―――先に申したであろう、二人まとめて私が守ると。故に、何も案ずることはない。

 木乃香は、顔だけで振り返り、これでもかというほど自信に溢れた笑顔で言いきった小次郎を見て、全身を包んでいた恐怖が和らいだのを感じた。気付けば体の震えも止まっており、あれだけ行くのを引き止めた小次郎が再び武蔵に向かって足を踏み出す様子を、落ち着いた心境で見送ることができた。

『小次郎さん、ホンマ気障やなぁ』

 恐怖が和らぎ余裕が生まれたからか、木乃香は顔に笑みを浮かべながら少し場違いな事を思う。
 普段から気障な台詞や仕草が目立つ小次郎であるが、先の一連の行動は木乃香が知る中でも最たるものであった。これが本当に舞台の上で、小次郎がそういう役を演じているのならば大層なはまり役だろう。しかしこれは巻き込まれた劇であり、小次郎は役者ではない。そんなものにノリノリで参加しているのだから、普通は引かれそうなものだが……

『似合とるのが、また性質悪いわぁ』

 そういう気障な立ち回りこそ相応しいと思わせてしまうのが佐々木 小次郎なのだ。出で立ちも、纏う空気も声色も、表情の僅かな変化すらもが適合化されているような一体感。元々が芝居がかっているからこそ、こういった役を演じる場において本気を出した小次郎は誰よりも目立っていた。
 その証拠に、小次郎が燕返しを構え終えたのを合図としたように、周囲の観客から歓声と拍手が沸き起こった。その場にいる誰もが小次郎の自信溢れる演技に感動し、心からの賞賛を贈っている。それは3−Aの女子達も例外ではない。

「あらあら、佐々木先生かっこいいわねぇ」
「巻き込まれた劇であんな台詞言えるんだ……ウチの部に欲しいなー」
「うっひゃー。普段から気障っぽいけど、ここまでくるといっそ感心しちゃうわ。……む、閃いた! これはネタに使えるわー」
「うーん、記事にできないのが惜しいね。『最後の武士ラスト・サムライ、シネマ村の劇にて大立ち回り!』って見出しで出せば売れそうなのに」
「佐々木先生のお二人への愛、感動しましたわ! この雪広 あやか、及ばずながらお力をお貸しします!」

 皆が皆、思い思いの言葉を口にしている中、とりわけ物騒な言葉を放ったのは雪広 あやかであった。普段は冷静な彼女だが、一度感情に火がつくと思いも寄らない行動に出る。最近ではネギが絡んだ事でそうなる事が多かったが、今回は小次郎の啖呵に感銘を受けて火がついたようだ。それもこれも、この劇が本当は劇ではないという、彼女の親友の一人である那波 千鶴の言葉を信じ込んでいるのが理由である。

 そんなあやかの言葉に反応したのは木乃香だった。武蔵の殺気に当てられて以来、木乃香には一つの懸念があった。それはこの劇が、本当に劇なのかどうか、という疑問であった。
 木乃香が武蔵から感じた『恐怖』の感情。あれは到底、お客を巻き込んで行われる小芝居にあっていい物ではない。争いごとについてはずぶの素人であるにも関わらず明確にその感情を感じられたからこそ、木乃香はこの劇がただの劇じゃないのではないか、という懸念を抱いているのだ。
 もし自分の懸念が間違いでないのならば―――木乃香が武蔵の下へ向かおうとする小次郎を止めたのも、この疑問が原因であった。そして同様に、武蔵と小次郎両名が睨みあっている場所にあやかが行くことなど、到底見過ごせることではない。
 木乃香はあやかを止めようと口を開くが、

「雪広さん、それはいけません。あの人は『自分が守る』と言いました。今下手に助太刀すれば、後で小次郎さんが怖いと思いますよ」
「そ、そうですか? しかし……ぁ、いえ、確かに、ここは佐々木先生の舞台のようですし、少し残念ですが引き下がりまるとしますわ」

 それよりも早く、刹那があやかの方に顔を向けて、その行動を止めていた。刹那の言葉には、静かだが明確な拒絶の意思が見え隠れしている。その言葉に意見を挟もうとしたあやかは、刹那の顔を見るや否や、自分の意見を正反対に切り替えて他の3−Aの一団に混じっていった。
 まさか刹那が口を開くとは思っていなかった木乃香は、こっそりと刹那の表情を窺った。あやかから視線を切り、再び小次郎の方を向いた刹那の横顔は確かに真剣みを帯びており、目は揺らぐ事なく小次郎を注視していた。

「―――っ!」

 瞬間、武蔵が殺気を解き放った。小次郎はおろか、この場の観客全てを飲み込みそうなほど強大なそれは、木乃香の背筋に再び寒気を走らせる。だが今回は小次郎が武蔵との間に立ちはだかっているおかげか、さっきのように体が震えるまでには至らなかった。それでも怖いものは怖く、木乃香は堪えられない分を我慢するように、刹那の手をそっと握り締めた。
 すると刹那は、直ぐに木乃香の手を握り返した。その力強さに思わず刹那の方を向いた木乃香に言葉がかけられる。

「大丈夫ですお嬢様。万が一は私もお守りします……お傍に」

 視線こそ小次郎から切らないものの、迷いのない力強い言葉を刹那は口にした。小次郎の『守る』という言葉とはまた質の違った言葉ではあったが、木乃香の恐怖を和らげる事に変わりはなかった。
 うん、と一つ頷くと、木乃香は刹那に寄り添うほどの距離に近づいた。

「……ねぇせっちゃん。小次郎さん、負けへんよね?」

 その問いかけは、もしかしたら狙われているかもしれない自身の身を案じての問いではなく、やはり小次郎の身を案じての問いかけであった。
 どんな事よりも身近な人、大切な人を優先し心配する木乃香の優しさが生んだ問いかけを目を見ずに返すのは失礼だと感じた刹那は、木乃香と視線を合わせると、薄く笑みを湛えて、

「えぇ、もちろんです。今の小次郎さんは相当手強い。だから、簡単に負けたりはしませんよ」

 武蔵の下へ向かう時、小次郎の顔はこれでもかと言うほどに笑っていた。恐らく麻帆良でもっとも小次郎と刀を合わせてきたであろう刹那は、小次郎は真剣な時よりも笑っている時の方が強いという事を身をもって知っていた。ならばあの小次郎が、そう簡単に負けるはずはない。刹那はそう確信していた。

「……うん!」

 刹那の答えで今度こそ不安がなくなった木乃香は、真っ直ぐに小次郎を見詰め、無事に戻ってくることを願う。刹那もまた、武蔵の殺気を全て受け流している小次郎の方へと視線を戻した。

 ―――この時、この場にいる誰もが気付かなかった。刹那が小次郎へ向けている目に、正体を探ろうとしている光があった事を。

 刹那の心模様をよそに、全ての観客の意識は、橋の上で向かい合っている二人へと注がれていた。








 日本橋を張り詰めた空気が覆っている。二人が放つ殺気と気迫が混じり合ったそれは、ともすれば触れるだけで切れそうなほどの鋭利さをはらんでいた。その中で刀を構え睨み合っている二人は、橋を境目としてある種の別世界に立っていると言っても過言ではない。
 銃を筆頭とする近代兵器が横行する現代の戦場において、刀を用いた殺し合いなど余りに古臭く、似つかわしくない。更にこの死闘を眺めている観客は、これをただの見せものだと思い込んでいる。二人と同じ世界に立っている者は、この果し合いの本質を理解している刹那と月詠と、辛うじて木乃香の三人だけであった。
 それが証拠に、観客が発している歓声は、二人の耳に一切入っていなかった。

 放たれる殺気はこれ以上ない純度でもって、互いに突きつけ合っている。

「……ふん、大した口上だ。筋金入りの芸者だぜ、テメェ」

 本職も真っ青だな、と軽口を叩きつつも身構えに少しの揺らぎも見せず、武蔵が小次郎の口上を褒め称えた。芸者という言葉を聞けば、お座敷にて舞や音楽で客をもてなす者が連想されがちだが、かつては武芸に通じている者を指す言葉として使われていた。武蔵の言葉は、役を演ずる者と武芸に通じている者、二つの意味が込められたこれ以上ない皮肉だった。

 両手を広げ右に黒の長刀、左に銀の刀を握り、その切っ先を体の前に置く構え―――二天一流の基本である中段の構えでもって、武蔵は小次郎と相対している。対する小次郎は、彼が持ちえる唯一の構えである燕返しで、武蔵を切り倒す機を窺っていた。
 二人の間の距離はおよそ二間。小次郎の間合いの二歩外である。いくら瞬動を用いようとも、この二人ならば途端に察知し対処できる距離であろう。双方迂闊に仕掛けられぬ状況であるが、膠着状態は小次郎の望むところであり、この時点で小次郎が少々有利と言える。
 しかし、

「だがよ、忘れてねぇか? 今テメェが構えてるご自慢の秘剣は、既に破った技だぜ」

 ジリ、と武蔵が間合いを半歩詰める。自信に溢れた言葉からは、既に燕返しへの恐怖がない事を物語っていた。
 一度見た技をもう一度食らうのは二流がする事である。天劫の雷と恐れられる超一流の剣士にとってすれば一度見て、一度破った技をもう一度破る事など造作もない事なのであろう。
 どれだけ驚異的な技でも、その全容を明かしてしまえば恐れるに足りない。武蔵の脳裏には既に、燕返しの太刀の速さと太刀筋、果てにはその起こりまでもが明確に刻まれていた。
 武蔵の体に斬り込みの気勢が満ちる。例え先に燕返しを放たれようと―――仮にあの構えがフェイクだとしても―――捌き切るだけの自信と気構えが整ったのだ。その体勢が僅か、前に傾く。

「……ククク、これは意外。何とその目は節穴であったか」

 だが、いざ飛び出そうとした武蔵の体を、その小次郎の一言が押し止めた。見下しの言葉が耳に入り、武蔵の目が不穏な色を宿して小次郎を睨む。

「……どういう事だ、テメェ」
「言葉通りよ。まさか貴様、私が一度破られた程度で使い物にならぬ技を、秘剣と呼ぶと思っておるのか?」

 語る小次郎の顔には、その言葉が偽りでないと一目で分かるほどの自負が現れていた。斬り込みの気勢を散し、再び膠着状態に戻った武蔵は、小次郎の言葉の意味を考え始める。

『……一度破られても関係ない技。つまり、変化する技って事か?』

 真っ先に思いついた可能性は、太刀の数が四つ以上に増える事であったが、武蔵は同じく真っ先にそれを切り捨てた。そんな事が可能であるならば、初めからその上限数で放っているはずである。出し惜しみをして敵を仕留め損ねるなど、笑い話にもならない。
 ならば何が変化するのか。武蔵は僅か思考を巡らせ―――すぐさまその答えにたどり着いた。

『野郎、まさか……!』

 燕返しとは、別種の軌道を通る三つの太刀筋により絶対不可避の牢獄を作り上げる秘剣である。単純明快であるが故に、その間合いの内から放たれてしまえば対処の方法が著しく少ない。初見で燕返しを破った武蔵とて、後数瞬刀を呼び出すのが遅れていれば燕返しは防ぎきれていなかったであろう。
 そして小次郎の放つ燕返しは唐竹、逆袈裟、逆胴の三つの太刀筋で構成されている。穿って言えば、縦・横・斜めという三つの線が揃えば、それは燕返しとして成り得るのである。
 ……ならば少なくとも後一つ、燕返しを成立させる軌道が存在しなくてはならない。
 それは唐竹・袈裟斬り・胴打ち―――即ち、唐竹を軸とした左右対称化である。

 その可能性に、武蔵は心の底から戦慄した。燕返しが左右に打ち分けられる秘剣であるならば、一度破っているからと高を括って軽々しく踏み込んでいい筈がない。以前と同じ方法で捌こうとしたが最後、全く逆の方向から飛来する青江の刃が、あっという間に武蔵の体を四つに分断し、血潮と臓物を辺りにぶちまける事になる。

『―――いや、もしかしたら、二択ですらねぇのかも知れねぇ』

 武蔵は燕返しへの考察を更に一歩深くする。左右への対称化だけでなく、上下への対称化すら可能だとしたら。横と斜めの線は左右に分ける必要があるものの、燕返しを成立させる軌道の組み合わせは八つにも及ぶ。いかな宮本 武蔵であろうと、同じ構えから放たれる八つという膨大な打ち分けの数に対処し切るだけの自信はなかった。
 とんでもない技もあったもんだ……武蔵は素直に、燕返しという技の異常性を認めた。未だかつて、技の正体を知られる事が利点に働く技など聞いた事すらない。三太刀同時攻撃という常軌を逸脱した一振りを、迷いのある状態で捌ける者がこの世に何人いるというのか。
 燕返しの異常性に気圧されたように、武蔵は進んだ分の半歩を静かに後退した。

『……ふむ、どうやら上手く行ったようだな』

 その後退を確認し、小次郎は弄した策が目論見通りに通じた事に心の中で安堵した。
 武蔵にもはや燕返しが通じない事など、小次郎は先刻承知であった。それだけの男でなければ武蔵は、そもそも初日の夜に燕返しの前に倒れ伏しているであろう。
 だからこそ小次郎は賭けに出た。燕返しを破ろうとする武蔵に対しあえて強気に出ることで、その可能性を推察させたのだ。
 要はハッタリである。武蔵は超一流であるからこそ、燕返しを成立させる他の組み合わせの存在に気付き、それを恐れて後退したのだ。もちろん今の小次郎は、燕返しの打ち分けなど不可能である。小次郎自身、その存在に気付いたのは武蔵に燕返しを破られてからなのであった。

『出来ぬ、とは言わぬが……それにはまだ時間が足りぬな。修学旅行より帰った暁には、エヴァの別荘に篭るとしよう』

 セイバーという初めての宿敵に敗北し、宮本 武蔵という目の前の宿敵に破られた事で、鳥の秘剣・燕返しは更なる進化を遂げようとしている。小次郎は、その宿敵という存在に只管感謝した。

 武蔵は既に、小次郎がちらつかせた燕返しの可能性に飲まれている。恐らくそう時を待たずして、武蔵は立ち去るだろう。
 左右に広げていた腕を、武蔵が唐突に下ろし始めた。ダラリ、という擬音が聞こえてきそうなほど自然に垂らされたその腕は、降伏の意思のようにも取れた。

 ―――しかし、その程度で引き下がるようでは、宮本 武蔵は『天劫の雷』と呼ばれ恐れられはしない。

「……っ!」

 その行動の本質を真っ先に理解したのは小次郎であった。全身の肌という肌は戦慄に粟立ち、額からは冷や汗が滲み出る。知らず、青江を握る手の内が力を増していた。

「一発で見抜くか。それでこそだぜ」

 小次郎の変化を感じ取った武蔵は、表情に喜色の笑みを浮かべつつ、小次郎に賛辞の言葉を送った。
 武蔵は降伏のために腕を下げたのではない。小次郎の燕返しに対処しうる技を繰り出すために、構えを変えたのだ。
 腕の位置、刀の握り、足の幅、重心、目線の置き方、呼吸……常人からすれば何が変わったのかすら分からない細部に至るまで、武蔵の構えは先までと一変し、そして一定していなかった。
 それはもはや、『構え』と呼べる代物ではなくなっている。構えるという事は即ち、ある決められた事態に対処するための定まった形にその身を置くという事である。しかしそれは逆に、その形では対処できない事態が生まれる事にも繋がってしまう。殺し合いの場において、その対処できない事態ほど恐ろしい物はない。
 しかし、今の武蔵の構えは定まった形を持っていない。流れる水のように絶えず変化を生じさせているそれは、あらゆる事態を想定し、それら全てに『備え』ているのである。

 宮本の備え。有構無構という二天一流の理念を突き詰めた、宮本武蔵正統襲名者のみが持ちえる秘奥であった。

「厄介な構えを持っておるな……」
「けっ、そらお互い様だ」

 事ここに至り、二人は完全な膠着状態に陥った。双方の有利不利は均一化され、日本橋を包んでいる緊迫感はその圧力を加速度的に増している。

 ―――小次郎からしてみれば、武蔵の宮本の備えによって打ち分けの出来ない燕返しを完封された事で進退が窮まってしまい。
 ―――武蔵からしてみれば、あらゆる事態に対応できる宮本の備えを持ってしても、全身に絡みつく燕返しの可能性を振り切れずにいた。

 それを現すように、交わされた二人の軽口には余裕というものが余りにも少なかった。

 動きたくても動けない状況。無理に動けばその瞬間、必ずどちらかが白刃の下に命を散らす。
 ならばどうやってこの状況を打開するか……二人が同じ結論に達したのは、むしろ必然と言えた。

 青江の剣先が僅かに揺れる。それに応じるように、武蔵の刀も揺れ動く。相手が重心を落とし込めば迎え撃つように体勢を前にずらし、相手が目線を動かせば思わずその後を追いそうになる目を押さえ込む。誘いの隙を見せられれば、咄嗟に飛び出しそうになる全身を引きとめてなお自らに隙を生じさせない。
 初日の夜でも見られた、ほんの僅かな身じろぎすら刃に変えた不可視の斬り合い。違いを上げるとするならば、鎬を削る仮想の刃はもはや、現実の刃と変わりない次元にまで磨き上げられている事であった。更に二人が狙っているのは必殺のみであり、もはや実際の殺し合いとなんら変わりないと言える。
 体勢や目線のみならず、意識・呼吸……それらいずれかに刹那の乱れでも生じようものならば、次の瞬間にはどちらかが相手の刃の餌食となろう。

 十秒が一時間にも感じられる歪んだ時間感覚の中、見せ物としては長すぎるにらみ合いに野次を飛ばす観客は一人も現れなかった。二人が放つ緊迫感がとうとう周囲にも影響を与え始めたのか、観客達は身じろぎ一つでこの均衡を崩しそうな息苦しさに押し潰されそうになりながらも、そこから目を離す事は出来なかった。

 前触れなく再び拮抗が崩れる。唐突なそれは、直ぐに目に付くものが原因であった。

 ゆるゆると、武蔵の体から気が立ち上り始める。それを認めた小次郎は、内心で舌打ちをしながら、同じく気を全身に纏い始めた。

『気の消耗戦か……厄介な』

 小次郎の気は変換効率が悪い。それ故、気の消耗戦は小次郎がもっとも避けたかった事態なのだが、気を纏った武蔵に対抗するためには使わざるを得ない。
 気の使用によってより鋭敏になった全感覚が武蔵を捉える中、ただでさえやすりにかけたように精神力が削られていく上に体力までもが小次郎の体内で燃え尽きて行く。このまま行けば、先に小次郎が致命的な隙を晒す事になるだろう。

 思い切って仕掛けてみるか。座して死を待つなら、死中に活を見出そうとした時だった。
 武蔵の誘いを同様の誘いで相殺しながら、小次郎は僅かに目を細め、武蔵の周囲に漂う気を注視した。

『気が……少ない?』

 初日の武蔵の気と比べても、今の武蔵が纏う気は明らかにその量が少なかった。むしろ、今小次郎自身が纏っている気の方が多いくらいであった。
 武蔵は長丁場を意識し、解放する気の量を出来る限り抑えていたのだ。それもただ抑えるのではなく、全身に均等に必要量の気を乱れる事なく張り巡らせる様子は、一点の揺らぎもない明鏡止水の如き美しさすら漂わせていた。
 小次郎は武蔵の秘められた技量に舌を巻きつつ、その有用な技をすぐさま自身に昇華させようと試みる。

 蛇口を徐々に閉めて行くイメージで気を絞りつつ、普段四肢を動かす感覚を頼りに必要量を分配していく。死が背中に張り付いている危機的状況が天性のセンスを手助けしたのか、多少不恰好ながらも、小次郎のそれは形を成し始めていた。

『……お師匠様。ウチのペット達で、隙を作りますか?』

 一向に切り込む隙を見せない小次郎に業を煮やした月詠が、念話を通して武蔵の頭に直接語りかけ一計を提案する。月詠が言うペットとは、妖怪を模して更にデフォルメ化させて作り上げた月詠の式神であり、一見すればマスコットと変わりない見た目をしている。戦闘能力こそないものの数は多く、それらを小次郎にけしかけ、隙を作り出そうと言っているのだが、

『無駄だ。それくらいで隙ができる相手に見えるか』

 今もなお、自分の流派の秘奥と互角の牽制を繰り広げている男が、人形同然である式神に隙を晒すとは到底思えず、武蔵はその提案を却下した。

『では、ウチと―――』
『んな事してみろ、余計状況が悪化する。よく考えろこの阿呆が』

 二人でかかろう、と言いかけた月詠の言葉は、それを言いきる前に罵倒のおまけつきで真っ向から斬って捨てられた。
 確かに二人でかかれば状況は動く。だがそうなれば小次郎は先ず間違いなく、武蔵の攻めが及ばぬ位置から月詠に燕返しを放ちその身を四散させるだろう。そこから先の戦いは泥沼の一言に尽きる。勝敗など、神であっても見えはしない。

 自分が口にしようとした提案の行く末をようやく理解した月詠は、大人しく口を噤み、密かに高めていた気を霧散させた。

 互いの心臓を握り合っているような圧迫感の中、二人の睨み合いは、未だ終わりを見せようとはしなかった―――








 日本橋近くにある城の上階、その窓から顔を覗かせて、天ヶ崎 千草とフェイト・アーウェルンクスは橋の上で続いている睨みあいを見下ろしていた。

「何をチンタラやっとるんや、天劫はんは……」

 一向に状況が変化しない事に千草は苛立ち、その口からは愚痴が零れる。千草の目には、小次郎と武蔵が悪戯に時間を浪費しているようにしか見えていないのだ。
 それに対してフェイトは、二人の侍が繰り広げている攻防に、心中で賞賛を送っていた。

『大したものだね、人間の熱意……いや、執念と言うものは』

 フェイト自身、ある程度武術に精通しているせいか、二人が今何をしているのかがよく分かった。フェイトの目には全てではないが、二人の間で飛び交う不可視の刃が映っていた。そして、それがどれだけ凄まじい事なのかも理解していた。

 自分が今まで出会ってきた魔法使いの中に、彼らほどひたむきな者がどれだけいただろうか―――

 魔法使いよりも武芸者が上と言う訳ではないが、フェイトは思い出せる限りの魔法使いの中に、眼下で攻防を続ける二人と同じ次元の存在を、片手で数える程度しか見つけられなかった。
 これだけの高みに上るために、彼らはどれだけの月日と時間を捧げたのだろう。そしてそれを成しえたのは、どれだけの思いだったのだろう。何の代価も支払わずに秀でた武術を身に付けさせられたフェイトには、それらを推し量ることは出来なかった。

「くそ、ウチらで何とかできんもんか……」
「止めたほうがいいですよ。下手にあそこに介入すれば、途端に細切れになります」
「あぁ? どういう意味や!」
「言葉どおりです。とにかく、武蔵さんの逆鱗に触れることは確かです」
「くそっ……!」

 爪を噛みながら腹立たしげに放たれた千草の言葉にフェイトが釘を刺せば、ヒステリックな悪態が返る。初日からこっち、武蔵が期待していた働きをしない事に、千草は相当苛立っている様子だった。フェイトからすれば、変なところで臆病な千草が強行な策を許さない事に原因があるのではないかと思っているのだが、そんな考えはおくびにも出さず、心中で溜息を一つ吐いた。

「……ん?」

 何か付け入る隙はないかと、千草が目を皿にして辺りを見渡している時だった。武蔵と相対する小次郎、その後方に、作戦の要である木乃香とその護衛である神鳴流剣士を千草が見つけたのは。
 その瞬間、千草の脳裏に一つの策が閃いた。

「―――これや! これならいけるでぇ。新入り、屋上に行くで!」

 今までの苛立ちが嘘のように興奮した様子で、千草はフェイトが後をついて来ているかを確認もせず階段を駆け上がっていく。一拍遅れて、呆れの溜息と共に了解、と淡白な返事を返したフェイトがその後に続いていった。

 千草が思いついた策が如何なるものか。答えは程なくして、日本橋近くにいる全ての者に知られる事になる。








 ……小次郎と武蔵が睨み合いを始めて、どれくらいの時間が経っただろう。依然として二人は、その拮抗を保ち続けていた。
 唯一変化があるとすれば、それは二人の全身から吹き出る汗であった。気も交えた必殺を規した牽制の放ち合いは、二人の体力と精神力を凄まじい勢いで削り取っている。それが汗となって現れているのだ。
 それでも、二人の視線・呼吸・意識は欠片の乱れも見せず、全霊を持って相対する敵を捉え続けていた。二人にとってこの果し合いは、それほどに自らを高める意味合いを持ったものだった。

「お嬢様の護衛、佐々木 小次郎! そこまでや!」

 そんな二人の果し合いに盛大に水を差したのは、城の屋上に上った千草であった。
 張り上げられた声に、果たし合っている二人を除いたその場の全員がそちらを振り返り、そこにいるものを見て驚きに目を見開いた。

「今、鬼の矢がお前さんの守っとる二人にピタリと狙いを定めとる! この二人の身が可愛いなら、大人しく降伏しいや!」

 そう叫ぶ千草の隣には、筋骨隆々とした体躯を持った人型の式神が弓に矢を番えて立っていた。獣のような顔と鬣、背中には巨大な翼も持っているが、その巨躯は人のものでありどちらかと言えば人の形をしたキマイラといった風である。額に生えている二本角は、左側の一本がほぼ根元から折れていた。またその顔には、術式を固定するための一枚の札が貼られていた。
 突然の展開に観客からざわめきが漏れる。しかしその中にはやはりというか、これから劇がどうなっていくのだろうという、単純な期待しか溢れていなかった。

「くっ、いつの間に……!」
「おっと、下手な動きは取らん方がええで。一歩でも動いたら、その瞬間こいつは矢を放ってまうからな」

 不覚、と刹那は心中で唸った。小次郎の剣に思うところがあった刹那はついそれに見入ってしまい、周囲への警戒を怠ってしまっていたのだ。これでは小次郎さんの事は言えないと思いつつ、刹那は木乃香を後ろに庇おうとしたが、それは千草のその一言によって押し止められた。

「っち、何が目立つことは避けろ、だ……テメェが一番目立ってんじゃねぇか、糞が」

 千草の行いを視界の端で確認した武蔵は、最初言っていた事と正反対の行動を取っている千草にそう毒づいた。途端に武蔵の中に、今すぐこの仕事を投げ出して体の赴くままに目の前の男と斬り合いたい欲求が鎌首をもたげ始めたのは、仕方のない事だと言える。
 しかし武蔵は、一流の仕事人としてのプライドを持ってその欲求をねじ伏せると、とにかくこの動いた事態を利用するために口を開いた。

「で、テメェはどうすんだ。今のテメェじゃあ、あっちにまで手は回んねぇだろ。あいつが言ったとおり、大人しく降伏すんのがテメェらのためだと思うが」

 降伏を迫る武蔵の言葉は、現状の小次郎の立場を正確に示していた。
 武蔵と小次郎の拮抗状態は互いに薄氷の上を歩いているかのように危うい状態が続いている。そんな状況では、新たに現れた脅威に対処できないのは当然であろう。遠距離への攻撃手段に乏しい小次郎ならばなお更である。
 故に、この時点で既に小次郎は詰みと言える。

 ……もっともそれは、状況の外面だけを見れば、の話であるが。

「―――ハッ。戯けた事を申す」

 嘲笑を浮かべた小次郎の口から、武蔵の言葉をあざ笑う言葉が紡がれた。その言葉を聞き、観客達の意識が再び橋の上に移される。
 自分の言葉を否定された武蔵は、意外にも気分を害した風もなく、更に問いを返し始めた。

「ほう、何でそう思う」
「そも、貴様らが木乃香殿を狙って何になろうか。真意など知らぬが、貴様らは木乃香殿に用があるのであろう? なれば貴様らが、木乃香殿を傷つけられるはずもない。加えて傍におるのは刹那だ。私も先はああ言ったが、刹那が木乃香殿の守りにおれば弓矢の一本や二本、物の数ではない。
 今最も拙い事は、貴様から意識を切る事よ。私を斬れば、貴様は直ぐに木乃香殿を奪いにかかる。私がそれを防いでいる限り、状況は決して動かぬ」

 千草が取った行動は、確かに一見すれば人質を取って優位に立てたかのように思える。しかし千草が矢を向けたのは、長年の悲願を成就させるために必要不可欠な存在なのだ。到底危害を及ぼせるものではない。加えてその傍には、得物を選ばず戦うことができる神鳴流の使い手が立っているのだ。これでは脅しどころかただの道化にも等しい。

「……くっくく、ご明察だぜ」

 そして武蔵はあろう事か、クライアントの過ちを嬉々として認めたのであった。武蔵からしてみれば千草が取ったどうでもいい行動よりも、小次郎が現状を冷静に分析できている事の方がよほど重要で喜ばしい事なのだ。先ほどの降伏の誘いもそのために口にした言葉であった。
 刹那もそれを理解しており、その意識は千草の傍らにいる式神にのみ向けられていた。いつ弓矢が放たれたとしても、刹那は瞬時に気を纏った手刀でそれを打ち落とすだろう。

「おい、聞いとるんか! お嬢様がどうなってもええんか!?」

 一向に剣を納めようとしない小次郎に、千草は再び声を張り上げる。その声に苛立ちが満ちている事からも、自分が取った策の本質を理解できていない事が現れていた。
 千草の策が失敗に終わった以上、小次郎と武蔵の膠着状態はもうしばらく続くように思われた。

 しかしその膠着状態は、一人の少女によって打ち砕かれる事となる。

「……ぁ、ぅ」
「お嬢様!?」

 唐突に木乃香が呻き声を上げて、グラリと体勢を崩した。それに真っ先に気付いたのは傍にいた刹那であり、木乃香が倒れないようすぐにその体を支えた。
 弓矢という明らかな凶器と式神の殺気が自分に向けられているという状況に、木乃香の心が限界を迎えたのだ。木乃香は今の状況が劇ではないと薄々感づいていたからこそ、一層その影響を強く受けてしまったのだ。

 ―――そしてその瞬間、城の屋上から、弦が空気を裂く音が周囲に奔った。

「な、何しとるんやルビカンテ!?」
「ふざけるなあのあまぁ!」

 その異常事態に真っ先に気付いた千草と武蔵の口から同時に言葉が飛ぶ。特に武蔵の口からは、これ以上ない罵倒の言葉が放たれていた。

 千草が式神―――ルビカンテに与えていた命令は『狙った者が動いたら射れ』という、対象設定が曖昧な命令だったのだ。それ故ルビカンテは、木乃香が動いたのを感知し、命令通りに弦から指を離したのだ。

「っ!? しまっ……!」

 そしてそのタイミングは図らずも、刹那がルビカンテから意識を切った瞬間であったのだ。刹那は木乃香の身を案じる余り、致命的な隙を晒してしまった。木乃香を支えている今の状態では、到底迫り来る矢を打ち落とすなど出来はしない。
 背後から響いた風切り音と武蔵の突然の怒声を聞き、小次郎もすぐに事態の急転を理解した。すぐさま身を翻し、刀を捧げた者達を守るべく飛び出す。既に全身に気を張り詰めさせていたからか、踏み出された逸歩の鋭さには目を見張るものがあった。
 小次郎は瞬動をあえて使わなかった。半ば習得しているとはいえ、それはまだ未熟である。ここ一番で失敗をしてしまう訳にはいかなかったからだ。

『この距離、今の私ならば間に合う……!』

 それでも小次郎は、あの矢を叩き落せると判断した。麻帆良に蘇ってからの弛まぬ修業と気を習得した事、今の高ぶった神経・精神、そして過日の茶々丸を助けた時の経験を根拠とした揺らがぬ確信だ。その証拠に小次郎の目には、音にも迫りそうな速度で滑空する矢の姿が克明に捉えられていた。
 瞬きの間に矢を間合いに収めた小次郎が、青江を振りかぶる。矢を睨み、斬れるという感覚を得て、青江を振り下ろした。

 その時、小次郎の体が内から歪み、青江の刃は矢を打ち落とす事なく虚空を撫でた。

「あ……?」

 訳が分からぬと、小次郎の口からは余りにも素っ頓狂に過ぎる音が漏れていた。

 その音すら置き去りにして、矢は無慈悲に木乃香へと迫る。悪い事に小次郎の目は、その様子をも克明に捕らえてしまっていた。

 ……だから、小次郎は思わず叫んでいた。

「―――刹那っ!」

 木乃香を突き飛ばし、代わりに矢を食らい、その衝撃で小さな体が宙を待っている、刹那の姿が見えたから。








 ―――数十分に及ぶ武蔵との気を交えた牽制の掛け合い。それは本人が感じていた以上に、小次郎から体力・精神力を奪い取っていた。
 しかし今の小次郎はそれ以上に精神と神経の高ぶりが凄まじく、その程度は気にせず動き回れる状態にあった。一瞬で矢に追いつけた事がその証拠である。故に高速で飛んでいる矢も、問題なく切り落とせる筈であった。
 だが、矢を斬れる、間に合うと確信した事が、唯一にして最大の小次郎の失策であった。
 以前茶々丸を助けた時、小次郎はとにかく必死になっていた。間に合わぬなら間に合わせる、魔法を斬って見せる、友を助けて見せる。必ずやり遂げて見せるという根拠なき絶大な覚悟は、小次郎の精神を尋常ではない領域まで高め上げ、結果として小次郎は気に目覚め、茶々丸を救出した。
 今回は、それらが全く逆になってしまったのだ。これなら間に合う、矢を斬れる、木乃香達を助けられる。確信は安堵となり、高ぶっていた小次郎の精神を僅かながら沈め、緩んだ小次郎の体は今まで気づかなかった疲労を一気に認識してしまい―――

 ドサリ、と。刹那の体が地面に倒れた音が、変に大きく辺りに響いた。

「……っ! 刹那!」

 我を失っていた小次郎はその音で意識を取り戻し、急ぎ刹那の元へと走り寄った。

「何という無茶を……! 目を開けよ刹那! 刹那っ!」

 刹那は強烈な矢の一撃を心構えもない状態で食らってしまったため、その衝撃で意識を失ってしまっていた。とにかく意識を取り戻させようと、小次郎が何度も刹那の名を叫び続ける。

『くっ、これは少々拙いか……!?』

 仮にも小次郎は戦いに生きる身である。知識はなくとも、大よそどの辺りに傷を負えば重症となるか程度は理解していた。そして刹那が食らった矢は、左肩の少々心臓に近い位置を貫いていた。下手をすれば重要な血管を傷つけているかも知れず、最悪のケースが小次郎の脳裏を過ぎり、背筋を冷たいものが走る。

 これほどの事態になっても、悲鳴はおろかどよめきすら周りの観客から漏れる事はなかった。今までの一連のやり取りが余りにも現実味に溢れすぎていたせいで、観客達からすれば目の前の流血沙汰すら、真に迫った演技程度にしか映っていないのだ。クラスメイトである3−Aの面々には流石に動揺が走ったが、周囲の空気に呑まれ何をする様子も見せていない。

『ちょっとちょっと……これは流石にやばいんじゃないの? まさかこんな事までする連中だったなんて……』

 その3−Aの中でただ一人、魔法の存在と小次郎らの正体を知っていた朝倉だけは目の前の事態が本物であると理解し、恐れおののいていた。
 修学旅行二日目、朝倉はひょんな事からネギが魔法使いであると知り、その日の内にカモの勧誘でネギ達の仲間になり、同時にこの修学旅行の裏で張り巡らされている陰謀の存在を知った。だが朝倉は単に『魔法使いが世に存在するというスクープを独占できるという』カモからの提案に乗っただけに過ぎず、陰謀の事もどこか作り話を眺めている感覚でしか理解していなかった。今の今まで日常の世界にいた朝倉は、裏の世界に足を踏み入れる事がどういう事なのかまるで分かっていなかったのだ。そして今、朝倉はその世界が如何なるものかを知り、それに恐怖したのだ。

 少しずつ、刹那の肩を中心に血が辺りに広がり始める。今の今まで刹那に突き飛ばされ尻餅をついた状態のまま、目の前で何が起こっているのか理解できなかった木乃香も、それでようやく刹那の傍に駆け寄った。

「せ、せっちゃん! せっちゃん! しっかりしてや!」

 肩から矢が生えているようにも見える有様は余りにも生々しく、鼻につく血の鉄臭さと合わさって、木乃香をパニックに陥れる。刹那が自分を庇って矢に撃たれたという負い目が、なおそれを加速させていた。

「こ、こじろ、小次郎さん! せっちゃんが、うちのせいで、庇って、血ぃ流れて……! どないしよ、どないしよう!?」
「落ち着け木乃香殿。幸い急所は外れておる、命に別状はない」
「で、でもこない血が出て、矢が刺さって……!」

 木乃香の口からは、要領を得ない単語ばかりが飛び出してくる。その慌てふためく様子を見て逆に冷静さを取り戻した小次郎が少しの嘘を混ぜて木乃香を宥めようとするが、今にも泣き出しそうなほど混乱している木乃香に効果はなかった。遮二無二傷口を押さえ血を止めようとする姿には、見る者の胸を締め付ける痛々しさが漂っていた。

「……ぅ、ぐ」

 すると、木乃香が叫ぶ声に反応したのか、気を失っていた刹那が僅かに身動ぎ、意識を取り戻した。

「せっちゃん! 大丈夫!?」
「は、ぃ……これしき、何と言うこと、も……ありませんよ、お嬢様……」

 答えられた切れ切れの言葉も、力ない笑みを浮かべる血の気の失せた顔も、刹那が無理をしている事を如実に物語っている。それは最早病的とさえ言える、木乃香に―――近衛家に尽くさんとする忠義心だった。

「こじろ、うさん……お嬢様に、お怪我はありませんでしたか?」
「……うむ、傷一つないぞ。刹那のおかげだ」

 大切な者のために自らを犠牲にする。聞こえはいいが、そのせいで残される者はそんな事は望んでなどいない。特に木乃香と言う少女は、彼女こそ自らよりも他人を優先する少女なのだ。刹那が口にした言葉は、単に自らを慰めるための言葉に過ぎない。小次郎もそれを何となく理解しながら、しかし何と言葉を掛けていいかが分からないまま、素直な言葉を返してしまっていた。

「そうですか―――よかった」

 そしてその言葉を聞いて、刹那はこれ以上ない安堵の笑みを浮かべて。
 木乃香の目にはそれが、あたかも今生の別れのように映っていた。

「いや……いややぁぁぁ!」

 自分を庇ったせいで刹那が死ぬ。到底受け入れられない非情な可能性が木乃香の感情を爆発させた。

 その瞬間、木乃香を中心として、辺りに閃光が迸った。思わず目を覆ってしまうような激しい光に、流石に観客からも悲鳴が上がる。次いで逆巻き始めた風が、辺りの木々をざわめかせ、橋の下を流れる川の水面をも乱暴に叩き始めた。唐突な天災に、日本橋周辺は一時混乱の坩堝に陥った。
 しかしそれらとは対照的に、木乃香の側にいた小次郎と刹那は、その光から限りない安らぎと温かさを感じていた。まるで母の胸に抱かれているかのような安心感は、木乃香の心根をそのまま表しているかのようだった。

「あぐっ……えっ?」

 変化は唐突だった。肩に違和感を感じた刹那はうめきを漏らし、そこに目を向けて唖然とした。矢が消滅を始めたのだ。
 ルビカンテが放った矢は、千草がルビカンテを召喚する際に一緒に魔力で編んだ物である。その矢を構成する魔力が、木乃香が放つ光―――発現した膨大な魔力の波に耐え切れず、崩壊を始めたのだ。矢は瞬く間に消え去り、光が収まる頃には、刹那の肩にあった傷も綺麗に治されていた。

「こ、これは……お嬢様、まさかお力を―――」
「……え? い、今、何が起こったん?」

 何度か傷のあった部分を触り、本当に傷がなくなった事を確かめた刹那は、呆然と木乃香にそんな言葉を掛けていた。当然、魔法の事など欠片も知らない木乃香は、ただ首を傾げるばかりである。
 そして、首を傾げるどころではないほど驚いているのが小次郎であった。
 別に小次郎は、木乃香に魔法の素養があったことに驚いているのではない。木乃香はあの近右衛門の孫なのだから、むしろない方がおかしいと言える。
 小次郎が驚いたのはその魔力の量である。サーヴァントであったころは何となくでしか理解できていなかった魔力という物が、この世界に蘇り、気を修めた今だからこそ、理解できるようになったのだ。そして魔力を理解した小次郎の感覚は、木乃香が今発した魔力がセイバーの一撃に込められていた魔力を軽く凌駕していた、と結論を出した。ともすれば、キャスターが放つ特大の魔術にも比肩するかもしれないその量に、小次郎は驚愕したのだ。

『しかも恐らく、これはほんの一部に過ぎぬのだろう……全く、凄まじいも―――!?』

 魔力の結合を崩壊させ、傷を跡形もなく治しきる木乃香の魔力に舌を巻き―――そこでようやく、小次郎は今がどういう状況であるのかを思い出した。青江を振りかぶり様、弾かれたように振り向き、武蔵の一撃に備える。
 しかし、そんな小次郎の反応とは裏腹に、武蔵は刀を納めてただ橋の上から三人のやり取りを眺めているだけであった。

「……武蔵。貴様、何故私を斬らなかった」

 小次郎は最初、矢を打ち落してすぐさま振り向き武蔵を迎撃するつもりだった。だがその目論見は、矢を打ち落し損ねるというとんでもないハプニングのせいで吹き飛び、武蔵の事すら意識の外に追いやってしまった。武蔵ほどの男がそんな千載一遇の隙を見逃すはずもなく、だからこそ小次郎は、今自分が無事でいる事が全く理解できなかった。
 対する武蔵は、既に戦いの気勢がなくなった体を気だるそうに動かし、頭を乱暴に掻きながらその問いに答えた。

「興が削がれた。第一、こっちのミスをテメェらに助けられたんじゃ立つ瀬がねぇよ。ったく、本当にくだらねぇ……」

 言葉通り、よほどやる気がなくなったのだろう。寿命全てを吐き出しそうなため息を吐くと、行くぞ月詠、と声を掛けて武蔵は足早にその場を去っていった。 
 残された小次郎は、呆然と目を瞬かせた後、おかしそうに吐息を一つ漏らした。

「呆れるほどに義理堅い……いや、人の事は言えぬな」

 むしろ私の方が酷いか、と小次郎は自嘲の笑みを浮かべた。何しろ小次郎は、隙を見せた敵を斬らなかったばかりか、その敵にとっての追っ手すらも食い止めて見せたのだ。あの時のセイバーはこんな気持ちだったのかと、何とも表現できぬ感覚に、小次郎は苦笑いを浮かべた。
 武蔵の背を見送るのもそこそこに、小次郎は刹那たちの元へと戻っていった。

「刹那、大事はないか。済まぬな、また守れなかった。弁解の余地もない」
「いえ、お気になさらず。お嬢様のおかげで怪我も治りましたし……」
「それだけが何よりよ。木乃香殿も、大事ないか」
「う、うん……ていうかウチ、何が起こったんか、まだ分かってないんやけど……」
「ふむ、それなのだが―――」

 ここまで巻き込んだのだから、もはや事情を説明しない訳には行かない。小次郎がそう判断して、事の事情を話そうとした時だった。
 劇が終わったのだとようやく気付いた観客達から、とめどない歓声と拍手が一斉に沸き起こった。今まで溜まりに溜まった感情が爆発した様子は、まるでダムが決壊したかのようであり、その勢いに小次郎の言葉はかき消されてしまった。更にその勢いに感化されてテンションが最高潮に達した3−Aの面々が走り寄る姿が、小次郎達の視界に映った。

「……ここで捕まると厄介だな。刹那、ここは逃げてネギたちと合流するぞ。場所は分かるか」
「は、はい。式神で場所は特定してあります」
「よし、では木乃香殿は任せた。行くぞ!」
「ふぇ? な、何がどうなって―――ひゃあ!」

 混乱する木乃香を刹那が抱え上げ、小次郎達はとめどない歓声を背に受けながら、一目散にその場を後にした。

 ―――後に、この日に起きた大芝居は大きな反響を呼び、知らぬ存ぜぬを通すシネマ村の姿勢が更に謎を呼び、一種の都市伝説として市民に語り継がれることになるのは別の話。








「一体どういう事や、宮本 武蔵っ!」

 防音と人払いの結界を張った路地裏。人は寄り付かず音も一切漏れない断絶された世界に、天ヶ崎 千草の怒声が響き渡った。
 その怒声が向けられた先には、アスファルトに胡坐をかき、両腕を組んで憮然とした表情で鎮座している武蔵がいた。

「……気が乗らなくなったから、それだけだ。第一どういう事、はこっちの台詞だ。テメェ、あの式神の不手際はどういう了見だ」

 クライアントである千草の言葉など意に介さず、木乃香を攫える絶好の機会を自ら見逃したはずである武蔵は、逆に千草の不手際を非難した。その佇まいから怒りは感じ取れず、ただ只管に無気力さが伝わるのみである。

「くっ……!」

 千草としても今回の式神の命令ミスは一呪術師として気にしており、その負い目もあって、それ以上武蔵に反論する事はできなかった。結果的に事なきを得た事など言い訳にもならない。挙句その理由が敵に助けられたからなど目も当てられないだろう。
 二人の口論を眺めているフェイトと月詠は、我関せずを通して各々休憩を取っていた。

「フェイトはーん。それ美味しいんですかぁ?」
「いや、不味いよ。これもやはり、コーヒーの名を冠するにはいただけないね」

 自前のお茶を啜りながら、コーヒー飴を無言で舐めているフェイトに月詠が訊ねる。返ってきた答えに、物好きですなぁ、と月詠が苦笑いを浮かべながら返して、残っていたお茶を一気に呷り二杯目を注いだ。

 そんな二人を尻目に、武蔵は千草がこれ以上返す言葉を持っていない事を確認すると、ため息を吐き出してから口を開いた。

「……まぁ、俺もお嬢様を見逃した非は認めるさ。喧嘩両成敗って訳じゃねぇが、それで互いにお咎めなしって事にしようぜ」
「へ? あ、あぁまぁ、そう言うならそういう事にしといたる」

 その口から放たれたのは意外にも、己の非を認める言葉であった。まだまだ非難の言葉を浴びせられると思っていた千草は、その予想外の結末に肩透かしを食らった気分になりながらも、下手に突っ込めば無駄に武蔵を不機嫌にさせるだけだと思い、武蔵の言う通り今回の件をなかった事にした。

「しかし、今回でミスったのは痛いで……やつらきっと、すぐにでも本山に親書を届けに行くはずや。犬上の足止めもそう長く続かんだろうし……何とかその前に手を打たんと」

 意識を切り替えて、目下の問題をどう解決するかについて千草は思考を巡らせる。ネギたちが本山に親書を届ける前に木乃香を如何にして奪うか、その方法を模索していく。
 それとは対照的に、依然胡坐をかいたままの武蔵は自分の事について考え、思考に埋没していた。

『……俺は何であの時、奴らを見逃した』

 それは、一流の仕事人を自負する武蔵にとって、今後の人生すら左右しかねない死活問題であった。
 武蔵が思う仕事人とは、自らが負った仕事に対して最大限の責任を追い、クライアントの利のために行動しクライアントのその後までも保障する者の事である。今まで武蔵は、その仕事人像に従って仕事を果たし、いつしか『天劫の雷』と恐れられるまでになった。それに乗っ取るならば先の芝居で、小次郎がこれ以上ない隙を晒した時に小次郎を斬殺し、木乃香を奪い取っていなければならない。それが最もクライアントである千草の利になるからだ。
 しかし、武蔵はそれをしなかった。一瞬体を突き動かしかけたその行動理念を別の何かが押し止め、今もってなお、その身体に無気力を与え続けている。

『何か忘れてる気がする。何か―――』

 武蔵の思考がそこまで到達した時、いいですか、と静かな声が差し込まれた。声がした方に武蔵と千草が顔を向ければ、コーヒー飴を舐めきったフェイトが、いつも通りの無表情で立っていた。

「僕に考えがあります。任せてくれませんか」

 今まで与えられた役割を、それこそ人形のようにこなしてきたフェイトの初めての自発的な意思表示。少々面食らいながらも、千草がその詳しい内容を話すよう促す。

「考えやて? 一体どんな」
「とにかく、今は泳がせましょう。時期が来たら、僕が全て何とかします」
「……自信ありげやな。えぇで、お前さんに任せるわ。ただし、修学旅行も既に三日目や。失敗は許されへんで」
「武蔵さんもいいですか?」
「クライアントがいいっつってんだ。俺に逆らう権利はねぇ」

 武蔵が俺に聞くな、と言わんばかりにフェイトの提案を了承した時、千草の懐から音が鳴り響いた。通信用の呪符へのコンタクトを告げる音だ。ネギたちを足止めしているはずの小太郎からだった。

「ウチや。どないした、小太郎」
「千草のねーちゃんか……スマン、ミスってもうた。あいつら、結界抜けて本山に向かったわ」
「……まぁ、そやろな。お前さんは今どこや」
「何とか結界解除して、鳥居の入り口におる」
「分かった。今からそっち向かう、人目のつかんとこに隠れとき」

 事務的に会話を終えると、千草は通信を切り、その場のいる者達に連絡の内容を伝えた。

「小太郎から連絡や。あの坊や達、結界を抜けて本山に向かったそうや。急いで小太郎と合流して、連中を監視するで」

 了解、という全員の返事と同時に、千草達はその場を飛び去っていった。

 向かうは関西呪術本部。全ての決戦の土地―――












 後書き

 思ったよりも早く帰ってこれた。ただいま! 逢千です。
 初の東京からの更新。思っていたよりも住みやすく、寮の部屋もよいところです。
 とはいっても、前回の更新から三ヶ月ですか……もうそろそろ皆さんも私の遅筆に慣れてきましたよねー? 慣れさせないのが私の仕事なんでしょうが!
 何はともあれ、今回のお話、いかがだったでしょうか。
 とりあえず、長い。今までで一番長いんじゃなかろうか、これ。一気にシネマ村終わらせようとした結果がこれだよ!
 皆さん待望のバトル物―――と見せかけて、バトルであってバトルでない内容でしたが、楽しんでいただけたでしょうか。そこだけが結構心配です。今の時代からは逆行しまくりですからね、これ。けど小次郎と武蔵なら似合うと思うんだ。
 燕返しの強化案も出してしまいました。太刀の数を増やすのではなく、太刀の組み合わせを増やす。個人的に一番手に負えない強化案だと思います。
 そして次回からは、ようやっと修学旅行編も佳境へと入っていきます。終了はいつになるやら……。
 感想・指摘・ご意見とうとう、お待ちしております。
 では。



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