俺っちの前にあるモニターの中で、裕奈の姉さんが小次郎の旦那に連行されていく。捕まった裕奈の姉さんは逃げることを諦めたのか、ガックリとうな垂れている。その様子を見た俺っちの頭の中には、ドナドナが流れていた。


 それと一緒に、俺っちの頬を冷や汗が伝っていた。


「あ、あーっとぉ! これはいきなり、一番厄介な先生が現れましたぁっ!
 『最後の武士ラスト・サムライ』の名で親しまれ、広域指導員を務めてからは『剣鬼デーモン小次郎』の名で不良から恐れられる、麻帆良第二のリーサルウェポン、佐々木 小次郎! 刀こそ持っていませんが、選手たちにとっては余りに高い壁! 捕まってしまった明石選手には、ご冥福を祈らずにいられません!」


 実況マイクに向かって、朝倉の姉さんが声を張り上げる。流石に報道部に所属してるだけあって、言葉は突っかかりもなく流暢に流れてる。場の盛り上げ方ってぇのも心得てるし、こりゃ天性の才能ってやつだろう。


 一通りの実況が終わると、マイクを遠ざけて姉さんが俺っちに顔を近づけてきた。


「あのさぁ、カモっち……もしかしなくても、もしこのイベントの主犯が私たちだって小次郎先生にばれたら―――」


「……間違いなく、裕奈の姉さんの二の舞だろうな。主犯って事で、それ以上も十分にありえるぜ。流石に剣で斬ってくるなんて事はねぇと思うが」


 口ではそういいながらも、俺っちの脳裏には前に一度だけ見た、小次郎の旦那の斬撃が閃いていた。


 気の補助があったとはいえ魔法を剣でぶった切るなんて、常識外れな事をやってのけたあの剣技が、万が一俺っちの身に向けられたらと思うと、とても生きた心地なんざしなかった。それが例え、殺傷力のない竹刀であろうとも、だ。


「……引き際を見極めたほうが良さそうだね、私たちのために」


「利益よりもまず、俺っちたちの命だからな」


 小声でそう短く意思を交わし、俺っちたちは頷きあうのだった。










「さて、とりあえずはこれでいいとして……」


 新田殿から申し付けられていた通り、明石殿を一階のろびーに正座させた私は、今も旅館内のいずこかで動き回っている残りの者らがどこにいるか、考えをめぐらせることとした。


 自室に戻ったということはあるまい。顔を見られている以上、悪戯に逃げ場をなくすだけであるし、あの3−Aの女子らが一度始めた催し事を取り止めるとも考えにくい。同じ理由で、どこか一箇所に潜伏する、ということもありえぬであろう。


 となると、考えられるのはやはり一つ。私に捕まるより早く、長谷川殿から聞いたこの催し事の目的であるネギの唇を奪いにかかるのが妥当であろう。


「ネギの部屋の前で張るか……確か、304号室であったな」


 私の足を活かし、旅館中を駆けずり回って捕らえていってもいいのだが、それだと旅館の方に迷惑をかける上、その間ネギが無防備となってしまう。なれば、目的地で待ち構えるのが、最も適切な策であろう。


「ひ〜ん、足痛いよー……」


「自業自得、甘んじて受け入れよ。それと、私はしばしここを離れるが、もしその間に居なくなれば、介錯を仕る故、肝に銘じておくように」


 泣き言を申す明石殿に、立てた二本の指で自分の首筋を数度叩くことでこちらの意思を示しながら、そう釘を刺した。言いたいことが伝わったのか、明石殿は青ざめた顔で頷いていた。


 少し乱暴に過ぎる言葉かと、口にした後で考えもしたが、此度の所業を思えば妥当であろう。


 ネギの部屋へ向かう前に、厠―――現代ではといれ、と言うらしい―――へと立ち寄った。誰も人がおらぬことを確認してから、懐に手を差し入れ、一枚の人型をした紙切れを取り出した。


「……オン」


 刹那から教わった通りに、紙に気を込めながら、念を込めた言霊を発した。


 途端、紙は淡い光になり、ボンという軽い音を響かせた後、ちびせつなへと姿を変えた。緊急連絡用にと、半自立型の式神を私でも使えるように書き換えてくれた物だ。


「お呼びですかぁ、小次郎さーん」


 白い着物と赤い袴で身を包み、後腰に得物を差しているちびせつなが、笑顔を浮かべながら問うてきた。


「一つ仕事を頼みたい。引き受けてくれるか」


「もちろんですぅ、なんなりとどうぞ!」


 仕事を任されるのが嬉しいのか、張った胸を叩いて了承を返してくれた。その様子は、初めてお使いを頼まれた子供のような微笑ましいものであり、今の生真面目な刹那との隔たりも手伝って、なお更頬が綻んでしまう。刹那の幼少時代も、このようなものだったのであろうか。


「うむ、忝い。私はこれから、抜け出した3−Aの者らを待ち伏せるため、三階のネギの部屋へと赴く。その間、明石殿を見張っていてくれ。もし勝手に動いたりすれば、私に知らせに来てほしい」


「わかりましたぁ。見張り番、しかと勤めて見せます!」


 ビシッ、と音が鳴りそうな勢いで敬礼をしたちびせつな。頼んだぞ、と頭を撫でてやりながら最後に告げて、私はネギの部屋へと足を向けた。


 せっかくの通り道なので、直接三階には向かわず、二階の廊下を隅々まで歩き回ったが、生徒たちの影を見つけることはできなかった。代わりにそこかしこの部屋から、まだ起きている気配を感じたが、部屋の中で大人しくしている者まで取り締まるつもりはない。仲間とのせっかくの旅行だ、そこまで干渉するのは無粋というものであろう。


「3−Aの皆も、この程度に騒ぐのであれば、何の文句もないと言うに……仕様がない」


 今更な言葉と共にため息をはき捨て、階段を上って三階に到着した。


 後はネギの部屋に赴き、可能ならば部屋の中で待機させてもらおう。


 そう思いながら廊下を歩いていくと、急に背筋を悪寒が走った。


「……!」


 感覚に従って、迷わずその場を飛びのく。刹那、つい数瞬前まで私が立っていた場所に、天井から人影が降ってきた。


 重力に任せて全体重を床にぶつけたのだろう、重く響く音が辺りを震わす。その発生源は、あろうことか足元ではなく、その者が刀よろしく振り下ろした手刀であった。


「アイヤー、ギリギリまで気配消してたのに、ものの見事に避けられてしまたアルよ」


「流石でござるなぁ、佐々木殿」


 手刀を放った方―――古殿が、嬉しさを前面に押し出してそう言葉を口にする。もう一人一緒に下りてきた長瀬殿は、そんな古殿に賛同していた。


 二人とも、先に二階で暴れていた者たちだ。早々に捕らえるのが最善であろうが、その前に少々、気にかかることがあるので後回しにする。


 チラと視線を天井に移す。そこにはとても、人二人が身を潜められるような足場などない。まさか、あの電灯やよく分からぬ円形の突起物に捕まっていたのであろうか。


 ……よそう。この者らに常識が通用せぬのは先刻承知だ。


 そう思い切り、天井から視線を下ろして、ようやく私は二人を見据えた。


「それで、一体どういった魂胆で私を襲ったのだ?」


「んふふ、そんなの決まってるアル」


 含みを持った笑みを浮かべて、古殿がそう告げる。次の瞬間、勢いよく私を指差しながら、宣言した。


「勝負アル、小次郎先生!」


「―――なに?」


 思わず、素っ頓狂な声が口から漏れていた。


 新幹線での蛙事件を始めとし、音羽の滝での飲酒事件に此度の唇争奪戦。そうかと思えば今度は勝負を挑んでくる。まこと3−Aの女子らは、騒動を引き起こしそして巻き込まれる者たちだ。


「何故今、私に勝負を?」


「決まってるアル。私が小次郎先生と勝負したいからアル!」


 ……しばし古殿の表情を見つめたが、そこに偽りを見出すことはできなかった。ここまで自分の欲望に忠実というのは、ある意味幸せなのであろうか。巻き込まれる側からしてみれば、ご免被りたいが。


 恐らく、あれは毎度のことなのであろう。古殿の後ろで、長瀬殿が呆れた苦笑いを浮かべていた。


 同じく私も苦笑いを浮かべながら、この場が戦いには適さぬということを古殿に告げる。


「……勝負したい、と申されてもな。見ての通り、私は今得物を持っておらぬのだが。そも、斯様な場所では満足のいく戦いなどできまいよ」


 私たちが今いる廊下の幅は、目測で三尺ほど。到底、五尺余りの我が愛刀である備中青江は振り回せぬ。竹刀や木刀ならば可能ではあるが、今は持ち合わせがないし、やはり手狭な空間では全力を発揮できぬ。古殿が満足できるとは到底思えなかった。


「ム……そこまでは、考えてなかったアル」


「拙者てっきり、そこまで考えていたのかと思っていたでござるよ……」


 私の視線の先で、思いもよらなかったと顎に手を当てて古殿が考え込み始めた。


 もう二つか三つほど、反論をしてくると思っていたが、どうやら予想以上に短絡的な行動であったようだ。さしもの私も、肩を落としていいやらすくめていいやら、何とも微妙な心境でため息を吐いた。長瀬殿が呟いた言葉には、つくづく同感である。


『しかし、どうやってこの二人を捕らえるか……』


 この場での勝負が叶わぬと分かれば、恐らく当初の目的であるネギの唇を奪いに向かうことは想像に容易い。正直な話、そうされてしまうと私一人でこの二人を捕らえることは不可能であろう。


 鍛え上げられた体と、そこから繰り出される武術という理に裏付けられた体捌きと技。加えて二対一という状況は、無手の心得がない私にとって、いささか荷が重い話である。


 竹刀の一本でもあれば打ち据える自信はあるが、このような戯事で女子の肌を打つのは躊躇われた。


『―――待てよ。これは少々、使えるのではないか?』


 ふいに、私にしては上出来な妙案が頭をよぎった。古殿が諦めてこの場を去る前に、早々にそれを口にした。


「よし、ではこうしよう、古殿」


「ム? 何アルか」


「この場で試合をするのだ。古殿は私に有効打を入れられれば勝ち、それを捌ききれば私の勝ちだ。制限時間は一分。


 もし古殿が私に勝てば、麻帆良に帰ってから、望むときに立会いに応じることを約束しよう」


「本当アルか!?」


「いかにも。ただし、もし私が勝てば、其方らは今参加しておる催し事から棄権し、大人しく一階ろびーで正座をしてもらうことになるが、いかがであろう」


「もちろんやるアル! 小次郎先生と戦えるなら、ネギ坊主の唇も諦められるアルよ」


 元々勢いで参加したイベントだったアルし、と聞き捨てならぬことを付け足しつつも、古殿は私の提案を受けて早速構えを取った。それなら初めから参加を自重して欲しかったが、いまさら申したところで意味のないことであろう。


 あと、私は『其方ら』と言ったのだが、そこに長瀬殿が含まれているのには気づいて……おらぬのだろうな。あの目は、これから私と試合えることが楽しみで仕方ないといったものだ。他のことなど眼中にあるまい。


 既に臨戦態勢に入った古殿の背中を見やる長瀬殿に、若干の同情抱いた。


「カエデ! 合図お願いアル!」


「……承知したでござるよ」


 その辺りを当人も理解しているのか、合図を任された長瀬殿の表情には、どこか諦めの色があった。


 しかし、いつまでも気を散らしておれぬ。この限られた空間の中で、古殿から一分間逃げおおせるのは、決して易しいことではない。しかも私には無手という枷もある。切り抜けられる確率は、せいぜい五分といったところであろう。


『さて、上手くいくかどうか』


 脱力し、自然体に手を下ろす。右手を刀に見立てることで、戦の心持を整えた。


「では、尋常に……始め!」


 長瀬殿の合図がかかった。












[あーっとぉ! まさか、ここで二班がまさかの行動に出ましたぁ! 最大の障害である小次郎先生に、逆に勝負を挑みました! 相対するは古選手! ゲームそのものに関係はありませんが、これは目が離せない展開になりました!]


 ハルナと二人、布団を近づけて見入っとったテレビ画面から、興奮した朝倉の実況が響く。その実況につられて、きっと他の部屋の皆も、今は画面の一点を見つめてると思う。


 六つに分かれた画面の一番右上。小次郎さんとくーふぇが向かい合ってる様子が、くーふぇの背後左上から見下ろした風に映し出されとった。


 小次郎さんの表情が見える。いっつも浮かべとる余裕たっぷりな笑みと違って、今のは無表情に近い。優しげだった瞳も刀のように研ぎ澄まされていて、ホンマにこれから小次郎さんが試合をするんやって、嫌でもウチに思わせた。


「うわー、すごい事になってきたね。小次郎先生とくーちゃんの試合かぁ、別口でトトカルチョ組まれないかな」


 隣でハルナがのん気なことを言っとるけど、今のウチにはもっと気になっとることがあったから、相槌を打つことはできなかった。


 その気持ちを読んだように、テレビから再び朝倉の実況が聞こえてきた。


[それにしても、小次郎先生に勝負を挑む古選手の真意は一体どこにあるのか! もしかすると、古選手は小次郎先生の唇が目当てだったのでしょうか!? 二人の会話を聞けないことが残念でなりません!]


 このゲームの名前は『くちびる争奪! 修学旅行でネギ先生とラブラブキッス大作戦』や。こんな名前のゲームに参加しとる人が、いきなり小次郎さんに襲いかかろうとしとったら、そんな考えが頭を過ぎっても不思議やない。


 その疑念に拍車をかけとるのがくーふぇや。中国武術研究会の部長を務め、たくさんの大会で優勝を収めとるくーふぇだからこそ、同じ武術家(って呼んでえぇのか分からんけど)の小次郎さんに興味を持つのは、自然な流れに思えた。


「あー、そっかそういう風にも見れるかぁ。こりゃ確かに見ものかもね。ねぇねぇ、木乃香はどっちだと思う?」


 実況を聞いてから気づいたのか、ハルナがそんな質問をしてきた。それにウチは、正直な気持ちを答える。


「くーふぇはどうか知らんけど……小次郎さんはちゃうと思うなぁ」


「何で?」


「せやかて、小次郎さんやよ? こんな安易にチューするようなゲーム、許すとは思えへんし、受けへんよ」


「―――ははぁ」


 ウチは確かに、くーふぇが小次郎さんを狙っとるのか気になっとった。けど、それが小次郎さんになると話は別。


 軟派なようで、一線はしっかり引いとる小次郎さんが、負けたらキスするなんてルールを承諾して試合をするとは、どうしても思えなかった。


 ―――その、はずやのに。


『何やろ……スッキリせぇへん』


 画面を見つめとるウチの胸の中には、変なモヤモヤがかかっとった。










 ―――楓の合図がかかり、小次郎と菲が二間ほどの距離を空けて廊下で向かい合ってから、既に十秒が経過していた。


 その間、二人は微動だにしていない。端から見れば、時間を無駄に浪費しているようにも見えるだろう。


 しかし当人たちからしてみれば、そんなことはありえない。


 小次郎は不慣れな無手で菲の攻撃を捌き切るために、受けに全神経を集中させて菲を待ち受けており。


 菲もそれを理解しているからこそ、迂闊に小次郎の懐に踏み込もうとはしなかった。


 空調の音だけが辺りに木霊する。審判(と呼ぶには役割が不十分だが)を任された楓は、緊迫した空気を肌で感じながら、二人の一挙一動を見逃すまいと目を凝らしていた。


 彼女もまた、戦に生きる者の一人なのだ。


 十五秒が過ぎた時、初めて菲が動きを見せた。スルスルと床の上を滑るような足取りで、小次郎との間合いを詰めていく。並みの者が相対していたのなら恐らく、あっと言う間に菲の間合いに捕らえられていることだろう。


 その足取りを見て、小次郎は菲に対する強さの位置付けを一気に引き上げた。


 しかし、だからと言って迂闊に飛び退くことはしない。その程度は菲も予測済みであり、そうなった瞬間こそ懐に飛び込まれることを、小次郎は直感で理解していた。


 一間の間境を越えたところで、菲が一気に踏み込んだ。それは獲物に飛び掛る猫のようにしなやかであり、俊敏であった。


 踏み込みの勢いを乗せて、菲が小次郎の胴目掛けて右の崩拳を放つ。さながら弾丸のように放たれたそれを、小次郎は左に体を開きつつ内側に捌いていた。一撃を避けつつ位置を入れ替え、もう一度仕切りなおすつもりなのだ。


『予想以上に早いな。これは、もう少々―――!』


 評価を改める必要がある。そう考えようとして、感じた悪寒に任せて咄嗟に身を屈めていた。


 途端、頭上を空気の唸りが通過する。紙一重の距離を通過していった物体―――菲の左拳は、小次郎の髪の毛を掠めていた。


 刹那の時間に行き違った二人が振り向き、再び二間の距離を置いて構え合う。思惑通り、位置を入れ替えることに成功した小次郎であるが、その心中は穏やかなものではなかった。


 初手の中段への突きは見えていた。だからこそ、小次郎は余裕を持って体を開いた上で、突き手を払ったのだ。しかし、その次の瞬間には菲の左手が小次郎の顔面に迫っていた。小次郎にはそれが全く見えていなかったのだ。


 完全に視界の外から飛んできた拳。あと数瞬でも勘付くのが遅れていたら、自分は床に伏していただろうと、小次郎は思った。


 しかし小次郎も然る者。先の一連の流れから、一体何が起こったのかを大よそ看破していた。


『恐らく、払われた瞬間に体を捻って回転し、避けた私に向けて左の拳を回してきたのだろう』


 これは八極拳の転身胯打という一手であるが、本来は相手の突き手を捌きつつ側面に入り込み、添え手を付けた裏拳を相手に打ち込む技である。菲はこれを応用し、相手が体を開いて自分の突きを避けた瞬間に返撃より早く裏拳を打ち込む、という一手を繰り出したのである。


 これは遊びではない。命はかかっておらずとも、そうした心構えが必要だと認識した小次郎の纏う空気が一変した。


 先までのは例えるなら、鞘に収められた刀。だが今のそれは抜き身の真剣だといえる。


 緊迫していた空気がより張り詰め、吐息の音を漏らすことすら躊躇われる空間を作り上げる。


 相対している菲はおろか、観戦している楓まで息を呑むほどの気迫。これに呑まれてはいけないと、菲は一息に二間の距離を一気に詰めた。


 この思い切りの良さも、彼女を強者足らしめる由縁の一つである。


 菲の拳と蹴りが高速で繰り出される。左のジャブを中心として組み立てられるその立ち回りは、明らかに倒すことを目的とはしていなかった。


 初手の奇襲を避けられた以上、もうその類の攻め手は通用しない。菲はそう断じて、正攻法で隙を作り出すことを選択したのだ。


 そしてその選択は、密かに小次郎が最も避けたかった選択であった。


 武術の心得が無くとも、天性の勘の良さを持つ小次郎である。一発を狙った奇襲の方がまだ避けやすいというもの。今のように手数を増やし、武術の理を最大限に生かされてしまうと、知識の乏しい小次郎としては非常に苦しかった。


 それが証拠に、五秒十秒と時間が進むにつれて、小次郎の捌き手に崩れが見え始めてきた。体勢も安定しなくなってきており、決定的な隙をさらすまで、そう時間はかからないだろう。


「ぬ、くっ……」


 小次郎の表情にも焦りが浮かんできた。それでも武に携わる先達としての意地が、瀬戸際での攻防を持続させていた。


『思っていたより、粘るアルな……』


 菲の算段では、十秒ほど前に決着はついているはずであった。しかし小次郎は、菲の予想を上回る反応の良さで窮地を何度も脱しており、そこに生まれ持った才能の凄まじさを見ることができるだろう。


『全く、理不尽な話アル。けど、だからこそ……』


 徹底的に追い詰めて、これ以上ない隙を作る必要がある。それがそのまま、完璧な勝利に繋がるから。その思いの下、菲の攻め手はより苛烈さを増していった。


「残り十秒でござるよ」


 楓から制限時間の宣告がかかる。その言葉を受けて、菲が最後の仕上げにかかっていった。


 手数をある程度まで抑え、速さと正確性を高めた拳を上下に打ち分け、小次郎の意識を散らしていく。ただし、今度は本当に当てる気で放つのだ。有効打が決まれば菲の勝ち、というルールがある以上、小次郎はその全てに対応しなければならない。


 上段に放たれた左突きを、多少体を逸らしながら捌く小次郎。そうして突き出された腹部に目掛けて、フック気味の右拳が振るわれた。体勢が後ろに傾いている以上、小次郎は後ろに跳んで避けるしかない。


 ―――その瞬間、小次郎は己が罠に絡めとられたことを直感した。


「―――ハッ!」


 ズンッ、と床を踏み抜く勢いで菲の足が振り下ろされ、背後に跳んだ小次郎を追いかけるように―――否、追い越すような勢いで、菲が踏み込んだ。強大な突進力を誇る、活歩と呼ばれる八極拳の歩法だ。


 そこから放たれるのは、突進の力をそのまま力に変える肘打ち。左肘を突き出すように体全身を捻り、菲の持てる力の全てが集約された一撃が、小次郎に迫った。


 ここに来て小次郎の進退が窮まった。手で捌こうにも、体全体で打ちに来てるこの肘打ちは逸らすことはできないだろう。もう一度後方に跳べば、この肘打ちは回避できるだろうが、苦し紛れに跳んだところで更なる追い討ちに沈むのは目に見えている。


 唯一、左側に大きく飛び退ければ打開は可能であったが、よほどの速度で跳ばなければ、菲の肘が小次郎の体にめり込むほうが先であろう。


 詰みである。その事実を前にしても、一切気を抜かずに、菲は肘を小次郎の体に打ち込んだ。


「…………え?」


 だが、返ってくるはずの肉を打つ鈍い音と、小次郎の苦悶の声が聞こえてくることは無かった。菲は一瞬、何が起こったのか理解することができず、その場で固まってしまった。


 菲の背後で、車のタイヤが鳴るような音が響いた。弾かれたように振り返ってみれば、そこに小次郎は立っていた。


「―――ハァ、ハッ…………ふぅ」


 一体何をしたのか。菲にそれを理解することはできなかったが、過分に負担のかかる動きだったのだろう。息を荒げている小次郎は、多少の余裕こそあれ肩で息をしており、隙だらけであった。


 しかし、そんな絶好の好機を前にしても、まるで陽炎のように小次郎が眼前から消えたショックの消えなかった菲は、呆然と立ち尽くして小次郎を見据えていた。


「……時間でござる」


 こうして、小次郎と菲の最初の試合は、小次郎の勝利で幕を閉じたのである。












後書き


 就職活動厳しいよー…………逢千です。


 まぁやるしかないのですが。


 さて、待たせに待たせた今回のお話、いかがだったでしょうか。


 小次郎の新しいニックネームが判明。どこかの閣下を思い出した? 知りませんてw


 小次郎VS古菲。ちょっとしたじゃれあい程度の戦いでしたが、皆さんの意表をつき、また楽しんでいただけたら幸いです。


 一番最後、小次郎が何をしたかについては……次回で明かそうと思います。お楽しみに。


 感想、意見等々、お待ちしています。


 では。


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