古殿と楓殿が一階に降りていくのを見送る。他の3−Aの生徒ならいざ知らず、試合によって取り付けた約束を、あの二人は破るまい。改めて、巻き込まれてしまった楓殿に同情の念を抱いた。
 踵を返し、ネギの部屋へと向かう。途中、古殿の一撃を紙一重で避けた場所で一度足を止めて、最後の一瞬の攻防を思い返した。


 ……あの瞬間、私に退路は無かった。唯一左側に活路が開いておったが、逸歩を以ってしても回避は不可能であったろう。それほどに古殿は強かった。
 敗北。この二文字と共に叩き込まれる痛みに備えて腹筋を締めようとした刹那、不可能を可能とする技法が脳裏に蘇り、考えるよりも早くこの身はそれを実行していた。
 気を足元に溜めて一気に爆発させることにより、長い間合いを一足で詰める歩法……瞬動。
 私はこれを用いて、肘打ちが決まるよりも早く古殿の右横を一気に駆け抜け、古殿の追撃が不可能なほどの距離をとったのだ。
 何度か実物を見たことがあり、簡単な原理も刹那から聞いてはいたが、まさかぶっつけ本番で試すことになるとは夢にも思わなんだった。


「見よう見まねで、何とかなるものだな」


 とはいえ、『抜き』はお粗末の一言であり、移動できた距離も大きなものではなかった。刹那や刀子殿のそれに比べれば、粗雑もいいところであろう。ただ『入り』が事のほか素早かったのは、恐らく逸歩のおかげであろう。
 先の私がやったことは正に、火事場の馬鹿力、という言葉が相応しかった。もう一度同じことをやれと言われても、成しえる自信はない。


「しかし……やはり、気は不用意に使えぬな」


 依然として乱れている呼吸と鼓動を整えようと、深呼吸をしながらそう呟いた。程度が軽いとはいえ、たった一度の瞬動で息が上がってはとても実戦での使用は不可能であろう。修学旅行から帰ったら、刹那やエヴァも交えて、そこらの改善策を考えねばなるまい。
 とりあえず、今はいち早くネギの部屋にたどり着こう。そう意識を切り替えて、止めていた足を再び動かし始めた。
 ネギの部屋が近づいてくると、またもや喧騒の空気が色濃くなっているのを感じた。もしや、既にネギの部屋に誰かがたどり着き、唇を巡り争っているのであろうか。
 これはいかんと、歩く足を早める。果たしてそこで、3−Aの女子ら三人が取っ組み合いをしておった。


「だから、枕の上からだろうと本で殴るのは反則だってー!」
「朝倉さんからストップの声がかからない以上合法です!」
「きあー! い、痛い、角が痛いですー!」


 戦局は一方的なものであり、攻めている側の綾瀬殿は、何故か分厚い本で相手二人―――名は知らぬが、瓜二つな外見から双子であることだけは分かった―――を攻撃しておった。
 聞こえた会話から察するに、本での攻撃は反則に分類されているようだ。あれの角は中々に痛い。恐らくそれが理由であろう。
 ほんの十数分前に二階で見た光景に非常に似ておるのを感じながら、近づいて騒ぎを収めるために綾瀬殿の首根っこを捕まえた。


「あうっ……!? こ、小次郎先生」
「まさか、其方まで参加しておったとはな、綾瀬殿。其方はこういう催し事は嫌うと思っておったのだが」


 私の目線の高さまで綾瀬殿の顔を引き上げて、横目に見ながら正直な感想を漏らす。自分がここまでと悟ったのだろう、見る間に綾瀬殿の体から力が抜けていった。


「ちゃーんす! 逃げるよ史伽!」
「え、あ、待ってお姉ちゃ―――」
「逃がすはずが無かろうが」
「きゃあ!?」
「うわっ!」


 綾瀬殿に意識が向いている間に逃げ出そうとした双子の姉妹だったが、それよりも早く間合いを詰めて続けざま、片手で捕まえてしまう。幼子同然の体躯とはいえ、二人まとめて抱えるのは骨が折れるので、気を使い多少の補助をしておいた。


「さて、無論覚悟はできておろうな? できてなくとも連行するのだが」
「なら聞くなー!」
「あうぅ、正座いやですー」
「のどか、幸運を祈ります……」


 三者三様の断末魔を無視し、新たに三人を正座組に追加するために一階へ足を向けようとした、その時だった。


「ひやあぁぁぁっ!」


 私の背後―――ネギの部屋から、絹を裂くような悲鳴が響く。この声は確か……


「宮崎殿か……!」
「の、のど―――きゃっ!」


 両手に抱えていた三人を、半ば放り投げるようにして部屋の入り口から遠ざける。乱暴に過ぎる手段であるが、四の五の言ってはおれぬ。
 修学旅行が始まってからこっち、関西呪術教会の刺客はあの手この手でネギの親書を抹消しようとしてきた。最初はその手段も、密やかなものに収まっておったが、徐々に性悪なものになっていき、それが誘拐にまで及ぶようになってしまえば、あらゆる可能性を考える必要が生まれる。


 即ち、私が学園長殿から話を聞いた際に最初に懸念した、直接的な妨害だ。しかもネギだけでなく、生徒まで対象に含められているから性質が悪い。
 ならば、綾瀬殿や双子の姉妹を今のネギの部屋に近づけるわけには行かず、ましてや入るなどもっての外である。


「三人とも、私がいいと言うまで、そこを動くでないぞ!」


 叫び気味に命令を飛ばしつつ、意識を最大限まで高め、如何なる奇襲にも対応できるよう備える。
 恐らく、密かに中に進入した宮崎殿が、ネギの新書を奪いに来た関西の者と鉢合わせたのだろう―――
 もしかしたら、宮崎殿が人質にとられていることもありえるやも知れぬ。何があっても体を動かせるよう、最悪の状況を想定してから吹き飛ばすように扉を開け放ち、中に踏み入った。
 部屋の電気は消えていた。つけっ放しになっているテレビから漏れる明かりが、ぼんやりと部屋全体を照らしあげている。私が開け放った扉から差す廊下の明かりは帯のように部屋を横断し、その中に布団にうつ伏せに倒れている宮崎殿を見つけた。


「宮崎殿、大丈夫か」


 部屋に何者も潜んでおらぬのを確認してから、急ぎ駆け寄って僅かに身を揺すりながら声をかける。どういう風に倒れてしまったのか分からぬ以上、下手に体を動かすわけには行くまい。


「う〜ん……ね、ネギ先生が五人で、忍者でぇ〜……」
「……何を見たのだ?」


 とりあえず無事のようだが、意味不明な呟きに思わず首をかしげる。ネギ、という単語がある以上、私が懸念していた西の刺客が現れた訳ではなさそうだが。
 唐突に、冷たい夜風が私の頬を撫でた。そちらに顔を向けてみれば、部屋の窓が開いてるのが目に映った。


『まさか、口付けを拒否したネギが、窓から逃走したのか?』


 普通ならありえそうな話であるが、あのネギが気絶した女性を、それも自分の生徒である宮崎殿を放ったらかしにするとは考えにくい。五人のネギ、という言葉も気になる。一体宮崎殿に何があったというのだろうか。
 あれこれとこの状況に至った経緯を考えようとするが、どうにもそれらしい答えは出てこぬ。とりあえず、危険もなさそうなので宮崎殿を綾瀬殿に任せるべく、一度部屋を出た。


「……あの双子はどこへ行った、綾瀬殿」
「先ほど、ネギ先生が部屋にいないことを知ったとたん、駆け出していきました」


 何処かへ消え去った双子の行方を綾瀬殿に尋ねると、何とも呆れた答えが返ってきた。これは、少々据える灸をきつくしなければなるまい。


「あの、のどかは無事なのですか?」
「うむ。何があったかは分からぬが、大事ないようだ。
 それと、綾瀬殿。私はこれから、残りの者たちを捕らえに行く。その間、宮崎殿を任せたい」
「え……わ、私は構いませんが、その、正座は?」


 私のいきなりの提案に面を食らったのか、綾瀬殿は自ら『罰を受けなくていいのか』と申してきた。


「私が戻るまでこの部屋で大人しくしておったら、友人思いの其方に免じて不問にしよう」
「は、はぁ……」
「とにかく、頼んだぞ」


 まだ事態の展開を飲み込めていないのか、綾瀬殿は生返事を返すばかりで、要領を得ない。ネギがおらぬということも気がかりだった私は、呆気にとられておる綾瀬殿を残して、急ぎ気味にネギの部屋を後にした。



 ……後に、この時ネギは外の見回りに行っており、刹那から譲り受けた『身代わりの紙型』を使って影武者を立てていたと知るのだが、この時はそれを知る由もなかった。








 お湯の中へ肩口まで体を沈め、背中を岩に預けた状態で大きく息を吐く。
 さっきの見回りで溜まった疲れが、お湯の中に溶け出すような感じ。これこそ温泉の醍醐味だと思う。このまま眠ってしまいそうなくらい気持ちがいい。
 春とはいえ、夜になると冷えるのは、昨日の内に分かっていた。普通なら服を重ね着したくなるような夜風も、温泉に浸かっている今の状況だとちょうどよかった。


 ……あの特別突き出た岩のところに、何で『Don’t Touch! 接着中 ネギ』って札がかかってるのかは気になるけど、今はおいておこう。


「はぁー、いいお湯だねー、桜咲さん」
「そうですね……」


 私の隣で、同じく温泉に浸かってくつろいでいる桜咲さんに話題を振るけど、それっきりで会話が途絶えてしまう。昨日今日親しくなったばかりで当然といえば当然だけど、二人っきりというこの状況だと、それはちょっと困る。
 温泉に入ってからずっと、何とか話題を見つけては話を振っていたけど、そのどれもが二言くらいの会話で終わってしまっていた。


『共通の話題がないと、やっぱり話を続けるのは難しいわねぇ……』


 かといって、共通の友人―――木乃香のことを話すわけにはいかない。桜咲さんと木乃香は、何だか難しい関係にあるみたいだし、下手にそこに触れたら、余計に気まずくなってしまう。さすがに私でも、それくらいの空気を読むことはできる。
 なので、ついさっきお世話になった、共通の知人について話を振ることにした。


「さっきはありがとうね、桜咲さん。小次郎先生に言い訳してくれて」
「あ、いえそんな。女子更衣室を見回れないというのは、本当の事でしたし」
「いくら小次郎先生でも、女子更衣室は無理だからねぇ」


 案外、髪の毛を下ろしたら、いけるかもしれないけど。少なくとも後姿だけは、そう見えなくもないと思う。
 まぁ、普通にただの変態だけど、小次郎先生ならあるいは、と思わせるところが怖い。


「ところでさ……小次郎先生って、ちょっと変わってるよね」
「か、変わっている? 具体的に、どの辺りが」
「んー……何ていうか、全体的に」
「そ、そんな身も蓋もない……変わっているという点には、まぁ同意しますが」


 話の発展の為に、私が常々思っていた小次郎先生への感想を口にすると、桜咲さんは私の口ぶりに呆れながらも、一応の同意をしてくれた。
 そのまま、私は思うまま小次郎先生が変わっていると思う点を口にしていく。


「口調がまずそうだし、考え方も硬派なのか軟派なのか分からないし、平気で刀持ち歩くし……さっきだって、あっさり私たちが温泉入ること許してくれたし。うん、やっぱり変わってるわよ、全体的に」
「そ、それはそうですが……神楽坂さんが思ってるほどではありませんよ? 口調は個性ですし、あれで考え方には芯が通ってますし。……刀については、私が言えた事ではありませんが、学園長先生から許可を貰っていますよ」
「聞いた話だと、部活の稽古で気絶するくらい打ち込むって話じゃない。今どきそんなスパルタするのも変わってない?」
「小次郎さん自身が、そういう厳しい稽古を通じて剣を修めた人ですから、同じように強くなって欲しいんだと思います」
「……私、一回小次郎先生に斬られそうになったことあるんだけど」
「……じ、状況が分からないので何とも言えませんが、きっとやむにやまれぬ事情があったのでしょう」


 私が何を言っても、桜咲さんは小次郎先生を庇うような言葉を返してくる。これならどうだと、少し意地の悪い例―――茶々丸さんとの一件の時―――を出してみたけど、ばっちり小次郎さんよりの発言をしてきた。少し苦しい気がするけど、だからこそ、何だか……


「―――随分、小次郎先生の肩を持つのね、桜咲さん」
「ま、まぁ……というか、今の神楽坂さんの笑み、凄く嫌な予感がするんですけど」


 ……何だか、すごーく怪しい。


 きっと今の私の顔は、ニヤニヤという擬音が聞こえてきそうな笑みを浮かべているのだろう。桜咲さんが嫌な予感を感じるのも仕方ない。事実、そういうことを考えているのだから。
 そして私は、その怪しい事柄を口にした。


「桜咲さんってさ、小次郎先生のこと、好きなの?」
「……は、はぁ?」
「だって、今だって小次郎先生の擁護ばっかりするし、一緒に学校から帰ったり、休みの日に家に行ったりしてるんでしょ? 実は前から噂になってたのよね、二人の関係」


 私が常々聞いてみたかった疑問。これは今言ったとおり、私一人の疑問ではなく、3−A全体で水面下で交わされていた疑問だった。
 クラス全体で仲の良い3−Aの中において、桜咲さんは少し孤立気味だ。龍宮さんや長瀬さんやくーふぇ―――桜咲さんと合わせて武道四天王なんて呼ばれてる―――とは交流があるみたいだけど、それも最低限な付き合いで、少なくともクラス内に親友と呼べるような人はいない。
 そんな桜咲さんが、自分から積極的に交友を持つ相手ができた。しかも相手は男で、先生と変わらない立場にいる人なんだから、話題にならない訳がない。


「う、噂も何も、私は小次郎さんを剣士として尊敬しているだけです。だから擁護だってしますし、家に行ったり一緒に帰ったりしてるのは、剣の稽古をつけてもらうためで、そんな浮ついた理由では―――」
「それじゃあ、修学旅行前に一緒に渋谷に行ってたのは? 柿崎が、私服姿の小次郎さんと一緒にいる桜咲さんを見たって言ってたわよ」
「あ、あれは……その」


 そっぽを向いて私の質問を否定してた桜咲さんが、渋谷の話題になった途端、顔を俯かせてごにょごにょとどもり始めた。心なしか、温泉に浸かって血行が良くなったことで赤みを差していた頬が、より赤くなったように見える。
 きっと何かあったんだ―――これはひょっとして、ひょっとするかもしれない。


「ふふふ……」
「……誤解してるようなので繰り返しますが、私はあくまで、小次郎さんを剣士として尊敬しているだけです」
「だーじょうぶ、私口堅いから! それに、私も高畑先生狙いだから、一緒にがんばろ、桜咲さん!」
「人の話を聞いてませんね!?」


 思わぬところで、同士(になるかもしれない)人を見つけて、嬉しくなった私は秘密を守ることを約束しながら、応援の言葉と共に桜咲さんの肩を叩くのだった。


「さ、そろそろ上がろっか。あまり長く浸かって、小次郎先生に心配かけても悪いし」
「……はぁ。分かりました」
 話が一段落つき、温泉も汗を流す程度に済ませるつもりだったので、私たちは湯船から立ち上がり、脱衣所で浴衣に着替え始めた。


『桜咲さんとは、仲良くなれそうだな……』


 この修学旅行を通じて、新しい親友ができそうな気がしてきた私は、その喜びをかみ締めながら、桜咲さんと並んで温泉を後にした。
 一階のロビーが見えてきた。すると、仁王立ちしている小次郎先生の姿を発見した。
 まだ見回りしてるのかしら―――そう思っていると、予想外な光景が私の目に飛び込んできた。


「―――何で皆、正座してるの?」


 ロビーの一角、広い壁の前で一列になって、十人くらいのウチのクラスの連中が正座していた。小次郎先生は、その列の正面に立って、皆を見下ろしている。


「そら、後三十分だ。身動きしなければ、たった三十分で床に入れるのだぞ」
「う、ぐぅ〜……」
「明石殿、動いたな。十分追加だ」
「ひぃ〜!?」
「ゆーなのばかー!」


 ……多分、何か小次郎先生の逆鱗に触れるようなことをしでかしたんだろう。主犯はきっと、小次郎先生が持っている竹刀の先に尻尾をくくりつけられたエロガモと、一人小次郎先生の隣に正座している朝倉辺りで間違いない。


「全く、綾瀬殿に宮崎殿まで再びうろつくとは……やはり3−Aは3−Aであったということか」
「だ、旦那っ! そろそろ下ろしてくれねぇと、俺っちの全身の血が鼻から出ちまう……!?」
「わ、私も、あと二時間の正座は厳しいかな〜……」
「ふむ、承知した。二人とも、朝まで今の状態を続けたいようだな」
「だ、旦那ー!?」
「正にデーモンだわ……」
「この程度で済ませているのだ、むしろ感謝して欲しい―――綾瀬殿、動いたな。十分追加だ」
『ぎゃあぁぁー!?』


 皆の悲鳴が聞こえる。それで大体の事情を察した私と桜咲さんは、皆に見つからないように、こっそりと自分達の部屋に戻るのだった。












 後書き

 最近、更新速度だけでなく、質も落ちた気がする。逢千 鏡介です。
 就職活動、忙しいです。それでも私は、恵まれた境遇にあると思いますが。一応内定は一つ頂いていますしね。
 これにて、修学旅行二日目は終了となります。唇争奪戦が始まってからは、ずっと小次郎のターンでしたが、少しでも楽しんでいただけていたら幸いです。
 次回は、一度幕間を挟みまして、とうとう修学旅行の本番、三日目に突入します。
 天劫の雷も本格的に登場してきますので、どうかお楽しみに。
 ところで、改行の仕方を少し変えてみましたが、見やすさはいかがだったでしょうか? 今後も色々と試して行こうと思うので、感想をお願いいたします。
 作品に関する感想・指摘も含めて、お待ちしております。
 では。



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