京都の一角に『大海』という名前の旅館があった。
 創業から六十年の月日が経っており、歴史ある旅館の一軒として知られている。建物自体も、以前ここで運営されていた旅館が店をたたむ際に買い取り、修繕したもので、築百年は超えていた。
 特別目玉と呼べるものはない、極ありふれた旅館であるが、良心的な値段と美味い料理、そして今やなくなりかけている古き良き日本の情緒を満喫できる旅館として、知る人ぞ知る穴場という位置づけを受けていた。
 天ヶ崎 千草の一行は、この『大海』に部屋を借りて、今回の作戦の拠点としていた。


「はぁ〜、えぇ湯やったわぁ」


 浴衣に身を包んだ黒髪の少年が、上機嫌にそう言いながら襖を開いた。言葉の通り温泉に浸かっていたのだろう、髪の毛はまだ生乾きであり、肌には汗が浮いていた。
 少年―――千草に雇われた一人である、犬上 小太郎は、団扇片手に牛乳を飲んでおり、いかにも温泉宿を満喫している風である。
 そんな小太郎の姿を見つめる目が二対あった。
 一人は『天劫の雷』、宮本 武蔵である。入ってきたのが同室である小太郎だと知ると、それきり興味を失って、空になったぐい飲みに酒を注ぎ始めた。
 もう一人は、小太郎と同年代に見える少年で、名をフェイト・アーウェルンクスと言った。イスタンブールの魔法協会から派遣された魔法使いであり、偶然千草と出会い、勧誘を受けてここに来ていた。
 白髪に濃い空色の瞳、色素の薄い肌をしており、一見して美少年と断ずることができよう。小太郎も武蔵も旅館の浴衣を着ている中で、一人だけ灰色の学生服を着ていた。
 フェイトは感情の乏しい表情で小太郎を一瞥すると、武蔵と同じく、興味を無くしたように視線を切った。
 そんな二人を気に留めた様子も無く、おもむろに小太郎は、腰に手を当てて残っている牛乳を全て飲み干した。


「―――ぷっはぁ。やっぱ風呂上りにはコーヒー牛乳やなぁ!」


 見た目相応の子供らしさを前面に押し出している小太郎の口元には、牛乳髭が生えていた。満ち足りている笑顔は、今にも輝きだしそうである。


「おいフェイト、お前も飲むか? いけるで、このコーヒー牛乳」


 テーブルの前に腰を下ろし、ウキウキとテーブルの上に乗っていた菓子―――月詠が武蔵のつまみと一緒に買ってきた―――を摘みながら、小太郎がフェイトに未開封のビンを差し出した。
 会ってからまだ数日しか経っていないが、小太郎はフェイトに『感じの悪い根暗な男』という印象を持っていた。
 仕事仲間として顔を合わせた時も、フェイトは名前を名乗っただけで、それ以上何かを語ろうとはしなかったし、他人から勧められた水や菓子も受け取ろうとはしなかった。
 それでもコーヒー牛乳を勧めたのは、何とない気まぐれである。いけ好かない相手とはいえ、仕事仲間である以上、同じ部屋にいて一切口を利かないというのは嫌だったからだ。
 どうせ断られるんやろうな―――そう思いながら、小太郎はフェイトの返事を待った。


「いただくよ」
「お、おう……。今開けたるわ」


 しかし、フェイトの返事は予想を外れて受け取りを示すものであった。しかも返事が随分と早かった。どういうこっちゃ、と首をかしげながらも、小太郎はビンを振ってキャップを外し、再びビンをフェイトの前に置いた。
 フェイトは興味深そうにビンを眺めたり、中身の匂いを嗅いだりしていたが、一口口に含んで飲み込むと、途端に顔をしかめて見せた。


「何や、口に合わなかったんか?」
「…………これ、本当にコーヒーかい?」


 まるで存在そのものを疑うような顔で、フェイトは小太郎に問いかけた。そして小太郎の答えを待たぬまま、不満を口にしていく。


「こんなのは邪道だよ。コーヒーはコーヒー、牛乳は牛乳として飲むべきだ。よくこんな、甘ったるいものが飲めるね」
「ええやんか、俺はこれが好きなんや」
「コーヒーは苦味あってこそのものだよ。ミルクを少し加えるならまだしも、そんな虫歯になりそうなくらい砂糖を入れたもの、コーヒーの一種とは認めたくないね」
「どっちかってぇと、牛乳の一種やと思うけどなぁ」


 大のコーヒー好きであるフェイトからすれば、真剣に議論するに足る議題であるのだが、コーヒーにも牛乳にもこだわりのない小太郎からすれば、どうでもいい話題に他ならない。なおも自論を展開するフェイトを眺めながら、菓子を摘みつつ相槌を打っていく。


『なんや、けっこう面白い奴やん』


 熱弁を振るいつつも、フェイトの表情も声もいつもと同じ感情の乏しいものだったが、小太郎は初めて、フェイトに人間味と言うものを感じていた。
 人間話してみないと分からない、というのは本当だったのだと、小太郎は思い知った。
 そのままお互いの飲み物の趣向について話を発展させて、小太郎とフェイトが語り合っていると、武蔵が唐突にその場で立ち上がった。何事だと、フェイトと小太郎から視線が集中する中、晩酌セット一式を抱えて窓際に移動した武蔵は、ぶっきらぼうに腰を下ろすと、


「…………ちっ。子守まで引き受けた覚えはねぇぞ、あのクライアントめ」


 窓枠に頬杖を突き、外の風景を眺めながら、ボソリと呟かれた一言。普通なら聞き逃してしまいそうな声の大きさであったが、普通ではない環境に身を置く二人の少年の耳は、その呟きも聞き逃すことは無かった。


『何が子守や……俺はそんなガキちゃうで』


 思春期の少年にありがちな、子供に見られたくないという感情は、裏の世界に身をおく小太郎にもあったようだ。表情にはありありと不満げな色が表れている。
 普段なら「俺はガキちゃうわ」と相手に詰め寄るところであるが、今回はそういった不平を飲み込むように、一気に水を呷るだけに収まっていた。
 幼い頃から、関西を中心にして裏の仕事をこなし生きてきた小太郎である。関西呪術協会や神鳴流のことは当然知っており、名高い使い手も網羅していた。


 その中でも極めて異色を放っていた一人が、『天劫の雷』こと宮本 武蔵である。
 その実力足るや全盛期においては、神鳴流でも三本の指に入ると謳われていて、青山鶴子―――神鳴流宗家の前当主であり、神鳴流の歴史上でも一、二を争う使い手―――と並び称された数少ない男であった。
 無理難題としか言いようのない依頼を次々解決し、多くの神鳴流剣士の憧れと畏怖を集めた。
 宮本家の当主として申し分ない威厳と統率力を示しもした。
 しかし、その名声は、徐々に狂いを見せ始めた。  詳しいところまで調べなかった小太郎には、その狂いの理由は分からなかったが、『人斬りに走った』という噂まで流れたらしいのだから、その程度が窺える。
 最高の名誉と力を持ちながら、人斬りに走った、などと噂されるまで堕ちた男。
 だからこそ、千草から仕事仲間に武蔵がいると聞いた時は、大層緊張したものだったのだが……


『初見の感想は、なんてーか……気の抜けたよーなおっさん、としか言いようがないわなぁ』


 髪の毛はぼさぼさ、髭は伸びっぱなし、服はくたくた。目にはぐったりとした鈍い光しかなく、覇気やオーラなどは欠片も感じ取れなかった。
 例えるなら、炭酸が抜けた炭酸水、とでも言うのだろうか。
 無論、強者であることに変わりはなかったのだが、青山鶴子と並び称された男には、到底見えなかった。肝心な何かが抜けてしまっていたのだ。
 その思いは、小太郎が黙ったことで話し相手を失ったフェイトも同様であった。
 予め千草から説明を聞いていなければ、それほどの実力者であるとは思えなかっただろう、というのがフェイトの正直な気持ちである。
 出自が少々特殊であるフェイトは、年に見合わない実力と、相当数の修羅場をくぐって来ている。それだけに、武蔵の現在の実力は、小太郎以上に正確に看破しており、自分の敵ではない、と密かに評価を下していた。


『……そのはずだったんだけど、ね』


 だからこそ、今の武蔵の変わりようには、驚愕を禁じえなかった。
 それは、ぼさぼさだった髪の毛が綺麗に整えられているとか、一本の剃り残しもない髭だとか、服が新品に変わっているとか、そういった外見的なことではない。
 身に纏う雰囲気と、武蔵から感じる印象が、全く別物に変わっていたのだ。
 一見すれば大した変化は見受けられないのだが、その奥深くに、言い知れぬプレッシャーを感じるようになっていた。古強者が持つ凄み、とも言えるだろうか。息苦しさを覚えるような重圧が、今の武蔵にはあった。
 しかも、そのプレッシャーは日に日にどころか、一分一秒経つ事に強まっている気がしてならないのだ。男子三日会わざれば活目して見よとは言うが、武蔵のそれは度が過ぎている。ほとんど生まれ変わりに近いレベルだ。


『変化が起こり始めたのは確か、初日の夜、近衛 木乃香の奪取に失敗してからだったかな……』


 一体何があったのか、興味は尽きないが、聞いたところで教えてはくれないだろうと、フェイトは残っていたコーヒー牛乳を一気に飲み込んだ。


「お、なんや。気に入らないなんて言っといて、ちゃんと全部飲むんやな」
「今更つき返すこともできないだろ。一度口をつけたんだから、自分で処分するさ」
「そかそか、そらいい心がけや。んで、さっきの話の続きやけどな―――」


 狙った訳ではなかったが、上手い具合に小太郎が話しに復帰してくれたので、フェイトは再び、小太郎との会話に戻っていった。
 部屋の入り口の戸が叩かれたのは、それからしばらくしての事だった。


「誰だ」
「月詠です、お師匠様〜」
「入れ」


 端的に告げられた武蔵の言葉を聞いて、月詠が音も無く戸を開いた。
 しかし部屋の中には入らず、襖の直ぐ向こうに正座をすると、そのまま用件を口にした。


「お師匠様、湯浴みなどいかがですか〜? そろそろ頃合だろうと伺ったのですが〜。都合のいいことに、ここのお風呂は混浴みたいですし〜」
「……そうだな、そうする」


 ぐい飲みに残っていた酒を飲み干すと、武蔵は立ち上がって部屋を出て行こうとしたが、その背を小太郎が呼び止めた。


「ちょ、ちょお待てや、天劫のおっさん」
「あぁ?」


 咄嗟のことだったので、ついおっさん呼ばわりしてしまい睨まれて、内心で冷や汗をかいた小太郎だったが、特別気分を害した様子も見せない(というかいつも不機嫌そうな顔だが)武蔵を見て、そのまま呼び止めた理由を話していった。


「ま、まさか、あの月詠って女と一緒に風呂に入るんか?」
「……あぁ、そういう事かよ。別に、弟子が師匠の身の回りの世話するなんざ普通だろうが」


 それだけなら行くぞ、と最後に言い捨て、小太郎の返事を待つことも無く、武蔵は月詠を引き連れて部屋を出て行ってしまった。
 残されたのは、女と風呂に入るのが信じられない呆然とした小太郎と、心底どうでもいいと思っているフェイトの二人だけである。


「……ホンマ、色々規格外な人やなぁ」
「一応、同意はしておくよ」


 コーヒーの話題に引き続き、二人の間に奇妙な連帯感が生まれた瞬間だった。


「おーい、天劫はんに犬上に新入りー。そろそろ作戦会議を―――あれ、天劫はん、どこ行ったん?」


 月詠と入れ替わるように、今度は千草がひょっこりと顔を覗かせた。しかし、キョロキョロと部屋を見渡し、全員が揃っていない事を確認すると、首をかしげた。
 彼女もまた風呂上りなのだろう。黒髪にはしっとりと水気が含まれていた。


「彼なら、弟子を連れてお風呂に行ったよ、天ヶ崎さん」
「なんや、月詠はんいないと思ったら、そんなことしとったんか。しゃあない、二人が戻ったら、作戦会議するでー」
「おーう」
「了解」


 天ヶ崎一行の夜は、こうして深けていった―――












 後書き
 久しぶりの一週間更新。書きやすいキャラだと違うね。逢千 鏡介です。
 天ヶ崎一行の話なのに、千草の出番が少なすぎる今回の話。いかがだったでしょうか。
 もう少し出番をあげたいんですが、私の技量ではこれが限界のようです……。情けなし。
 フェイトと小太郎がフランクに見えるのは、いつも執筆の相談をさせていただいている友人の影響を受けてのものです。あの人はほんと、色々なことを考え付きなさる。
 次回からは、とうとう三日目に突入です。私が『花鳥風月が歩き出す』でやりたかったことの大半が、この三日目に詰め込まれています。ご期待ください。
 感想とうとう、お待ちしております。
 では。


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