刀が置かれたところで止まった。


 ―――それは、今まで見せた事もない、小次郎さんの『構え』。


「……!」


 ゾグン、という音が、背中から聞こえた気がした。皮を一気に剥された、と錯覚しまうほど凄まじい戦慄。理由は知らないし、知る必要もない。ただ、私の剣士としての本能が、あれの正体を私に告げている。


 見逃すな。次の一太刀は、剣士としての至高だ―――と。


 そんな事は、言われるまでもなかった。小次郎さんは構えのないあらゆる状態から、あの長刀を自在に操る事が出来る。そんな小次郎さんが刀を『構える』という事は、即ちそこからしか出せない何かがあるという事。それがどういう物かは想像に容易い。


「―――行くぞ化生。我が秘剣、避けられるか?」


 小次郎さんが踏み込む。背中を向けている不自然な態勢なのに、今までのどんな踏み込みよりも鋭く、疾かった。


 だが、この立ち合いは大鬼が有利だろう。人間の一歩は一メートルが精々で、二人の間には四メートルの距離が開いている。この一歩で距離は三メートルに縮むが、そこは小次郎さんの間合いではなく大鬼の間合いだ。小次郎さんの刀が届くには後一歩。僅かにして決定的な一歩を踏み出さなければならない。


 小次郎さんが動くと同時に、大鬼の棍棒が振るわれる。限界まで溜めた弦を解放したような鋭さだ。確実に、小次郎さんの二歩目よりも速くその身を打ち据えるだろう。小次郎さんが放とうとしている秘剣がどれだけ凄くても、振るえなければ意味はないのだ。


 上段から雷のように棍棒が落ちる。相手は化生、巨躯の鬼。普通なら踏み出している途中で食らいそうな物だが、その一歩を歩き切ったのは流石小次郎さんと言ったところだろう。だが結末は変わらない。小次郎さんを避雷針としたそれは、そのまま無慈悲に落ちて行き―――






 ―――その刹那、『逸歩』歩いた小次郎さんが、雷を避けた。






「秘剣―――」


 避雷針を失った雷が大地に落ちる。大地が抉られ、轟音が空気を走る中、大鬼の左前方二メートルの位置に踏み込んだ小次郎さんが謳うその言葉だけ、何故か朗々と響き渡った。


「―――燕返し」


 それは放たれた。小次郎さんの刀が煌く。速いなんて物じゃない。はや過ぎる。唐竹に一直線に落ちるそれは正に紫電一閃。鋭く疾い瞬きの一太刀だ。小次郎さんが構えを取るのも頷ける。


 だがこれはそれだけでは終わらなかった。上段からの一刀が振るわれたと思ったその時、逆袈裟の太刀が大鬼を断ち切り、更にそれを認識した瞬間には逆胴がもう振り切られていて―――


「…………え?」


 何が、起きた。なぜ、刀の一振りで大鬼が“四散”している。私の百烈桜華斬と同系列の技か? いや、私の目がおかしくなっていないのであれば……


「済まぬな。雷の如き一撃は見事であったが、私は今以上の雷を既に受けたことがあるのだ」


「はっ―――そうかい、化け物」


 大鬼は最後にそう毒づき、煙となってこの世を去った。小次郎さんはそれに一瞥をくれた後で背を向けて、私たちの方に歩いてくる。


「相変わらずの技の冴えだな、小次郎」


「お褒めに預かり恐悦至極だ、エヴァ」


 向かってくる途中、ニヤッ、と笑いながら二人が短い言葉を交わした。そのまま小次郎さんは、ただ一人倒れている私の側まで来ると、片膝をついて視線の高さを合わせた。


「済まなかった」


 第一声は、なぜか謝罪の言葉だった。


「私がもう少し早く気付いていれば、刹那が斯様な傷を負うこともなかった」


「そ、そんな…………あれは、仕方ありません。私も龍宮も気付かなかったのですから、小次郎さんが自分を責める必要はどこにも」


「そういう問題ではない。私が許せないのだ。だから、どうか謝らせてくれ」


 真摯な瞳で、小次郎さんは真っ直ぐに私に言葉を放ってくる。そこにいつもの軽々しさは無く、男の人に見つめられるという経験が無かった私は、つい逃げるように顔を俯かせてしまった。


「…………分かりました。そこまで仰るのでしたら、受け取っておきます。では、そろそろ戻りましょうか」


 立ち上がろうと地面に手をつき、膝に力を込める。


 けど、それがいけなかった。あ、と気づいた時には、カクンと膝が抜けていた。大鬼の一撃が、気付かない内に足にも来ていたようだ。もう一度地面が迫る中、私だけ格好がつかないな、などと下らない事を考えて―――


「無理をするな」


 ガシッ、と。小次郎さんの腕に抱き止められた。


「あ―――」


 固まる。意識も体も硬直する。背に感じる小次郎さんの腕は外見と相反して力強い。先程と同じく見上げる形になってしまったが、倒れ掛かる途中で抱きとめられたので見え方はまるで違ってくる。


 非難と心配の混じった目、嘘みたいに整った顔立ち、大人の男である事を示す突き出た喉仏。どれもこれも始めてみるもので、私は冷静な意識をドンドン失っていく。だが、それ以上に距離だ。近い、あまりに近すぎる。今は辛うじて離れているだけで、ほとんど密着状態に近い。


 あぁ、そんなホッとした表情をしないでください。こんな状況で笑いかけられても、私にはどう返せば良いのか―――!


「どうやら足に来ているみたいだな。歩けるかい、刹那?」


「い、いや…………これは、無理だと、思う」


 何とか小次郎さんの顔を視界から外して、龍宮の言葉に答えた。


 ……そうだ、龍宮だ、龍宮に肩を貸してもらおう。そうすれば小次郎さんから離れられる。思い立ったが吉日とばかりに、私は口を開いた。


「そうか。では、失礼」


「え―――うわぁ!?」


 だが、開かれた口から発せられたのは、そんな素っ頓狂な声だった。グッ、と常とは反対の重力を感じて、足が地から離れる―――否、持ち上げられる。体も宙に浮いてしまうが、それでも私が三度地に落ちる事はなかった。


 背中と膝下に感じる、力強い腕の感触。私は、今、小次郎さんに抱きかかえられている―――!


「い、いきなり何をするんですか小次郎さん! お、下ろしてください!」


「暴れるでない。先に言ったであろう、刹那の怪我は私の責任だと。ならば、歩けぬ刹那を私が運ぶのは当然のことであろうに」


「龍宮に頼むから必要有りません! 謝罪は先程の言葉だけで結構です! ほ、ほら龍宮! 早く肩を貸してくれ!!」


 藁にも縋る思いで龍宮を見た。


「いや、すまないが遠慮させてくれ。第一お前自身が言ってたじゃないか、小次郎さんの謝罪を受けると。そしてこれも謝罪の一つなんだ、運んでもらえ」


 だが所詮は藁。私が縋りつくには小さ過ぎたらしい。ご丁寧に、笑顔のオプション付きで辞退を申し出てくれた龍宮に歯噛みしながら、餡蜜に間違えてお酢をかけてしまえと念じておいた。


「そういうことだ。あぁ、ではこのまま先に私の家に向かうぞ? 刹那の怪我の治療をせねばならぬからな。茶々丸、頼めるか?」


「はい、勿論です」


 歩き出しながら続けざま、小次郎さんがそんなことを言った。確かに私の体には先程の戦いで負った傷がいくつか有る。だがそれも擦り傷や薄い切り傷程度なので、放っといても勝手に治ってくれるレベルだ。わざわざ治療を受ける必要はない。


「そ、そこまでしてもらっては逆に私が申し訳なくなってしまいます! は、運んでもらうまででいいですから、早く学園長先生のところへ報告に行きませんか?」


「ならぬ。学園長殿への連絡は後回しにする。それ以上に、今は刹那の怪我の方が重要だ」


「こんなの唾をつけておけば治ります。ほ、本当に大丈夫ですから」


「ならぬ」


 再三の私の要求も、一言の下に小次郎さんが切って捨てる。そして、横目で私の顔を見ながら、薄く微笑んで―――


「折角斯様に美しく生まれたのだ、傷など残しては勿体無いぞ」


 そう、止めの言葉を放った。


「―――!!」


 そのたった一言が、私のあらゆる意識を砕き散らした。


 動く事が出来ない。頭がクラクラする。きっと今、私の頬は間違いなく赤くなっている。そう確信できてしまうほど、心臓が異常な速度で鼓動を刻んでいたからだ。


 間違いない、この人はろくに言葉を考えずに喋っているのだ。ただ自分が感じ、考えた事を、真っ直ぐな言葉で。そうでなければここまで自然なままでいられるはずが無い。何て反則だ。こんな気障にも程が有る科白を、なんら意識する事無く言ってのけるなんて。


「ア―――ぅ……」


 小次郎さんの顔が見れない。否、私の顔を見せられない。でもそうするには小次郎さんの胸に顔を埋める形になってしまうわけで、意外に固い胸板から聞こえるトクントクンという心音が、小次郎さんに抱きかかえられているという事実を、改めて私に意識させてしまい、なお更気恥ずかしさが増してしまう。


 堂々巡りだ。恥ずかしさから逃げたいのに、その逃げ込んだ先でも恥ずかしくなるなんて。


 結局小次郎さんの家に着くまでの数十分間。私は人生最大の辱しめに耐えなければならなかった。












「桜咲さん、他に傷はありませんか?」


「…………はい」


 小次郎さんの家の一室で受けていた治療が終わった。元々大した傷もなかったので、かかった時間は十分前後という短いものだった。


 丁寧に手当てをしてくれた茶々丸さんにお礼を言うと、どういたしまして、と無機質だが冷たくはない返事が返って来た。普段の様子から持っていたイメージと違って、少し驚いたのは秘密だ。


 救急箱を元あった場所に戻してから、茶々丸さんは小次郎さんたちがいる居間に向かった。私もそれに続いて部屋を出たが、途中、足を止めないで辺りを見渡して見た。


 第一印象は、広いの一言に尽きる。もちろんお嬢様の実家に比べれば狭いが、それでも男性が一人暮らしをするような大きさではない。二世帯くらい入っても問題なさそうだ。聞けばここは学園長先生が与えてくれた家らしい。何を思って、学園長はこれほどの家を小次郎さんに貸し与えたのだろうか。


「貴様という奴はぁぁぁ!!」


「はっはっはっはっは!」


 居間が見えてくると、そんな叫び声が聞こえてきた。あぁ、またやっているのかあの人たちは。


 中に入ると案の定、座っている小次郎さんの胸倉を掴んでいるエヴァンジェリンさんの姿があった。やはり小次郎さんは笑っている。今度は一体どういう言葉でエヴァンジェリンさんをからかったのか、一緒にいた龍宮の顔が引きつっていた。


「マスター、小次郎さん。桜咲さんの治療が終わりました」


「む、そうか。助かったぞ茶々丸」


「いえ」


 お茶をお淹れしますね、と言って茶々丸さんが台所に消えていく。勝手知ったる家と言わんばかりの違和感の無さだ。確か、小次郎さんがこちらに来てからまだ一週間程度しか経っていないはずだが、まるで数年来の友人のような自然さがそこに有る。


「刹那、何時までも立っておらず、腰を掛けてはどうだ?」


 そう言われて、自分だけが立っていることにようやく気付いた。一言断ってから座布団を手に取り、それを敷いて床に座る。位置的には、テーブルを挟んで小次郎さんの左向かいだ。特別な理由は無い、ただ一番近かっただけだ。


「怪我は大事無かったか?」


 エヴァンジェリンさんと戯れながら―――そうにしか見えない―――小次郎さんが聞いてきた。


「はい。打撲が少しありましたが、骨折などといった生活に支障が出るような物は一つも」


「それは重畳。無事で何よりよ」


「こら! 私を無視するな!」


 安堵の笑みを浮かべて小次郎さんがそう言った時、何時までも放ったらかしにされたのがお気に召さないのか、エヴァンジェリンさんが小次郎さんの胸倉を再び揺すり始めた。ガクンガクン、と小次郎さんの顔が前後に揺れるが、はっはっは、と笑いながらそれを甘受していた。


 茶々丸さんが台所から、人数分の湯飲みを載せたお盆を手に戻ってきた。順々に回り、丁寧に湯飲みをテーブルに置いていく。配り終えるともう一度台所に戻ったが、今度は茶菓子の乗ったお皿をお盆に載せてきた。同じく全員に配り終えると、エヴァンジェリンさんの横に腰を落ち着けた。


「―――」


 何とはなしに、目の前にある湯飲みを見つめてみた。立ち上る湯気は淹れたてである事を示し、それと共に漂う香りは、疲れた体に欲求の鎌首をもたげさせる。ゆっくりと両手で湯飲みを持ち、一口啜ってみた。


「―――美味しい」


 口の中に豊かな風味が広がり、お茶特有の甘みを堪能したところで、喉を流れたお茶が体を中から温めてくれる。茶菓子として出された桜餅を一口食べてみたががこれもまた美味しい。餡子の甘みと、桜の葉の塩加減が絶妙だ。道明寺粉も良い物を使っているのか、つい二つ三つと手を伸ばしたくなる。


「ふふ……」


 満足気に舌鼓を打っていると、小次郎さんがこちらを見て笑っているのに気がついた。


「…………な、何ですか」


「いや、随分と童のように食べるなと思うただけだ。頬を綻ばせて何ともまぁ」


「ぅ―――」


「ククッ、恥ずかしがる必要も有るまい。褒めておるのだぞ?」


 また恥ずかしさから顔が熱くなり、それに伴って視線が畳に落ちる。そろそろ反論しようかとも思ったが、エヴァンジェリンさんを手玉に取れるほどの人に、私が何を言っても無駄だろうと判断して沈黙を通した。小次郎さんもそれ以上は言葉を口にせず、自分の分のお茶を啜り始めた。こちらを見てニヤニヤしていた龍宮には、射殺す気持ちで視線を返してやったが。


 居間に穏やかな静寂が落ちた。誰も言葉を発しようとはしない。耳に届くのは庭から聞こえる虫の音と、小気味良く鳴る鹿脅しだけ。


 贅沢な空間だと思う。今の日本で、ここまで和の情緒を残している家がどれほど有るのだろう。特に西洋の造りが目立つこの麻帆良ではなお更だ。この場の静寂を壊すのは、誰もが憚られるに違いない。


 だが……それでも、私にはこの場で聞きたい事があった。それはどうしても今、この場でなければならない、という訳ではないが、今夜を逃せばこれを聞ける機会は遠くなってしまう。


「……小次郎さん、少し良いですか?」


 だから、意を決して、心地良い沈黙を破った。思ったよりも硬い声になってしまったからか、全員の視線が私に集中する。それを意図的に意識から外し、真っ直ぐに小次郎さんを見る。


「…………ほう、何やら重要な話のようだな。良いぞ、遠慮なく尋ねるがいい」


 手に持っていた湯飲みをテーブルに戻し、声の質こそそのままだが佇まいを直して、小次郎さんは私の質問を許してくれた。


 深呼吸を一つ吐いて、私は一剣士としての問いを口にした。


「小次郎さん―――貴方は、一体何を目標にし、剣を振るっているのですか?」


 そう、私はそれが知りたかった。小次郎さんほどの剣士が剣を振るう理由、剣を手に取った動機を。正真正銘過去の人であるこの人が、一体何を思い、今の高みに立ったのかを。


 小次郎さんに運んでもらっている途中、あの秘剣―――燕返しが、どういう物なのかを尋ねてみた。正直、立ったまま聞いていたら腰を抜かしていたかもしれない。


 三太刀同時攻撃―――そんな絶技、想像もしなかった。出来なかった。いや、例え考え付いたとしても、とても成せるとは思わないだろう。


 けど、この人はそれを思いつき、そして実現させた。


 だからこそ、私は聞きたい。この人の目指す場所を。刀が示す、その先を。


「ふむ…………それは私も興味深いな。小次郎、聞かせてみろ」


「差し出がましいですが、私もです。以前は聞けなかったので、宜しければこの場でお聞かせ願えませんか?」


「私も聞きたいな、小次郎先生。戦いに身を置く者として、貴方の目標はとても気になる」


 どうやら他の三人にも同じ気持ちがあったのか、私の発言を皮切りに次々と賛同していった。その先で、ふむ、と思案するように、顎に手を当てた小次郎さんが目を閉じる。一分ほどそうしていただろうか。急に小次郎さんは立ち上がり、刀を手にとって縁側に下りた。


 自然、私たちの視線はそちらに向く。小次郎さんはこちらに背を向けたまま、周囲の緑を見渡した。


「―――始まりは、花だ」


 小次郎さんの独奏が始まった。


「如何なる強風にも折れず倒れぬ花を見て、そこに剣士としての己の原型を見た」


 ゆっくりと静かに歩を進めながら、小次郎さんが目標を口にしていく。逸る心音を宥めながら、続きを心待ちにする。


「次に、鳥を斬ろうと思った。優雅に雄々しく空を舞う鳥を斬れれば、目指す唯一つの足がかりになると思った」


 それを聞いて、私は軽い驚きを覚えた。


 鳥を斬る―――つまりあの燕返しが、足がかり? 空を見上げる小次郎さんの背を見ながら、私は己が耳を疑った。


「鳥を斬った後、風をかんじようと試みた。風とは無。そこにあるがどこにもない風はどうしても斬れぬ。故に、その姿を正確に捉えてやろうと奮起した」


 小次郎さんが青江を抜き放ち、切っ先で空を指す。その先には、いつでも肌で感じる事は出来るが決して見えない、風がたゆたっていた。それを、小次郎さんは観ようとしている。


「―――だが、全ては一つの為に。何時如何なる時もそこに有り、それでも決して手の届かぬ、あの美しく眩く遥か遠き理想に至る為に」


 風を指していた刀が、ゆっくりと持ち上がる。それは夜空を貫き、雲を裂いて―――


「花を真ね、鳥を斬り、風を観じて――――いつか、月を墜とす。それが私の剣を振るう理由、目指すべき到達点だ」


 そのまま、月を目指していた。


「―――」


 言葉が出ない。普通なら夢物語だと笑い飛ばせるような話なのに、それが出来ない。そう思わせるだけの何かを、小次郎さんは持っていた。


「……月を、墜とすだと? ハッ、正気か貴様。その様な事、この私でも不可能だ。いや、神であろうと叶わぬ、夢物語という言葉すら生易しい程の誇大妄想だ」


 だが、この人にはそれが出来る。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。六百年を生きる彼女は、それに見合うだけの貫禄を持って小次郎さんの夢を一笑に付した。


「そうだな、私自身もそう思う。我ながら、随分と馬鹿な夢を抱いたものだ」


 それでも、小次郎さんは笑う。まるでそう言うのが分かっていたように、エヴァンジェリンさんの言葉を肯定して、月を見たままクツクツと笑っている。


「だがな、エヴァ。最早、これはそういう次元の話ではないのだ」


「…………どういう事だ」


 振り向かずに月を見上げたまま、小次郎さんがそう前振る。その続きは、間を置かずに語られていく。


「花を真似た、鳥を斬った。残すは、風と月の二つのみ。ここまで来れば事の成否に関わらず、その終わりを見たい。
 果たして私は月に届くのか……それとも嘗てと同じように夢半ばで落ちるのか、はたまたそれだけの才が初めから私にはないのか。
 ―――私はな、エヴァ。それだけを、知りたいのだ」


 今度こそ、エヴァンジェリンさんも言葉を失った。その余りの意志の強さに。目指す理想の美しさに。


 月に届くのが夢ではない。至る至らないは関係なく、その終わりを知るために月を目指し続ける。小次郎さんは今、そう言ったのだ。欠片の迷いもなく、あまつさえ自信を持って。


 これだけの理想を、馬鹿の一言でどうして否定できる。


 無意識の内に、涙が出そうになっていた。あそこに立っている剣士は、それほどに気高く、そして綺麗だった。


「―――フ、ハハ、アハハハハ!!」


 突然、エヴァンジェリンさんが爆発したように笑い始めた。いきなりのそれに私や龍宮はおろか、小次郎さんも茶々丸さんも意表をつかれていた。


「ク、ククク…………良かろう! 貴様の理想、この『闇の福音』エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが認ると同時に、『花鳥風月の極致』の名をくれてやる! 嘲笑う者など気にするな、何時までも月を目指し続けろ! それが果たされた暁には、貴様を我が眷属として従者に加えてやる! フフ、アハハハハハハ!!」


 嬉しいのか楽しいのか定かではないが、エヴァンジェリンさんは笑い続ける。ついでに、結構物騒な事を言っている…………いや、一応名誉な事ではあるのだが、『眷属』という単語がどうにも引っかかった。


「実に粋な名を頂いたところ悪いが、それは遠慮させてもらう」


「何ぃ!? 貴様、この私が直々に従者にしてやると言ってるのだぞ? それをなぜ断る!?」


 あっさり誘いを断った小次郎さんに、エヴァンジェリンさんが食って掛かる。だが、これに対する小次郎さんの返事は、私でも予想がついた。


「仕えるべき主は、私が自分で決める。私を従属させたければ、私に『主に相応しい』と思わせてみよ。その時は、私からエヴァに我が刀を捧げてやる」


「言ったな? 忘れるなよ、その言葉」


 不適に笑いあう二人。それを見て茶々丸さんは微笑み、龍宮は呆れたように小次郎さんを見ている。だがそれは決して見下しているのではなく、余りに凄すぎて感心した、といった感じだった。


「さて、刹那よ。満足がいったか?」


「―――はい。ですが、同時に一つお願いが出来ました」


 私の方へ向き直りながら聞いてきた小次郎さんに、そう言葉を返した。小次郎さんは、更に質問を投げかけられて首を傾げたが、それを気にせず私は正座で佇まいを直した。そしてそのまま頭を下げて、


「お願いします。私に、剣の稽古をつけてくださいっ!」


 そう、強く願い出た。


「…………何とも急な話よな。一体、何故だ?」


「―――私は、もっと強くなりたいのです。貴方は腕だけでなく、その理想も、剣士として心の底から感服しました。だから私は、小次郎さん、貴方に修業をつけて貰いたいんです」


 お願いします、ともう一度強く言い、深く頭を下げる。龍宮たちが私を奇異な眼で見てくるが構いはしない。それよりも、これの方が何倍も重要だ。


 この人に剣の稽古をつけて貰えれば、私は確実に強くなれる。そしてそれは、お嬢様を確実にお守りできるようになる、という事に直結するだろう。


「…………まぁ、良かろう。私としても、誰かと刀を合わせて修業できるのであれば、それは喜ばしいことだしな」


 随分と間を空けた後、小次郎さんはどこか歯切れの悪い言葉でではあるが、私の急な願いを聞き届けてくれた。


「あ、ありがとうございます!」


 嬉しさの余り上がった頭を、再び深く下げる。おめでとうございます、と茶々丸さんが祝福してくれた。正直に嬉しかったので、はい、と自分でも珍しく笑顔で返す事ができた。


 花を真ね、鳥を斬り、風を観じて、月を墜とさんとする剣士。私はこの人の下で、更に強くなろうと、硬く決意するのだった。












 寮への帰り道。小次郎さんの家から寮までは案外近く、時間も遅いから送ろうという誘いを断って、龍宮と二人で街灯の下を歩いていく。


「刹那」


「ん? 何だ龍宮」


 先行していた私を、後ろから龍宮が呼び止める。そのまま私の隣まで歩いてきた龍宮は、私の耳元に口を近づけて、


「―――惚れたか?」


 そんな、トンデモナイ事を聞いてきた。


「なっ―――ば、馬鹿を言うな! わ、私はあくまで剣士として小次郎さんに憧れたのであって―――!」


「おや? 私は一言も『小次郎先生』だなんて言っていないぞ?」


「い、今までの流れからしたら小次郎さんを思い浮かべても仕方ないだろう! 下らない事を言うな!」


「はいはい、分かった分かった。じゃあ、『今は』そういう事にしておこうか」


「待て! 絶対に分かってないだろ龍宮! おい、待て!」


 イイ笑顔で逃げるように駆け出した龍宮を全速力で追いかける。逃がしてはならない。そうでなければ、決定的に不味いものを野放しにしてしまう。それだけは避けなければならない。何とか捕まえて、私はそんなのではない、と強く言い聞かせなければ……!


 朝焼けを照らす太陽が顔をのぞかせ始める中、私は結局部屋に戻るまで龍宮を捕まえる事が出来なかった。もっとも、私と龍宮は同室なので、そこで散々に訂正をしてやった。












 後書き


 どうも、大変お待たせしました、逢千 鏡介です。


 色々と新しい要素が出た八話、如何だったでしょうか。『花鳥風月の極地』が皆さんに受け入れられるかが大きな問題。あぁ怖い! これが通らなきゃこの先は書いていけないほどに! けど、武に身を置く人には最低でも理解して欲しいです、この熱さを。


 小次郎の歩法の名前は『逸歩』でした。風牙亭時代に、この名称を提案してくださった平平平平様に、改めて深い感謝の気持ちを。ありがとうございました!


 刹那がたくさん目立ちました。今後も目立つ事でしょう。小次郎にお姫様抱っこされて慌てるのと、桜餅を食べる刹那は、個人的に萌えです。皆さんにどう感じてもらえるか。


 一応、花鳥風月の極致のスキルを追加しておきます。ちなみに、鳥の秘剣は燕返しですのであしからず。





 花鳥風月の極致:Ex
 小次郎が目指す『月』に至るための技の総称。それぞれに『花』『鳥』『風』『月』の名が一つずつ付けられる。命名者、エヴァンジェリン。
 以下にそれを記載。


 戦花舞い:B+
 『花』の秘剣。小次郎の戦い方を指す。
 どんな強風にも折れず倒れず、揺らめき流す花のように戦う。
 その効果は、相手の攻撃を風とおき、その一切を受け流すという刀の基本を極限まで突き詰めたもの。
 どんな者でも辿り着けるが、極めるのが最も難しい境地でもある。
 小次郎がいる現在の領域を呼称するなら、柳の強靭さに花のしなやかさを加えたようなもの。よって、攻めれば攻めるだけそれ以上の攻撃が返ってくることになる。


 風の秘剣―――未完成


 月の秘剣―――未完成





 こんな感じです。本当に受け入れられるか怖いです、はい。おねがい何て無粋なまねはしませんが、できるだけ暖かい目で見てもらえると感謝感激です。


 では。




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