ターゲットが移動するのに合わせて、屋根の上を音を立てずに渡り歩いていく。何かの工事をする訳でもなくこんな行動を取れば、たちまち衆目を集めそうなもんだが、隠形の符を使って姿を隠している俺達には関係ねぇ話だった。
 連中はゲームセンターを出てから、道すがら見つけた店を手当たり次第に物色してるようだ。既に三十分は経っているが、振り返ってみりゃさっきのゲームセンターをまだ視界に収めることができる。
 今はお嬢様も含めて、全員が何かの店の中に入っているので、その間俺達は店の向かいの屋根に腰を下ろして、出てくるのを待つしかなかった。いくら隠形の符を使ってるとはいえ、過信して尾行してるのがバレたら目も当てられねぇ。

「暇どすなー、お師匠様」
「黙って監視してろ月詠。店からお嬢様が一人で出てきたら、その瞬間掻っ攫うんだ」

 愚痴を漏らした小間使いを叱咤しながら、睨むように店の入り口を凝視する。左隣に腰を下ろしているフェイトって餓鬼は、表情に感情がなく真面目なのかよく分からねぇが、とにかく文句は言わず監視を続けていた。

「……全く、厄介な護衛がついているね」

 かと思っていると、おもむろにフェイトがそんな言葉を口にした。それは、全く持って同感せざるを得ねぇ言葉だった。
 ゲームセンターを出てからこっち、お嬢様の傍には必ず小次郎がいて、お嬢様を守っていた。もちろん、それがどうってことねぇ相手なら強引にも奪えたんだが、あいつはそうも行かない相手だった。
 同行してる連中と雑談に興じながらも、辺りには常に気を配っており、一分の隙も見せやしねぇ。仮に、隠形の符を使ってギリギリまで近づいてからだとしても、野郎からお嬢様を奪うことは難しいだろう。
 ただ奪うだけなら、こんな苦労もねぇんだが……何分、クライアントから『騒ぎにならないように』と厳命されている。こんな人通りの多い往来で堂々攫っちまえば、たちまち騒ぎになるのは火を見るまでもなく明らかだ。

 だから、お嬢様が一人になる時を粘り強く待ってる訳なんだが……

「あ、出て来はりましたー」
「……ちっ、やっぱ小次郎が一緒かよ」

 店からお嬢様が飛び出すように出てきて腰を上げそうになったところを、まるで俺達の機先を制するように、小次郎が続いて店を出てきた。渋々腰を元通りに落ち着け、次の動きを待つ。  どうも、小次郎が同行してる連中全員に何かを買ったようだ。全員が袋を一つずつ持ってるのと、しきりに礼を言われている小次郎を見て、そう判断した。その礼の言葉に対応しながらも、やはりお嬢様と一定の距離は保っていて、仕掛ける隙は見出せなかった。流石に、俺に宿敵と認めさせるだけのことはある。

 ……それに引き換え、本来お嬢様を守るべきであるあの神鳴流剣士は、一体何をやってやがるんだ。小次郎が傍にいる間、あいつは変にお嬢様から距離を置いているし、集中もしてねぇ。これで小次郎とあの剣士の立ち居地が逆だったら、とっくの昔に俺がお嬢様を掻っ攫っている。
 名前は確か―――桜咲 刹那っつったか。あいつは、まだ小せぇ頃から色々目立っていたから、覚えている。

「あれで神鳴流剣士のつもりかよ……俺が言えた口じゃねぇが」

 初日に剣を合わせた限りでは、大いに見込みがあったんだが、今のあいつにそういうのは欠片も見出せなかった。沈んでいる表情から察するに、何か悩みでもできたんだろうが、それを仕事に持ち込むのはいただけねぇ。やっぱ餓鬼はまだ餓鬼ってことだろう。

 連中が移動を始めた。相変わらず、通り道にある店は全て物色しているので進む速度は牛歩のそれだ。小次郎も変わらずお嬢様に付きっ切りだし、このままじゃ日が暮れてもお嬢様を掻っ攫う隙は見出せそうにない。かといって、騒ぎになるような事はクライアントから禁じられてる以上、待ちに徹するしか手がねぇのも確かだ。
 何か上手いこと、堂々と掻っ攫える方法はねぇもんか……

「あの、お師匠様ー。ちょっとよろしいでしょうかー」
「何だ」
「はいー。実は、ちょっと私に策がありまして……」
「……へぇ、面白ぇ。言ってみろ」

 そこそこ自信がありそうな顔で、月詠はその策とやらを語った。フェイトと二人、お嬢様たちの動きを確認しながら耳を傾ける。

「―――なるほどな……そりゃまた、中々思い切った策だ。お前はどう思う、フェイト」
「いいんじゃないかな。少なくとも、この不毛な尾行を続けるよりは現実的だと思うよ」
「このままだと鼬ごっこになるのは見えてますし、ここは一つこちらから仕掛けるのも手かとー」

 一理ある月詠の言葉を受けて、しばし思考に没入する。
 ……詰まるところ、騒ぎを騒ぎにしなければいい。月詠が語った策はそういうことか。面倒臭ぇ手順を踏むことにはなるが、今の状況と比べりゃ、はるかにマシだろう。

「分かった、その策で行くぞ。上手く追い立てろよ、月詠」
「はいー、お任せくださーい」
「フェイト、お前もやれ。途中で脇道にそれねぇよう牽制しろ」
「了解」

 俺が策を了承すると、嬉しそうに笑みを浮かべて、月詠は早速、その策を行える場所にお嬢様たちを追いやるべく、棒手裏剣を取り出した。十分に距離を取り、一方的な射撃を続ければ、否が応でも連中はそこにたどり着くことになる。それをより磐石にするべく、別方向からも攻撃できるよう、フェイトに別行動を命じた。
 しばし足を止めて、連中が先に進むのを待つ。必要な距離が取れたところで、月詠が棒手裏剣を振りかぶり、奴らに向かって投擲を始めた。
 足を速めて、連中が逃げ出す。狼が羊の群れを追い立てるように、俺達もそれに続いていった。

 奴との戦いは近い。その悦びで震える腕を抑えるために握った鯉口は、逆にカチャカチャと、歓喜の鳴き声を上げていた。





 木乃香殿を追い、土産物屋を出たところで、少々辺りを見渡す。あえて木乃香殿を一人で店から出すことで、追跡者の姿を確認できるかと思ったが、そこまで上手くはいかないようだ。私の目が届く限り、不審な動きや気配を臭わせる者は見受けられない。

 刹那の話では、敵の狙いは木乃香殿にあるという。四泊五日の修学旅行も三日目に入った今、再び木乃香殿を攫うために私たちを尾行している者どもがいるのは、ほぼ間違いあるまい。その上で、敵の数と、宮本 武蔵がいるかどうかの二つだけは確認せねばならぬ。それが知れるだけで、対応のし易さも変わるからだ。
 生憎、今回は不発に終わったが、また機会があれば仕掛けてみるとしよう。

「なぁ、小次郎さん。今更やけど、ホンマにこれ買ってもらってよかったん?」

 考え事をしてる内に、私の傍まで戻ってきた木乃香殿が、見上げながらそう問うてきた。その手には、私がこの店で買ってやった品物が入った袋が提げられていた。

「構わぬよ。遅れてしまったが、図書館島で努力した其方らへの褒美だ。遠慮なく受け取ってくれ」
「私、図書館島に入ってないけど……いいのかなー?」
「だよね、のどか。さすがの私も、なんか悪い気がする……」
「同感です。そもそも図書館島に行く事になったのは、私達の日ごろの至らなさが原因ですし」
「私なんて、その件に関わってすらいませんよ……」
「だが努力したことに変わりはあるまい、なればこれは正当な対価であろう。刹那も、この場で一人だけ除け者にするのは悪いと思うてな、棚からぼた餅とでも思って受け取るといい」

 木乃香殿に続き、店から出てきた皆もばつが悪そうな言葉を口々に申してきたが、全く気にする必要はないと念を押した。それで一応の納得をしてくれたのか、ありがとうございます、と揃って頭を下げてきた。特に宮崎殿は何度も頭を下げてきたので、少々対応に困ってしまった。
 いつまでも店先にたむろしている訳にも行かぬので、移動を再開する。目に付いた店には大体立ち寄るので、あまり早くは進めぬのだが、追っ手がいる今、人ごみの中に長くいられるのはあり難い話である。私が木乃香殿の傍にいれば、敵も容易く仕掛けられまい。

『木乃香殿の件は、とりあえずこれでいいとして……問題はあちらだな』

 ……悟られぬよう、刹那の様子を窺う。土産物を物色しているが、心ここに非ずという様子から、何かを考え込んでいることが一目で分かった。時折木乃香殿に視線が行くことからも、その原因が先に私がげーむせんたーで放った言葉であろうことは間違いなさそうだ。

『全く、何も小難しく考えることはないだろうに……』

 依然何の進歩も見せぬ刹那に対して密かにため息をつき、店の冷やかしを終えた皆が新たな店を求めて歩き始めた、その時だった。

「……!?」

 背後から指すような殺気が飛んでくるのを感じた。その直感を裏付けるように、空気を割く音が耳に届く。弾かれるように振り向き、いち早くその正体を看破し、それを掴みとった。

「小次郎先生、どうかしたですか?」
「いや、何でもない。少々、虫がまとわりついてきてな」

 勘よく私の動きに気づいた綾瀬殿が、こちらを振り返って不思議そうな顔で問いかけてくる。咄嗟に掴んだものを見られぬよう隠しつつ、適当な言い訳を返した。
 そうですか、と綾瀬殿はそれで興味を失ったのか再び前を向いて、宮崎殿と早乙女殿、そして木乃香殿との雑談に興じながら歩みを再開した。

「―――」

 だが、刹那だけは私の仕草から何かを感じたのか、足を止めてこちらに視線を向けてくる。察しのいい刹那に感謝しつつ、目配せで『木乃香殿についていてくれ』と伝えると、僅かな躊躇いの後、表情を引き締めてから木乃香殿の下へと向かった。

 視線だけを下に落とし、掴んだものを確認する。
 鉛筆のような形状、黒光りする表面、冷たい感触とずっしりした重さ……紛れもない棒手裏剣が、私の手に握られていた。
 こんなものが飛んでくるということは、ついに向こうから仕掛けてきたということだろう。意識を戦いのそれに切り替えて、神経を研ぎ澄まし次に備えつつ、足早にこのか殿たちを追った。

 矢継ぎ早に、二本の棒手裏剣が空を切って飛んでくる。殺気の向きと風切りの音を頼りに、最小限の動きで掴み、皆に悟らせぬよう捌いていく。受け止めた棒手裏剣は、邪魔にならぬよう懐に収めておく。

『しかし、何故いきなり……』

 周りにある屋根の上を移動するいくつかの気配を感じながら、私は追っ手が急に仕掛けてきた理由を考え始めた。
 先ず一番不可解なのは、投げつけてきているこの棒手裏剣だ。けん制するにしろ何にしろ、万が一当たってしまえば大騒ぎとなり、連中も木乃香殿を奪うどころではなくなってしまうからだ。
 次に不可解なのは、今こうして仕掛けてきていること自体だ。何故わざわざ、居所を教えるようなことをするのか。事実、三回の攻撃を受けて、大まかな位置は掴むことができている。これは十中八九、策があると見て間違いあるまい。とするならば、棒手裏剣を投げつけてきていることにも、何か意味があるのだろう。

 どこかの店に立てこもるべきか、足を速めてここを抜けるべきか……
 判断を急かすように棒手裏剣が飛んでくる。皆が次に店の冷やかしを始めるまでに決めねば、強制的に店の中へ追い込まれる形となってしまう。そんな焦りが、余計に私を焦らせる。

『……それは拙いな。あんな狭い店内では、まともな対応もできぬ』

 ここはとにかく、足を止めぬようにするのが先決か。そのためにも適当な話題を振らねばなるまい。
 素早く辺りに視線を走らせると、一つ気になる看板を見つけた。

「刹那よ。歩いたままでいいのだが、あの看板に書いてあるシネマ村とは、一体なんなのだ?」
「え? あ、はい。その、なんと言いますか……」

 少し露骨になってしまうかも知れぬが、木乃香殿と共に先頭を歩いている刹那に『立ち止まるな』と告げつつ、シネマ村とやらの説明を求める。私の意を汲み取り、足を止めぬまましばし言葉を整理してから、刹那が答えてくれた。

「昔の城下町の造りを再現した観光名所……だったはずです」
「そそ。あと、中では時代に沿ったコスプレもできて、ちょっとしたタイムスリップ感覚を味わえる場所なんですよー」
「ふむ……とういことは、それなりに広い場所か」
「はいです。ちょっとした遊園地くらいの大きさはあります」

 刹那も詳しく知らなかったのだろう、シネマ村についての説明は漠然としていたが、早乙女殿と綾瀬殿が補足を入れてくれた。それを受けて、素早く行き先を決断する。

「では、次はそこへ行かぬか。実は、土産物巡りにも少々飽いてしまってな」
「ええよー。ほな、シネマ村へレッツゴーや!」

 若干の本音を混ぜつつ告げた要望は、思った以上にあっさりと通った。木乃香殿の号令に合わせて、皆が『おー!』 と片手を上げて声を上げる。こういう空気に慣れておらぬ刹那は無論付いて行けていなかったが、繋いだ手ごと木乃香殿が上げていたので、自然と似たようなぽーずを取っておった。
 いつもながら元気の有り余っておる姿に笑みが浮かぶ。だがそれもつかの間、棒手裏剣が飛んできたが再び掴み取り、皆に気づかれぬようしまい込んだ。

 そのまま雑談を交わしつつ、時折飛んでくる棒手裏剣を処理して歩いていくと、大きく『シネマ村』と書かれている建物が目に入った。木乃香殿がその建物を指差し、真っ先に声を上げる。

「ほら小次郎さん、あれがシネマ村やよー」
「うーん、今からどんなコスプレするか迷っちゃうなぁ」
「気が早いですよ、ハルナ」

 既に中に入ってからの事を考えている早乙女殿に、綾瀬殿が苦笑いを浮かべる。しかし、綾瀬殿もシネマ村に入ることが楽しみなのか、足が少し速まっていた。
 シネマ村の入り口へ行き、中に入るための金を払う。刹那を先頭に、皆が中に入ったのを確認して、私はシネマ村に入らず足を止めた。

「あれ? どうかしたん、小次郎さん」
「うむ。申し訳ないが、少々気になる店を見つけてしまってな。ほんの数分、そちらを見てきても構わぬかな?」
「分かりましたです。では、更衣所で服を着替えていますね」
「承知した。私も直ぐに向かおう」

 断りを入れてから振り返り、少々人目につかぬ路地へ移動する。無論、気になった店などない。ちょっとした所用を済ませるためだ。
 辺りに視線と感覚を走らせ、連中の居所を探る。居場所が判明すると、目標まで遮蔽物のない場所へ改めて移動してから、私は気を解放し、棒手裏剣を一本構えた。
 最小限の動きで振りかぶり、全力を持って投擲する。黒い物体が彼方の空に消えるように飛んでいった。
 その方向を睨み、笑みを浮かべて、一つの言葉を送る。数秒そうして満足したところで、振り向いてシネマ村へと足を向けた。

「きゃっ」
「むっ」

 これ以上待たせてはならぬという思いからか、足早に路地から飛び出してしまい、通行人と勢いよくぶつかってしまった。あろうことか相手は女性であり、突き飛ばされた拍子に尻餅をついてしまっている。

「これは申し訳ない。怪我はありませぬか」
「いたた……ご親切にどうも」

 急ぎ手を差し出しながら怪我の有無を尋ねる。幸いにも怪我はなかったようで、女性は私の手を取り、引き上げるのに合わせて立ち上がった。

「失礼しました。私、少々急いでいたもので……」
「いや、悪いのはこちらであろう。不注意で飛び出してしまい、失礼致した」

 深々と丁寧に頭を下げてきた女性に対し、そちらに非はない、と頭を下げ返す。それでも女性は中々頭を上げず、頭を上げてくれぬか、と私が声をかけるまでそのままにしていた。
 頭を上げたことで、女性の容貌が私の目に映る。落ち着いた声質と、スミレの模様が描かれた紫色の着物を見事に着こなした格好から、てっきり四十頃のご婦人かと思っていたが、予想に反してその顔にはあどけない若々しさがあった。艶やかな黒髪は三つ編みになり、それが後頭部のやや低い位置で団子にされていて、なお更顔立ちとの不釣合いが目立つ(小次郎は知らないがシニヨンという髪型である)。それでも不思議な一体感を感じるのは、何気ない仕草から洗練された女性を覗き見ることができるからであろうか。

「では、私はこれで。本当に失礼しました」

 最後に軽く頭を下げながら、不思議な女性は私の横を通り過ぎ、淑やかな足取りで去っていった。
 すれ違う時、匂い袋でも仕込んでいるのか甘い香りが漂い、それに釣られるように振り返り、しばし後姿を見つめる。

『……美しい女性だ』

 あれほどの大和撫子が今の時代にもいたのかと、一見した素直な感想を内心で漏らした。短い生涯ながら、私が生きていた頃でも片手で数えられるほどしか見たことがないほどだ。

「……っと、呆けておる場合ではないな」

 軽く頭を振って意識を切り替え、今度こそ、皆を待たせているシネマ村へと足を速めた。





 最後に小次郎がシネマ村に入ったのを確認すると、月詠は棒手裏剣を懐に収め、満足そうな笑みを浮かべた。
 思惑通り、木乃香たちをシネマ村へ追い立てることに成功した。後は、騒ぎを騒ぎにせずに起こして、堂々と木乃香を攫ってしまえば、千草の計画は成功する。しかも今回は初日と違い、『天劫の雷』宮本 武蔵も出張っているのだ、失敗する方が難しいというものだろう。己が師に全幅の信頼を寄せているからこそ、月詠はそう判断した。

「上手く行きましたな〜、お師匠様。後はもう楽なもので―――」

 やや浮かれた気持ちで、隣にいる武蔵に声をかけた月詠は、その表情を目にした瞬間、一気に顔を青ざめさせた。
 まるで世界の全てが気に入らないというような表情で、武蔵が屋根の上に座り込んでいる。その度合いを示すように、先程小次郎が投げつけてきた棒手裏剣が、武蔵の手の中で捻り潰されていた。
 小次郎が棒手裏剣をこちらに放った意図なら明白だ。する必要など欠片もないのに、わざわざこちらに棒手裏剣を投げ返し、あまつさえ笑みを浮かべた一連の流れから、言いたいことは一つしかない。『来るなら来てみろ』と、小次郎は武蔵達を挑発したのだ。
 まさか武蔵は、それが原因で不機嫌になっているのか―――そう考えた月詠は、すぐさまその可能性を切り捨てた。
 武蔵は、小次郎を宿敵と称するほどに認めている。そんな相手から挑発されれば、あの武蔵が喜ばないはずがない。

『まさか、原因は―――』

 その考えに至った瞬間、月詠は素早く片膝を突き、深々と頭を垂れた。

「失礼しました、お師匠様!」

 何の前触れもない謝罪を受けて、武蔵が月詠の方に顔を向ける。

「何を急に謝ってやがる、月詠」
「仕事が完遂される前に、軽はずみな発言を致しました。どうかお許しを……」

 武蔵に小間使いとして仕える事になってから数年。月詠が勝手に呼び始めたから当然だが、師匠らしいことをほとんどしてこなかった武蔵が、唯一月詠に教え込んだ一つの教え……仕事人としての心構えがあった。

 ―――いつ何時、どういう不測の事態が起こるか分からねぇ。仕事中、他の誰が気を抜いてても、お前だけは気を抜くな。

 教えられた事が少ないからこそ、月詠はこの教えを厳守してきた。性格や口調が軽い印象を他人に与えようとも、その裏で誰よりも気を張って仕事をこなしてきた。
 それが、ここに来てこの体たらくだ。武蔵の期待に応えられて浮かれてしまった事など言い訳にもならない。次に武蔵の口から放たれる言葉を恐れてか、月詠の手が微かに震えていた。

「……あぁ、なるほどな。安心しろ、俺の不機嫌の理由はお前じゃねぇ。上手く追い込んでくれたな、良くやったぞ月詠」
「へ?」

 だが月詠の不安とは裏腹に、武蔵の口から放たれたのは賛辞の言葉だった。それが全く予想の外だったのだろう、間の抜けた音を漏らして、口を開けたまま武蔵を見やった。

「何て顔してやがる。それより、まだ第一段階が終わっただけだろう。次の準備をしに行くぞ、フェイトはもうシネマ村に入ってる」
「……あ、は、はい〜」

 話はこれで終わりだとでも言いたげに立ち上がると、武蔵はそれだけ言い残して、先に屋根を下りてしまった。
 結局武蔵の不機嫌の理由が分からなかった月詠は首をかしげつつも、褒められて嬉しくなった気持ちを引き締めて、武蔵の後を追いかけて行った。












 後書き
 夏休みのほぼ全てをバイトにささげることになった。逢千です。
 さて、三十二話はいかがだったでしょうか。
 ほとんど原作と同じような流れですが、随所に少々オリジナルな流れを組み込んで見ました。お気に召せば幸いです。
 色々と伏線を張った今回の話ですが、いつ回収されるかを楽しみにしていてください。
 ……今回はやけに、話すことが浮かばないなぁ。
 感想等々、お待ちしております。
 では。


 感想掲示板へ


 三十一話へ


 三十三話へ


 戻る