現れたのは、野武士という言葉が最も相応しい男だった。
乱雑に切り揃えられている黒髪には油が浮き、身につけている濃い赤銅色の着流しは、何日も着続けてくたびれている事が、遠目からでも良く分かった。ろくに手入れをしていないのであろう、顎には無精髭が伸びている。その中でただ一つ、腰に差されている緑色の鞘に収められた一振りの刀だけは丁寧に手入れがされており、一際存在感を放っていた。
顔立ちは不男ではないのだが、作りの一つ一つが力強く、荒々しい獣のような印象を感じさせる。とりわけ鋭い眼光を放つ双眸は、憤怒の形相で描かれる不動明王の如しで、化生すら裸足で逃げ出しそうな迫力を放っていた。
「……おい、クライアント」
岩を擦り合わせるような、低いしゃがれた声。その声色は明らかに怒気をはらんでおり、そこに含みきれぬ怒りは、全身からも噴き出されていた。
「は、はいぃ!? な、なな、なんでっしゃろ、天劫はん……」
完全に怯えきっている千草は、目の前の憤怒の化身にただただ恐縮するばかり。これでは、どちらが雇い主であるのか分ったものではなかった。
「今テメェ、何してやがった」
「す、スンマセン! あ、あの、相手が見ての通りガキだらけやったんで、ちょっと油断を……」
足元の下駄をガラガラと鳴らしながら、体全体で千草に振り返った『天劫の雷』は、先程の失態を言及する。まるで親に怒られる子どものように身を竦めながら、弁明をする千草だが、『天劫の雷』は間髪入れずに千草を責め立てる。
「ド阿呆かテメェは。今回の作戦の要であるお嬢様を盾にしたってだけでも度し難ぇのに、加えて油断だぁ? ついさっき、テメェご自慢の符術をその餓鬼に破られたばっかだろうが、温ぃ事やってんじゃねぇよ!
ったく、本当に命賭けてこの作戦を決行したのかが怪しくなって来たぜ……」
怒りに加えて不機嫌な空気まで撒き散らし始めた『天劫の雷』は、一通り千草に言いたかった事を言い終えると、多少の愚痴を零しながらも、振り返って階下にいるネギ達を見下ろした。
「……だがまぁ、一度出張ったんだ。ちゃんと仕事はしてやるから、テメェはさっさとお嬢様連れて帰ってやがれ」
「そ、それがその……こ、腰が抜けて、立てへんのやけど……」
「―――っち。じゃあ、黙ってそこにいろ」
顔だけで振り返り、本当に立てそうもない千草を一瞥すると、それっきり視線を戻す事なく、『天劫の雷』は刀も抜かず、気だるそうに階段を下り始めた。
「……! と、止まってください!」
「な、何よアンタ! やる気なの!?」
ようやく耳の異常も元に戻り、新たな敵が現れた事を認識できたネギと明日菜が、素早く杖とハリセンを構えて『天劫の雷』を警戒する。それらの切っ先を向けられて、『天劫の雷』の足が階段を数段下りたところで止まった。
しかし、
「ダメです! 逃げてネギ先生、神楽坂さん!!」
喉を枯らしそうな叫びで、刹那がネギと明日菜に逃亡を呼びかけた、その瞬間だった。
「えっ―――がっ……!」
ネギの体が地面と並行に吹き飛び、壁に激突した。余りの唐突さに、吹き飛ばされたネギ本人はもとより、その側にいた明日菜ですら、何が起こったのか理解する事は出来なかった。
「戦いの最中に、それも敵を目の前にして、意識を切るんじゃねぇ、餓鬼が」
階段の上に立っていたはずの『天劫の雷』は、いつの間にかネギ達が立っていた広間まで下りて来ていた。振りぬいた足を戻し、つまらなそうに頭をかく姿は、まるで鬱陶しい虫を片手で払ったような仕草に見えた。
何という事はない。ネギはただ、瞬きの間に移動して見せた『天劫の雷』の中段回し蹴りによって、壁まで吹き飛ばされたのだ。
「あっ……く、げほっ……!」
「ね、ネギ! 何すんのよこのオッサン!」
何の気構えもなく攻撃を食らってしまったネギが、その衝撃で苦しそうにむせてしまう。それを押して立ち上がろうともしたが、壁にぶつかった時に頭を打ってしまったのだろう、腕がガクガクと震えて立つ事は叶わなかった。
目と鼻の先に立っている『天劫の雷』は、ネギの方向を向いており、明日菜には背を向けている。その隙を見逃さず、自分の主であるネギを蹴飛ばした男に向かって、明日菜は全力でハリセンを振るった。
「せぇいっ!」
裂ぱくの気合を伴ったその太刀筋は、猿鬼や熊鬼を相手にしたものよりも鋭く苛烈だった。
パァン、と快音が響く。頭部へと一直線に空を奔ったハリセンは、しかし、『天劫の雷』の腕に受け止められていた。
「式神を問答無用で送り返していたから、何かあるのかと思ったが……ただのハリセンか」
「……っ、てやぁっ!」
『天劫の雷』は、探るような目で受け止めたハリセンを眺めている。明日菜のその後の行動は早く、今ハリセンを振るった方向とは逆向きに体を一回転させると、今度は遠心力をたっぷりと乗せた一閃を繰り出した。
だが、『天劫の雷』はそれを上回っていた。明日菜が一瞬、こちらに背を向けた事を確認するや否や、『天劫の雷』は前に踏み出し、回転が終わる前の明日菜の肩を押さえて、その動きを止めてしまった。
「え、ちょ―――あぐぅっ!」
素早くハリセンを持っている方の腕を取り、背中に回して捻り上げる。体の内から発生する鈍い痛みに、たまらずハリセンを取り落とした明日菜が悲鳴を上げた。
「ネギ先生! 神楽坂さん!!」
「月詠、この女、抑えてろ」
「は〜い、お師匠様」
刹那が悲痛な声で叫ぶ中、それを一切無視したようなやり取りをする『天劫の雷』と月詠。瞬動であっという間に明日菜の元へ移動し、『天劫の雷』に代わって月詠が明日菜を押さえ込むと、自由になった『天劫の雷』は、次の獲物として刹那に狙いを定めた。
緩慢な動きで、『天劫の雷』が腰に差している刀を抜いた。それは一見して、直ぐに名刀と分るような凄みを漂わせていた。
刃渡り二尺余り、全長は二尺八寸といったところ。鈍い銀色の刀身に、美しい白色の直刃の波紋が、簡素かつ味わい深い彩を添えている。鍔にも意匠が凝らされており、稲穂を咥えた小狐が、浮き彫りで描かれていた。
刹那は、『天劫の雷』が刀を抜こうとする前から、月詠に対したのと同じく正眼の構えを取っていた。だが、あの男が自分の考えている通りの男なら、自分に勝ち目などあるはずがない。刹那はそうも考えていた。
それでも引かない理由はただ一つだ。
そこに木乃香がいる。今の刹那の全ては、この一点に集約されていた。
「……引こうとはしねぇ、か。多少は骨があるようだが―――」
「―――っ!」
同じ神鳴流剣士、それも十代中頃の少女が自分を前にして引こうとせず、むしろ戦いの意思を見せている事に多少の感心を覚えた『天劫の雷』だったが、それを気に留めた様子も見せず、一瞬で刹那を自分の間合いに捕らえていた。
刹那と同じ足場に移動したのでは、夕凪を捌き懐に入るのは困難だ。そこで『天劫の雷』は、瞬動の極みである縮地を用いて宙を滑空し、夕凪の上側から刹那に接近したのだ。
それは最初に月詠が、刹那に斬撃を浴びせた時と同じ動き。一つ違いを上げるとすれば、月詠のそれを鷹とすると、『天劫の雷』のそれは巨躯の大鷲に等しかった。
『天劫の雷』は、文字通り刹那の眼前に入り込むと、空中にいるまま無造作に袈裟へと切り落とす。踏み込みから斬撃に移るまでの一連の動きはもはや見事と言う他はなく、達人であれど反応できれば僥倖という凶刃が、刹那に迫った。
「シッ……!」
だが、刹那は素早く身を屈めると、絶妙な刀捌きでその一刀を受け流した。そのまま素早く左に逃げつつ、受け流した勢いを乗せた胴打ちで『天劫の雷』の腹を薙ぎ払う。
振り切られる夕凪。しかし、刹那の手に伝わったのは肉を抉った生々しい感触ではなく、虚空を撫でた空虚なものだった。
「くっ―――あ、ぐあぁ!」
背後の気配を敏感に察知し、後ろに回りこまれたと悟った刹那だったが、それは『天劫の雷』が、夕凪を持つ刹那の腕を掴んでそのまま宙吊りにする方が早かった。万力のような握力で腕を締め上げられ、刹那の意思に反して夕凪はその手から零れ落ちてしまった。
眼前にいる、神鳴流の生きた災厄に向けて、刹那が叫ぶ。
「なぜ、貴様が今更……『天劫の雷』!」
「神鳴流剣士が、呪術師の依頼を受けちゃあ不思議か。え? 『白い忌み子』の桜咲 刹那よぉ」
「……!」
白い忌み子―――そう呼ばれた刹那の表情が、辛く険しいものに変わった。それを認めた『天劫の雷』は、満足そうに加虐的な笑みを浮かべた。
「詠春が頼んだ護衛の神鳴流剣士が、テメェだったとはなぁ……アイツもほとほと過保護だぜ。しかし……」
そこで言葉を切ると、『天劫の雷』は嘗め回すように刹那の身体を眺めた。頭の先から始まり、つま先で返って顔まで戻ってくると、おもむろに、
「いい女に育ったもんだな、桜咲 刹那。これならかなり長い間、飽きずに済みそうだ」
そう、思いがけず好物にありつけた獣のような笑みを浮かべて、『天劫の雷』は言った。
「は……? 貴様、何を―――」
「今分る必要はねぇよ。後で直に教えてやる。おい月詠、その女も連れて行け。そいつも悪かねぇ」
「は〜い、お師匠様〜」
「何よ、私たちをどこに連れてくのよ!」
「お師匠様のお家です〜。大丈夫、痛いのは最初だけですから〜」
「何の話よ! 離して、離しなさい!」
『天劫の雷』の言葉に従い、月詠は抑えていた明日菜の腕を捻って階段の上部へ向けて連行し始める。何とか抵抗しようとする明日菜であったが、腕を背中に捻られている格好で暴れるせいで、関節から刺すような痛みが走る。それに耐えて何度も身をよじるが、外見に反して月詠の力は強く、到底振りほどけそうもなかった。
「止めろ! 神楽坂さんは一般人だぞ!」
「西洋魔術師と仮契約している一般人がいるか。第一、俺たちに敵対して武器を向けてくるなら、一般人だろうと敵には変わりねぇ。それと……」
刹那の訴えにそう返した『天劫の雷』は、おもむろに刹那を掴んでいる腕を動かした。それに従い、刹那の体が宙を泳ぐ。その方向には、密かに呪文の詠唱を進めていたネギの姿。
「下手な事はすんじゃねぇぞ、西洋魔法使い。まぁ、自分の従者を傷つけてもいいなら、別に撃っても構わねぇがな」
「うっ……」
気づかれないよう、細心の注意を払って詠唱を進めていた魔法―――風の魔法の射手をあっさりと見破られて、ネギが構えていた杖を下ろしてうな垂れてしまう。このまま撃ってしまうのは簡単だが、そうすれば『天劫の雷』は、確実に刹那を盾にする。そもそもこうして気づかれてしまった以上、あの相手に当てる事は不可能に近い事を、ネギは察していた。
『何が魔法使いだ……僕は自分の生徒すら、助けられないのか……!』
あまりに無力な自分を、ネギは心中で責め立てた。
ネギの体から戦意が喪失したのを見て取った『天劫の雷』は、元々僅かしかなかったやる気をため息と共に吐き捨てると、千草の下へ戻るために階段を上り始めた。
『所詮こんなもんか。最後の仕事にしちゃあっけなかったが……まぁ、いい女も手に入れたし、こんなもんか』
東の新書を託された西洋魔法使いは未熟な少年で、その従者も一般人に毛が生えた程度の女子中学生。一応楽しみにしていた神鳴流剣士は、自分の手の内で無意味な抵抗を続けている。話に聞いた凄腕の剣士とやらは、そもそも姿すら見せない。これ以上、何かを期待する事はできないだろうと、『天劫の雷』は思った。
所詮、俺の敵になるやつはこの世にいなかったって事か―――
諦めの境地に至り、腐り切った体に残った最後の生気を『天劫の雷』が捨てかけた、その時だった。
「―――!!?」
背筋に猛烈な悪寒が走り、長年戦いに生きてきた者が持つ、直感とも呼べる部分が最大級の警鐘を鳴らす。『天劫の雷』は、その直感が命ずるままに、瞬動の応用で瞬時に中空へ飛び上がった。間髪入れず、虚空瞬動で悪寒を感じた方向とは逆の方向に飛び、階段に着地すると、すぐさまそちらを振り返る。
群青色の陣羽織、濃淡の差をつけた紫色の着物と袴。五尺余りの長刀を引っさげた侍が、そこに立っていた。
「―――今ので仕留められぬか……それはともかく、貴様、我が教え子と友人に何をしてくれるのだ。早々に手を離せ、狼藉者」
振り抜いた長刀を構えなおしながら、刺すような殺気を浴びせて、小次郎は『天劫の雷』を睨む。笑みを浮かべぬその鋭利な表情は、まるで手にしている青江のようであった。
気のせいだろうか。小次郎が現れるのを待っていたかのように、空の三日月がその輝きを増していた。
「小次郎さん……」
ようやく到着した小次郎の姿を見て、口々にネギ達はその名を口にした。そこにはここまで遅れた事への多少の怒りもあったが、程度の差こそあれど、紛れも無い安堵の響きが含まれていた。まるで、彼が来たのならもう大丈夫、と無上の信頼を寄せているかのように。
その声を受けた小次郎は、鋭利な表情をあっという間に引っ込ませて、
「済まぬな、皆よ。少々遅刻してしまったが、その分はきっちりと、働きで返して見せよう」
いつもの余裕然とした笑みを浮かべて、そんな自信に満ち溢れた言葉を宣言した。
それは、雷にも似た衝撃だった。
突然現れた、見るからに侍だと言い切れる男。伊達にもほどがある出で立ちと、神鳴流を彷彿とさせる長刀を所持しているが、その実そんな物を身につけても恥じぬほどの実力を持っている事が、何とない動きからも読み取れた。
常にあらゆる方向へ動ける重心の置き方、適切に脱力している刀の握り、据わった腰、階段を上る時の足運び―――おおよそ剣客に必要である要素が全て、高純度で目の前の男に詰め込まれているようだった。
己が神鳴流の剣士となって幾年月。ここまで純正な剣客に会ったのはこれが初めてだと、『天劫の雷』は断言できた。
「きゃっ……!」
何の配慮もなく、『天劫の雷』は刹那をいきなり投げ捨てた。ギリギリで受身を取る事に成功した刹那は、素早く体勢を立て直して『天劫の雷』を見る。その変化は、今日が初見である刹那にも、容易に判別する事ができた。
今まではまるで、自分たちを無いもののように見ていた『天劫の雷』。それが確かな焦点を結んで、佐々木 小次郎という男を見据えている。顔には獰猛な笑みを浮かべ、全身からは気迫が湯気のように立ち上っており、刹那がいる位置まで、その猛獣じみた空気が匂ってきそうだった。
「月詠」
「は〜い」
「その女はもういい、クライアントを守れ。場合によっちゃ、お嬢様を捨てても構わねぇ。どうもこの男、容易くは勝たせてくれねぇらしい」
刹那を手放した今、木乃香を攫っている千草が狙われるのは目に見えている。ただでさえ相性の悪い剣士を相手に、腰が抜けて動けない状態にある千草が勝てるとは思えない。自分が守りに入れば話は早いが、月詠が明日菜を抑えている限り、結局小次郎と刀を切り結ぶのは自分になると、『天劫の雷』は予感していた。だからこその、月詠への指示だ。
千草の調べでは、この修学旅行は四泊五日の日程になっていた。チャンスはまだ残っている。ここで無理をして、チャンスをものにできなくなる事をこそ、『天劫の雷』は恐れた。
もっとも―――この男と斬りあってみたい、という欲求もまた、この指示を決めた要因の一つである事を、『天劫の雷』は理解していた。
指示を受けた月詠は、少しの間『天劫の雷』の背を見つめていたが、執着を見せる素振りもなく明日菜を手放すと、一瞬で千草の下へと移動した。
「お怪我はありませんか〜、千草はん」
「あ、あぁ……天劫はんが守ってくれはったから―――月詠はん? あんさんこそ、どっか痛いんとちゃうか?」
「はぇ? 特に怪我はありませんが〜」
「そ、そうか……気のせいやったんかな……」
小声で何か呟いている千草にこれといった外傷がない事を確認した月詠は、徐々に戦闘態勢に入っている刹那へと意識の矛先を切り替えた。
「刹那、木乃香殿を任せる。この男は、私が相手をしよう」
「―――はい……小次郎さんも、油断されないように」
階段を上りつつ口にされた小次郎の言葉に、何か言い返したそうにした刹那だったが、最後に忠告を残すと、今度こそ木乃香を取り戻さんと強く地を蹴って飛び出した。ようやく体の痛みが治まったネギや、月詠から介抱された明日菜もそれに続く。
先に口にした通り、千草の事は月詠に任せるつもりなのか。階段を駆け上がっていくネギ達に一切の意識を裂かず、『天劫の雷』は応じるように階段を下り始め、広間で大よそ二間の距離を隔てて、二人は相対した。
二人がまず行ったのは、名乗りでも言葉を交わす事でもなく、互いの一挙一動を射抜き見る事だった。それもただ見るのではなく、僅かでも隙を作ればいつでも斬り伏せてやろうという、必殺の意思を持っての探り合いだ。それはあたかも、刃を視線に代えた、一種の斬り合いにも似ていた。
その中で、二人はゆったりとした動きで構えを取る。
小次郎はいつもどおり、剣先を正中線に置き自然体に刀を沿わせる、構えと呼べぬ構え。対して『天劫の雷』は大上段に刀を構えた。
抜き身を構えあった二人の間で、合図は意味のないものになっていた。何故ならば、こうして構えあう前から、二人の死合は既に始まっているのだ。
キシキシと、二人を取り巻く空気が、殺気と気迫に負けて不協和音を生む。階段の上部で行われている木乃香争奪戦の音も遠く、全神経が向かい合う相手に向けられていく。
「ズゥッ!」
「シッ……!」
始まりは唐突だった。申し合わせたように、二人は同時に動いていた。
『天劫の雷』が踏み込む。神鳴流である『天劫の雷』にとって、五尺余りという刀の長さは見慣れたものであり、その寄り身に恐れや躊躇いは欠片も存在しなかった。力強くしなやかな動きは、まるでライオンが獲物に飛び掛る様相に似ている。
小次郎は『天劫の雷』の動きに合わせて、瞬時に後ろに下がっていた。鳥を捕らえるために編み出された逸歩という歩法は、『天劫の雷』のそれとは対照的に、美しさすら感じる技巧に溢れていた。
大上段から落とされる刀が青江へと奔る。『天劫の雷』は刀を弾いて懐に潜り込もうというのだ。本来なら刀が折れかねない愚行であるが、『気』というこの世界の理がそれを可能としていた。
小次郎は一瞬でそれを見切り、『天劫の雷』の斬撃を受け流すと、返す刀で横薙ぎに首を狙う。元いた世界で、英霊すら退けてきた小次郎必殺の切り返し。しかし『天劫の雷』もさるもの、力任せに身を伏せて青江を避けると、刀を引いて立ち上がり様にそれを突き出した。顎から脳天まで突き抜けるだろうその突きを、小次郎は更なる後方への逸歩で回避する。
再び、刃を視線に代えた無音の斬り合いが行われる。ほんの数瞬に切り結ばれた三合から情報を得た事で、二人の斬り合いは隙の探り合いから、直感的な予想を織り交ぜたよりリアルな斬り合いへと発展していた。
こう動けば、相手はこう動く。こう斬り込めば、相手はこう捌く。
仮想の刃が次々と斬り込まれては消えていく。そしてその間にも、僅かな足運びや重心の動きによる牽制は行われていた。
『……なるほど、こいつぁ確かに凄腕だ』
見慣れない、自然体に近い備え。その身から魔力は感じられず、気を操っている様子もないが、それを補って余りある剣の技量を、この男は持っていた。
大よそ自分が知りえる限りの、どの流派の色も見られない剣筋は、我流によるものなのか。だとすれば、独学でここまでの境地に至っているこの男は、相当な才能を下地に途方もない修練を積んできたのだろう。それは、ユラユラと風に揺られる枝のように動く剣先が、常に自分の機先を制している事からも察せられる。表情に浮かべられている余裕然とした笑みは、その積み上げた時間に起因するものに違いない。
このご時世に、ここまで古臭い男がいるとは―――視線による斬り合いを行いつつ、『天劫の雷』は珍しく、相対している侍の実力を素直に賞賛していた。
「じゃ―――!」
次に先に仕掛けたのは小次郎だった。五尺余りという青江の長さを活かし、『天劫の雷』の間合いの外から、斬撃を雨あられと繰り出していく。
「ちっ……ズゥアッ!」
左からの首を狙った切り上げを捌き、瞬時に反撃に移ろうとした『天劫の雷』であるが、予想を超えた速さで迫る切り返しを見るや、素早くその太刀を防御に切り替えた。しかし小次郎の斬撃はその程度では止まらず、四方八方から疾風となりて『天劫の雷』へと殺到する。その速さ足るや、『天劫の雷』を持ってしても、気を抜けば刀身を見失ってしまいそうなほどだ。
しかしやはり、小次郎に気を使っている様子は見られない。これは純粋に鍛えられた肉体と、それを最大限に活かす技量から生まれる速さだ。刀を合わせれば合わせるだけ見えてくる、目の前の侍の才能と実力に、『天劫の雷』は内心で舌を巻いた。
「フンッ!」
防戦一方かと思われた『天劫の雷』であったが、不利な状況ごと吹き飛ばしそうな裂ぱくの気合を発すると、小次郎の切り返しよりも早く反撃に転じた。殺到する斬撃より、最も捌きやすい一つを見極めて受け流した直後、顔面へと片手突きを放ったのだ。
小次郎は紙一重でその突きを払い、すぐさま距離を取ったが、ふと頬に違和感を感じた。そこを指で拭ってみると、指先に伝わったのは肌を擦る感触ではなく、ぬるりという粘着性のある液体に触れたような感触だった。
見れば、指先は真っ赤に塗れていた。『天劫の雷』の突きを避けきれず、頬を僅かに切り裂かれたのだろう。
傷をつけられたと気づいた途端、頬に感じていた違和感は、熱を伴った痛みに変わった。心臓が鼓動を打つたびにズクズクと痛みが走る。出血の量は多くないがすぐに止まる気配もなく、次々に溢れ出る鮮血が小次郎の一張羅である着物を濡らした。
「……流石にできるな。見切りを外されたのは、いささか久しぶりだ」
予想外の反撃だったとはいえ、小次郎は突きを完璧に避けたつもりだった。それが僅かとはいえ、頬に傷を受けてしまったのだ。剣腕を褒め称える小次郎の言葉には、どこか信じられないと言いたげな風が漂っていた。
しかしその思いとは裏腹に、小次郎の心の内に湧き上がった感情は、紛れもない歓喜であった。
見切りを外された―――それはつまり、今向かい合っている男が、それほどの相手だという事実に他ならない。己の剣に絶対の自負を持つ小次郎だからこそ、その事実から受ける衝撃は大きいものだった。
無意識に頬がつり上がる。その表情は、日常から仕合の最中においてまで浮かべている余裕のある含み笑いではなく、探し求める戦場にたどり着いた者の猛々しさを湛えた笑みであった。
「名をなんと言う」
「答えてやる義理はねぇな。テメェが俺の敵として相応しいなら、話は別だがよ」
「―――そうか。では、其処な兵よ。私は其方を……其方らを、どこかで見下してしまっていた。その非礼を詫びよう」
「あ……?」
唐突に紡がれた謝罪の言葉に、『天劫の雷』はその真意が分からぬと、心の内を探るように小次郎を睨んだ。
……聖杯戦争に敗れ、聖杯の気まぐれでこの世界に蘇り、小次郎は死に間際に望んだ『生活』を手に入れた。あまつさえその『生活』は、戦いにまで恵まれていた。このような場を与えてくれた聖杯の男には、いくら感謝をしてもし足りないと感じている。
だが同時に、二度と死合にめぐり合う事はないだろうという思いも、小次郎にはあった。
蘇ってからというもの、小次郎は多くのものと戦った。葛葉 刀子、桜咲 刹那、そして化生たち……その全てに、小次郎は勝ってきた。
そして、セイバーを筆頭とするサーヴァントたち―――すなわち、神話に登場する伝説と切り結んでしまっている小次郎は、無意識にでも『この世界に彼らを超える者などおるまい』と決め付けてしまっていたのだ。
最上を知ったという思い込み。頬の傷は、それに対する戒めだ。あれだけ戦いを求めていた自分が、身勝手に上限を決めてこの世界の武士たちを貶めていた事実をきつく叱咤すると、小次郎はその謝礼を表すために、己が最高の技を全力で目の前の男に叩き込もうと決めた。
「今から我が秘剣を放つ。生半可な技ではない、出し惜しみをしておるなら今のうちに出すがいい」
それでも、どこか相手を食った口振る舞いをするのは、もはやこの男の性なのか。言外に、もう手加減はやめろと、小次郎は言及していた。
「……出し惜しみ? 何の事だか」
しかし『天劫の雷』に、その言い方を気にとめた風は見受けられず、ピクリとも表情を変えず小次郎の言及を否定していた。
「ハッ、私程度では本気を出すに足らぬとでも言いたげだな……良かろう。
―――先に、敵として相応しければ名を名乗ると言ったな、兵よ。ならば、この一振りを持って見極めるが良い」
素知らぬ顔ですっ呆ける『天劫の雷』だが、含み笑いを浮かべた小次郎はそう言うと構えを取った。相手に背を向け、青江を目の高さに置き、左肩越しに鋭い視線で『天劫の雷』を射抜く、必殺の構えを。更にはこの戦いで始めて気を開放し、青江と体にまとわせていく。
視線から放たれる殺気は今までのどれよりも強く鋭く、全身からはかつてないほどに気迫が溢れている。
「―――!」
その姿から何かを感じ取ったのか、『天劫の雷』の直感が再び、最大級の警鐘を打ち鳴らした。全身に震えが走り、手の平にじわりと嫌な汗が滲む。
まるで、全身の至る箇所を刀で撫ぜられるような錯覚。
それは緊張か、未知に対する恐怖から来る悪寒か。その判別は定かでないが、直感はハッキリと告げていた。
……あれをこのまま放たせてはならない。そうしなければ、自分は―――!
『間に合うか―――!』
恐らく、ほんの数瞬後には放たれるだろう、目の前の男が構えている秘剣。それを防ぐには、出すつもりなど欠片もなかった、小次郎が言うところの『出し惜しみしていたもの』を抜くしかないと『天劫の雷』は判断し、無我夢中で懐に手を差し込んだ。
「佐々木 小次郎―――参る」
その名乗りが合図だったように、燕返しが放たれた。唐竹、逆袈裟、逆胴の三閃が、斬撃の牢獄を作り上げる。佐々木 小次郎という奇才が、その全霊をかけてたどり着いた、剣の一つの終着点と言っても過言ではない絶技。それは、『天劫の雷』の名で恐れられる男すら例外に含まず、牢獄の中に閉じ込めた。
気で輝く青江が残す軌跡は、さながら上弦の月の如し。美しさすら匂うような、これ以上ない見事な太刀筋であろう。
勝負あった。木乃香を取り戻し、いつの間にか二人の死闘を見つめていた刹那たちは、そう確信した。
―――しかし、しんと静まり返った夜に響き渡ったのは、刀がぶつかり合った金属音であった。
「む……」
仮に仕留められずとも、腕の一本は貰うつもりであった小次郎は、その意外な結末に対して呟きを漏らす。その理由は、二つあった。
一つは無論、『天劫の雷』が五体満足でいる事。
そしてもう一つは、その五体満足である原因―――唐突に現れた、『天劫の雷』の二振り目の刀にあった。
全長は三尺七寸といったところで、長さ的には太刀に分類される刀であろう。しかし、その刀には他にない、奇抜な特長があった。
それは、刀身の色であった。通常の刀の色である銀色とは対極にあるような黒。それもただ黒いのではなく、僅かに紫色を帯びた刀身は、見た者を虜にする魔的な魅了を、外見に感じる神々しさの中から漂わせていた。濃い蒼を掃いた濤乱刃は、その下に見える本来の白色が、気性の荒い獣の牙を思わせる。
対して、鍔から下の造りは、刀身のような禍々しさのない、真の神々しさに満ちていた。
鍔には美しい鳳凰紋が描かれており、錆朱色の柄紐が、まるで鳳凰の体の色のようにも見える。創り手の趣向によるものか何らかの意味があるのか、目貫にも鳳凰の姿を模ったものがあしらわれており、縁頭には孔雀明王を表す『マー』の梵字を掘るという徹底振りであった。
「―――ッハァ、ハァ、ハァ……!」
辛くも燕返しを避け、その際に地べたを転がってしまった『天劫の雷』だが、生きている事を確認するように荒い呼吸を吐きつつ、二本に増えた刀を小次郎に向けていた。
「……今のはいったいどういった奇術だ、兵よ。急に刀が現れるとは」
「フゥ、フゥ……どうだも何も、見たとおりだよ」
必殺の技を防がれたにも関わらず、小次郎はむしろ嬉しそうに表情を歪めて、なぜ秘剣を防げたのかを問う。
……燕返しが放たれた瞬間、『天劫の雷』は大きく後退した。元よりその間合いの長さで、後退による回避が困難である燕返しは、気による加速を得た事で更にそれが不可能となっている。その不可能を可能としたのが、突然『天劫の雷』の右手に現れた、黒い長刀だ。
現れたそれを逆手に持った『天劫の雷』は、右手を左頭上に置き、刀の長さを活かして唐竹と逆袈裟を防御。逆胴は初めから左手に持っていた刀で防いていたのだ。
小次郎には、その一連の防御が見えていた。しかし唯一つ、なぜ急に刀が現れたのか、それだけは理解が及ばなかった。そのため『天劫の雷』に問うてみたのだが、答えはある意味、完結明瞭としたこれ以上ないものであった。
「テメェの秘剣とやらこそ、なんだありゃあ。刀が三つ迫ってくる何ざ、見たことも聞いたこともねぇぞ」
「……何だも何も、見ての通りのものだが?」
「―――ハッ」
同じく、小次郎の秘剣の正体を掴めなかった『天劫の雷』の問いに対し、小次郎は嫌味な笑みを浮かべて、たった今相手が口にした言い回しを送り返す。
『天劫の雷』は、それが気に障ったというよりも、むしろ好ましく思った風に頬を吊り上げると、
「……いいぜ、面白ぇ。テメェは、敵として認める価値がある」
佐々木 小次郎という男を認めて、剣先を小次郎から外し、戦闘の意思を放棄した。
「ほう。認められたのは喜ばしいが、なぜ剣を引く」
「せっかく本気を出してもいい相手にめぐり合ったってのに、こんな小汚ぇ格好じゃあな。惜しい気もするが、今夜は大人しく引いてやるさ」
この男なりの、一種の礼儀なのだろう。言葉通り、『天劫の雷』は何の未練も見せず小次郎に背を向けると、階段を上り始めた。
まさか木乃香を奪いに来たのか。遠目から見ていて会話を聞き取れなかったネギ達は、未だ気絶している木乃香を庇うように、こちらに向かってくる『天劫の雷』との間に体を割り込ませて得物を構えた。
「……? よせよせ、今の俺にもうやる気はねぇよ。下手にちょっかい出すってんなら、お望みどおりお嬢様は頂くがな。おら、俺は帰るんだ、さっさと下に下りろ」
殺気を感じて視線を向けた先にいたネギたちを見て、『天劫の雷』は苦笑い交じりに忠告する。予想外の言葉を受けて、一瞬惚けたネギたちだったが、構わず近づいてくる『天劫の雷』を見て、刹那が木乃香を抱えて慌てて階段を下っていった。
『天劫の雷』が階段の最上部について辺りを見渡すと、月詠と千草の姿は見えなかった。木乃香を奪い返された時点で、月詠が指示に従い、千草の身の安全を優先して先に逃亡したのだろう。
そして、階下を振り返ると、何故か念を押すような問いを放った。
「ところでよ、侍……テメェの名、マジで佐々木 小次郎なのか?」
「左様だが?」
その問いを訝しみながらも、嘘偽りないと返された答えに、『天劫の雷』は唐突に破顔した。
「そうかい……―――ハ、ハッハッハ! いや、何の冗談かと思ってたが、マジにあるもんだったんだなぁ……」
それは、全力で戦うに相応しい相手―――宿敵と出会えた嬉しさと、奇妙な偶然におかしみを覚えた笑い。一瞬、『天劫の雷』の顔から険が消えるが、それもつかの間、
「じゃあ、名乗ろうか、佐々木 小次郎」
再びその顔に浮かんだのは、百獣の王を連想させるほど、獰猛な獣臭さを漂わせる笑みであった。
「俺の名は武蔵……第九代目正統襲名者、宮本 武蔵だ。この名、俺に斬られるその時まで忘れんじゃねぇぞ、宿敵!」
雷鳴のように深く響く声で、己の名前を明かした『天劫の雷』―――宮本 武蔵は、次の瞬間、雷の如き速さで、その場から消え去っていった。
……嵐が過ぎ去った後のような静けさに包まれた駅で、残ったネギたちは呆然と、武蔵が立っていた場所を見つめていた。
「み、宮本 武蔵って……え、まさか、あの宮本 武蔵?」
いかにバカレンジャー筆頭と呼ばれようとも、流石にその名前には覚えがあったのか。たった今耳にした、おそらく日本一有名な侍の一人であろう人物の名を持った男が本物なのかと、明日菜は誰に聞くわけでもなく呟いていた。
それを肯定したのは、この中で唯一、初めから『天劫の雷』の正体を知っていた刹那だった。
「はい……彼は神鳴流の中において、『宮本』の名と業を受け継いでいる一族の長。正真正銘、本物の宮本 武蔵です。数年前に行方を眩ませたと聞いていましたが、まさか彼が出てくるとは……予想外すぎます」
武蔵が消えた一点を見据える刹那の目にあったのは、なぜ彼が現れたのかという困惑と、存在そのものへの恐怖。神鳴流の同門として、武蔵の過去と力を多少なりとも知っているだけに、刹那が受けた衝撃はまさに青天の霹靂であった。
「……えっと、カモ君。みやもと むさしって、何?」
「簡単に言うと、日本で一番名が通ってる侍だぜ。兄貴に分りやすく言うなら、アーサー王並みの知名度を持ってる存在って感じさ。しっかし……雲行きが怪しくなってきたな、こりゃ」
「な、何で?」
英国人であるネギはやはり宮本 武蔵の事を知らなかったのか、自分の使い魔であるカモにこっそりと尋ねていた。返ってきた答えを受けて、ある程度の納得をしたネギであったが、最後に呟かれた言葉に対して、更なる疑問を投げかける。
カモは、ネギにだけ聞こえる程度の声量で、過去の歴史を語った。
「初代の宮本 武蔵はな、兄貴……佐々木 小次郎っていう剣士を打ち破ったって話がある男なんだよ」
「え……!?」
思わずその言葉を聞いて、依然として武蔵が立っていた場所を見続けている小次郎の方を振り返ってしまった。
カモが言う通り、それは過去の話だ。更に今では、佐々木 小次郎とは人々に捏造された架空の人物である、という説が有力視されている。しかし、同じ時代に再びその名を持ち合わせた二人が出会う事は、ネギ達にとって良くない未来を邪推させるのに十分な力を持っていた。
「―――クッ」
それは突然だった。押し黙って青江を鞘に納めていた小次郎の口から、一言声が漏れたかと思うと、俯かせた顔に手をやって身を震わせ始めた。震えは徐々に大きくなっていき、体全体に侵食していく。
「こ、小次郎さん!? 大丈夫ですか!」
その異変に、真っ先に気づいたのは刹那だった。皆が呆然とするなか、誰よりも早く小次郎に声をかけた。
まさか、小次郎の頬に傷を入れた武蔵の太刀に毒が塗られていたとでも言うのか―――自分の想像に肝を冷やしながら、思わず刹那は駆け寄ろうとした。
しかし、
「―――クッ、ハ、ハハ、ハッハッハッハッハ!」
静まり返った辺りの夜気を砕くような、遠慮のない笑い声が響く。それは、他でもない小次郎の口からあふれ出していた。
「……こ、小次郎さん?」
「え、な、なに、どうしたの小次郎先生?」
「も、もしかして、頭を打っちゃったのかな……」
一体何がおかしいのか、ただ笑い続ける小次郎を、ネギ達三人は心配するような、しかし一歩引いたような面持ちで眺めていた。
「ク、ククク……武蔵、武蔵、宮本 武蔵だと? 聖杯の男め、粋もここまでくれば神の領域よなぁ―――フフ、ハッハッハッハ!!」
小次郎の笑いは続く。それは、抑えても抑えきれない歓喜がうねり返っている笑いだった。
「こ、小次郎さん……まさか、喜んでいるのですか?」
「何を申すか刹那。もはや叶わぬと諦めかけていた、全力を振うに値する相手に、まためぐり会えたのだぞ? これを喜ばずして何を喜ぶというのだ……!」
「―――」
この時、刹那は初めて、佐々木 小次郎という男を遠い存在に感じてしまった。
格好や言動が少々普通を逸脱していて付き合い難さが目立つ男だが、小次郎は自ら距離を詰めて、積極的に麻帆良の生徒たちと交友を深めてきた。刹那も最初は、色々と慣れないところがあって敬遠していたが、今ではすっかり諸々にも慣れて普通の付き合いを続けていた。何より、小次郎が目指す理想の話を聞いてからは、こと剣に関して尊敬するに値する人物であると、慕う気持ちも徐々に生まれていた。
……しかし、それは自分の勝手な思い込みだったのかもしれない。自分と小次郎とでは、剣に対する考え方が根本から違う事を、たった今思い知ったから。
刹那にとっての剣とは、大切な人を守るためのものだ。
しかし小次郎にとっての剣は、己が理想や夢―――言ってしまえば、欲望を叶えるためのものだったのだ。
他人のための剣と、自分のための剣。対極にあるような考えの違いを知って、刹那は胸が締め付けられるのを感じた。それは悲しさを伴う痛みだったが、その痛みがどこから来ているのかまでは、刹那には分らなかった。
「…………ん、ぅ」
「あ、木乃香、目が覚めたの!?」
小次郎の笑いがある程度治まってきた頃、呪術によって眠らされていた木乃香が呻きを漏らした。ただ単に術の効果が切れたのか、小次郎の笑い声で気がついたかは定かでないが、とにかく目を覚ました親友へ、明日菜が真っ先に駆け寄った。
「大丈夫? あいつらに変な事されなかった? 痛いところは?」
「んぁ……あ、すな?」
まだ意識が朦朧としているのだろう、目の前で自分の身を案じている明日菜を、木乃香は焦点の合っていない目で眺めていた。しかし次第に意識が覚醒してくると、自分の周りの状況が分かるようになってきた。
「あれ……何でウチ、外におるんや……? それに、ネギ君にせっちゃん、小次郎さんも……」
木乃香は今抱きかかえられている格好なので、明日菜の後ろに側に、月が輝く暗い夜空が映っている。首をめぐらせて見れば、ネギと刹那と小次郎の三人の姿も認識できた。
「木乃香さん……良かった」
「刹那、木乃香殿に、何か術的な異常はないか?」
「少し待ってください。お嬢様、失礼します」
無事に木乃香を取り戻せた事に安堵しているネギの隣りで、刹那が小次郎の指示を受けて、一枚の札を取り出した。それを木乃香の額に当てて、緊迫した顔で目を閉じる事数秒、
「―――お嬢様に、何も異常はありません……良かった、本当に良かった……」
緊張の糸が切れたように、ほっと、刹那の顔が安堵のものに崩れた。それは、心の底から木乃香の無事を喜んでいるというのが、一目で分るものであった。
「ぁ……」
その言葉と表情が、依然として木乃香の意識にかかっていた霞を吹き飛ばしていた。
春休みに見合いの席で、小次郎から言われた言葉が脳裏に蘇る。
―――刹那は木乃香殿の事を嫌ってはおらぬ
その時は、ずっと不安だった刹那の気持ちを知る事ができたと喜んだ。しかしそれから数日が経つと、本当にそうなのだろうか、という別の不安が木乃香の胸の内に生じ始めていた。
小次郎を信じていない訳ではなかった。短い付き合いだが、小次郎の人柄は多少なりとも理解しており、特に一度取り決めた約束に対しては、律儀すぎると感じてしまうほど果たそうとする。そんな小次郎が調べてくれた事なのだから、刹那が自分を嫌っていない、というのはほぼ事実といって問題ないのだろう。
だが、それは確信ではない。自分の目と耳で知っていない以上、絶対とは言い切れないのだ。その僅かな不安が、今日この日まで、木乃香の刹那への想いを陰らせていた。
しかし、目の前の刹那の言葉と表情は、それを明確に否定している。木乃香は霞と一緒に、今までわだかまっていた不安もまとめて吹き飛んでいくのを感じていた。
「え、わ、えぇ!? ちょ、ど、どうしたの木乃香! いきなり泣き出して、やっぱりどっか痛いの!?」
「え、あ……ちゃうん、ちゃうんよ明日菜。せっちゃんが、ウチを嫌ってへんって分ったから、嬉しくて……ぐすっ」
急な変化に驚いている明日菜に言われて、木乃香は初めて自分が泣いている事を自覚したが、その涙の理由だけは、直ぐに理解する事ができた。
「お嬢様―――」
その涙を見て、刹那は呆然と、木乃香の事を小さく一度呼ぶだけだった。
「良かったな、木乃香殿」
「うん、あんがとな、小次郎さ―――あぁ!? どうしたんや、そのほっぺたの傷!」
一人、木乃香の涙の理由を察する事のできた小次郎は、色々な意味を含めてその一言を贈る。木乃香もまた、小次郎の言葉の意図を理解してそちらを向きながら礼を返したが、小次郎の頬の傷を見るや、跳ね起きて小次郎に駆け寄った。
「うわー、パックリ切れとるやん……血もこんな出てるし。あぁ、着物まで汚れとる! こないに綺麗やのに……」
「む……す、済まぬ」
自分の心配をしてくれているにも関わらず、なぜか小次郎は謝罪しながら木乃香から視線を逸らし、何とも居た堪らない様子だった。
「……え、えーと、木乃香。ここじゃあ小次郎さんの治療もできないし、早く離れてあげた方が……」
「ほえ? 何でや」
「その、木乃香さん……格好が」
言い難そうに進言してきた二人の言葉を受けて、木乃香は初めて、自分の姿を見下ろした。
ホテル嵐山の長袖の羽織を前後反対に着ている以外、一糸纏わぬ自分の姿を。
小次郎が武蔵と戦っている間に、ネギが千草に風花・武装解除を放った余波で木乃香の衣服も吹き飛んでしまっていたのだが、そんな事を木乃香が知るはずもなかった。
「あ―――やぁーん、小次郎さん見んといてー。せっちゃん助けてやー」
「わ、え、あ、お嬢様!?」
「い、いや。私は見ておらぬぞ、木乃香殿」
年下のネギはともかく、十歳も年上の小次郎に見られるのは恥ずかしいのか、途端に顔を赤くした木乃香が刹那の背中側に逃げ込んだ。急に木乃香に絡みつかれて慌てる刹那と、少し焦りながら「見ていない」と木乃香を説得する小次郎。今までの死闘が嘘のような平和な一幕を見て、ネギと明日菜の頬が綻んだのは、致し方ない事だろう。
「ふふ……さぁ、皆さん。そろそろ旅館に帰りましょう。小次郎さんの怪我も治療しないといけませんし」
「そうね。あーあ、初日からえらい事になってきたし……どうなっちゃうのかしら、この修学旅行は」
「小次郎さん、ホテルに戻ったらほっぺた治したるからなー」
「それは助かる。是非お願いしたい」
「お、お嬢様。あまりくっつかれると歩きにくいのですが……」
ネギの言葉を皮切りに、ホテル嵐山へと向けられた全員の足は、どこか軽いものに感じられた―――
後書き
長かった…………やっと書き終わった。逢千です。
もっとスルスルとスムーズに行く予定だったのですが、気づけばかなり長い間を空けてしまった。お待ちしていた方々、どうも申し訳ありませんでした。
何はともあれ、ようやくその姿を現した『天劫の雷』こと、宮本 武蔵。やはり書いていて楽しいものがありました。厨ニ臭い? 知りませんなw
以前、初登場した幕間2で、本名をうっかり公開してしまったというミスはありましたが―――それも今ではいい笑い話です、はい。
このオリキャラが、少しでも多くの読者に受け入れられて、愛されることを願っております。今後も小次郎との関係を中心に暴れまわりますので、どうかお楽しみに。
―――というか、正直今回は、詰め込みすぎたぜ。
感想指摘、意見とうとう、お待ちしています。
では。
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