「…………うむ、こんなところか」


 早朝六時。常よりも早起きをして、修学旅行に向けた身支度を整えていた私だが、予想を超えて時間がかかってしまった。本当ならば、五時四十分ほどには家を出るつもりであったが、二十分も遅れてしまった。


 改めて、時間が遅れてしまった理由であるスーツが乱れていないか、鏡を見やる。


 紺一色に染まった無地のスーツ。僅かに開いている胸元からは、白いワイシャツが覗いている。最も身につけるのに時間がかかった紫色のネクタイは、多少緩めにして首に巻いてあった。


 着物と違い余裕がない分、体全体が締め付けられるような感覚は、どうも慣れぬ。ましてや、自ら首を絞めるこのネクタイは、全く持って私の想像の外だった。結び方は茶々丸から懇切丁寧に教わっていたのだが、一人になった途端上手く結べなかった。もう少し練習すればよかったかと後悔しながら、結んでは解いてを繰り返した。


 愛花は昨日の内に、エヴァの家に預けてある。動物が好きな茶々丸は嬉しげであったが、人形に毛がつく、とエヴァは不機嫌であった。とは言っても、断らない辺り、エヴァも満更ではないのであろう。その代償に、土産の追加はしかと要求されたが。


 修学旅行に必要な荷物を全て詰めた“きゃりーけーす”を後ろ手に引きながら、玄関を出た。


 集合場所には電車で向かわねばならぬ。一昨日に刹那から教わったおかげで、乗り方は理解できたが、目的地にしかと着けるかは、まだ一抹の不安が残っていた。胸ポケットに収めた、電車で降りる駅の名前と、そこからの道のり、集合場所の名前を振り仮名つきで書いてある紙を、服の上から頼もしげに撫でながら、私は駅に向かって歩き出した。


 草鞋の代わりに履いている革靴の裏面が、コンクリートに当たってコツコツと音を鳴らす。格好も手に持っている物も普段と違うせいか、何時もの朝の景色が目新しく見えた。


 青江は背負っていなかった。私が青江の帯刀を許されているのはこの麻帆良に限っての話であり、その他では違法行為として罰せられてしまう。よって、学園長殿の計らいで、青江は別口で郵送し、秘密裏に皆が泊まる宿の私の部屋に届ける手はずとなった。それ以降は、同封される認識阻害の呪符を使い持ち歩くことになっている。


 少し肌寒い朝の空気を心地よく感じながら、駅までの道のりを車輪が転がる音を引き連れて歩く。程なくして、駅に到着した私は、初めて一人で電車に乗り込んだ。切符を買う時は、誤った金額のものを買わぬようにと、必要以上に集中して路線図と紙を見比べてしまった。


 かなり早い時間帯だからだろう、電車の中に人はまばらだった。


 駅を乗り過ごしてしまわぬよう、意識を集中して、車内の放送に耳を傾ける。紙に書いてあるひらがなと同じ言葉が聞こえると、私は紙を元のポケットに仕舞い、きゃりーけーすを掴んで電車を降りた。紙に書かれている地図に従って進んでいる内に、目的地である大宮駅に到着した。


「おはよう、新田殿、源殿、瀬流彦殿」


「あぁ、来ましたか、小次郎先生」


「おはようございます、小次郎先生」


「おはよう、小次郎君」


 他の先生方が集まっている固まりを見つけたので、足早に近づき、朝の挨拶を交わした。


「あら、よくお似合いですね、スーツ」


「それはよかった。友人に選んでもらったのだが、これで顔も立つと言うものよ」


 挨拶を済ますなり、源殿が私のスーツ姿を似合うと褒めてくれた。見れば、新田殿と瀬流彦殿も、源殿に賛同するように頷いている。友人―――茶々丸が選んでくれた故不安はなかったが、やはり改めて褒められれば、嬉しいのが人の心であった。


「あ……」


 今日の日程等を改めて話していると、横合いから呟きが聞こえた。そちらを向いてみれば、ネギが少し戸惑った表情でこちらを見ていた。


「おぉ、これはネギ。おはよう」


「は、はい……おはようございます」


 私はにこやかに挨拶を交わそうと思ったのだが、ネギはぎこちない風に言葉を返してきた。やはり、先日の茶々丸との一件が尾を引いておるのだろう。折を見て誤解を解こうと決めつつ、折角なので生徒にも挨拶をしておこうと、新田殿たちに断りを入れてから3−Aの面々が談笑を交わしているところに近寄った。


「おはよう、皆よ」


「え……うおぉ! 小次郎先生、カッコイイー!」


 顔を合わすなり、刹那とは逆の方で髪を結んでいる女子―――明石 裕奈殿が、叫びに近い声を上げた。それを受けて、周りにいた他の3−Aの女子らも私に気づいたようで、


「うわー……小次郎先生、かっこえぇな、まき絵」


「だねー。普段の着物姿もいいけど、スーツ着るとキリッとするね」


「もう完全にホストよねホスト。これはいいネタになりそうだわ」


 などなど、思い思いの感想を口にしてくれた。


「はっは、お褒めに預かり光栄よ。しかし、今日は真、絶好の旅行日和。皆は旅行を楽しむ準備、抜かりないか?」


「もっちろんですよ、小次郎先生! この五日間、灰になるまで遊び倒しますっ!」


「は、灰になったら、まずいんじゃないかなー……」


「無駄ですのどか。今更、ウチのクラスの人が聞くと思うですか?」


「ククッ、その意気込みは結構だが、程ほどにしておくのだぞ。ここぞという時に燃え尽きてしまっては、其方らのこと、悔やんでも悔やみきれまい」


 元気がありすぎる程の勢いで親指を立てながら、明石殿が宣言した言葉に、苦笑いしながらそう注意を促した。明石殿の隣りで、引きつった笑いを浮かべた宮崎殿も、控えめに明石殿を止めようとしていたが、綾瀬殿の達観にも似た発言によって諦めさせられていた。


 その後も、土産を何にしようかだとか、どこそこが楽しみだとか、枕が変わると眠れなくなるから自分のを持ってきた、などと言った談笑が交わされていく。どの女子も語る表情は楽しげで、本当にこの旅行を楽しみにしていることが、容易に窺えた。


「―――ん?」


 一歩引いて、その賑やかな光景を眺めていると、どこからか視線を感じた。


 まさか、既に西の者が潜んでおるのか……?


 僅かに目を細め、感覚を辺りに伸ばし、気配の出所を探る。瞬く間にそれは見つかり、心配が杞憂であると知った。


『……微妙に抜けておるな』


 理由はよく分からぬが、何故か柱に身を潜め、しかし側頭部にまとめている髪の毛を覗かせている顔見知りの女子を呼びつけた。


「刹那、何をしておる、こちらに来ぬか」


「へっ!? え、あ、はい」


 間違いなく聞こえるよう、少し声を張ったからであろう。ビクッ、と身を竦ませた刹那が、やや気まずそうにこちらに歩いてきた。


「おはよう、刹那」


「……おはようございます、小次郎さん」


 やや恨みがましい視線で私を見上げながら、刹那は挨拶を返してきた。丁度、その時であった。


「やっほー、みんなおはよーさん―――って、あぁ、何や小次郎さんその格好!?」


 神楽坂殿と一緒に現れた木乃香殿が、私の格好に気づくや否や、わき目も振らずに駆け寄ってきた。


「これは木乃香殿、おはよう」


「おはようさんや、小次郎さん。それより、どうしたん、スーツ何か着て」


「あぁ、今日の私は先生であるからな。相応しい格好をせねばなるまい。どうだろう、木乃香殿から見て、似合うか?」


「もっちろん、似合とるでー。カッコイイわぁ、モデルさんみたいや」


「それは重畳―――こら、どこへ行く、刹那」


「え、あの、ちょっとそこまで……」


「私が呼んですぐにか? 随分と無礼ではないか」


 私が木乃香殿と話している間に、こそこそとこの場から離れようとしていた刹那の足を、言葉と視線で縫いとめた。刹那も、今の言い訳が無理のあるものだと承知していたのだろう、大人しく元いた場所に戻ってきた。


「……お、おはよう、せっちゃん」


「―――おはようございます、お嬢様」


 おずおずとだが、明確な意思を持って、木乃香殿が刹那に挨拶をする。しかし刹那は、凝り固まった儀礼的な言葉と動きで、それに応えてしまった。あっ、と木乃香殿の表情が暗くなり、重くなった周囲の空気と一緒に顔を俯かせてしまう。


 ……修学旅行で少し、刹那に近づいてもいいだろう。昨日、学校で木乃香殿に話した言葉だ。木乃香殿はその言葉を信じて、自ら一歩を踏み出したのだが、刹那は同じだけ引いてしまった。無論、容易くは行かぬということも話してあったが、分っていても辛いことが、世の中にはある。木乃香殿にとって、刹那との関係がそれだった。


 互いが口を閉ざしてしまい、気まずい空気が流れる。仲立ちとして、せめてこの空気だけでも払拭しようと、口を開いた。


「刹那、すっかり聞きそびれておったが、どうだ、このスーツは似合っておるか?」


「え? あ、はい……似合うと思いますが」


「左様か。これだけの者にそう言われるのであれば、自信を持っても大丈夫そうだ。
 ……あぁ、そろそろ乗車の準備の時間だ、其方らも並んだ方がいい。私も勤めに戻ろう」


「あ、そやよね……ほしたら、小次郎さん、せっちゃん。また後で」


「……はい。では」


 刹那が私たちに一礼をしてから、班別に並び始めている一団に向かい、その中に加わった。木乃香殿もそれを見届けてから、改めて私に声をかけ、神楽坂殿の下へ戻っていった。


「……分っていたことだが、ままならぬな」


 刹那に、木乃香殿と仲良くなりたいという願いがあることは、疑いない。だが、その願いを阻む何かが存在し、私はそれの正体を掴むことが未だできずにいる。そんな状態で、木乃香殿に合図を出した私は、浅はかな愚か者なのであろうか。


 ……否、仮にそうだとしても、動かなければ何も変わらぬ。願うだけで眺めていては、変えられるものも変えられなくなる。


 何より、修学旅行という、普段とは違った環境で過ごすことになる今は、関係の修復を図るまたとない機会だと私は踏んでいる。元々仲が良かったという二人ならば、ちょっとしたきっかけがあれば、面と面を向けて話ができるであろう。そのきっかけを、この修学旅行が作ってくれるはずだ。


「辛いであろうが、踏ん張り時であるぞ、木乃香殿」


 小さく激励の言葉を残して、私は先生の仕事を勤めるべく、新田殿たちの下に戻って行った。










 修学旅行を楽しみにしている生徒たちを乗せて、新幹線が発車してから数十分が経った。


 向かう先は京都。日本の文化を色濃く残している土地にして、僕の父さんの手がかりがあるはずの場所だ。もともと京都に行ってみたいという気持ちを持っていた僕は今、生徒たちの誰よりも、早く京都に着くことを心待ちにしている。そんな僕の気持ちに応えるように、新幹線は颯爽と線路の上を走っていく。


 とはいえ、今の僕は先生だし、京都に着くのもまだ先の話だ。だから、今はちゃんと先生として、生徒たちが楽しく過ごしているか見て回ることにした。


「あ、面白そう。何の遊びですか?」


「カードゲームだよ、流行ってんの」


「魔法で戦うゲームです」


「へー、魔法ですか。面白そうですね」


 3−Aの皆が乗っている車両に入ると、ゆーなさんたちが席を向かい合わせて、カードゲームを楽しんでいた。ゲームに参加しているのは、ゆーなさん、夕映さん、まき絵さん、ハルナさん、桜子さん、風香さんの六人だ。けど、それぞれの席の後ろから何人かが顔を覗かせて、あれこれアドバイスをしているから、実際には十人近くがこのカードゲームに参加していた。


 真剣にカードゲームを楽しんでいる皆に激励の言葉を残して、僕は次の車両に向かう。


「あはは、賑やかで楽しいなぁ」


「おぉ、ネギか」


「あ……小次郎さん」


 そこで、僕より先に後部車両の方を見ていた、小次郎さんと鉢合わせてしまった。茶々丸さんの一件以来、何度か顔をあわせているけど、未だに向かい合うと体が硬くなってしまう。


「クク……全く、麻帆良の女子はまこと、活力に溢れておる。時に行き過ぎる嫌いはあるが、な」


 恐らく、既に回ってきた車両でスーツ姿の事を始め、生徒たちから色々と騒がれたのか、苦笑いを浮かべながら小次郎さんがそう言った。


「そ、そうですね……けど、いい事だと思います」


「それもまた然り。さて、次は3−Aか……そろそろ失礼する」


 それだけ言って、軽く一礼した小次郎さんを後ろの車両に通すために、横にずれて道を開けた。扉が閉まり、小次郎さんが少し離れたのを確認してから、僕は詰まっていた息を吐き出した。


「兄貴、緊張するのは分るけどよ、あんま身構えるとこっちが警戒してるってのがバレちまうぜ?」


「う、うん……分ってるんだけど、どうしても」


 僕の肩に乗っていたカモくんの言葉に、煮え切らない言葉を返した。茶々丸さんを助けた小次郎さんが僕に浴びせた気迫―――あれがきっと殺気なんだろう―――が、まだ僕の中で尾を引いているのだ。


 カモ君の言葉を受けて、僕は小次郎さんを警戒するに至った理由を思い返した。


 佐々木 小次郎さん―――僕と同期で麻帆良に赴任してきた、剣道部のコーチ。剣の腕前は『最後の武士ラスト・サムライ』という異名がつくほどのものらしく、その容姿と砕けた人当たりも相まって、剣道部など格闘技系の部活に所属している生徒を中心に、とても人気がある。最近では、広域指導員としての仕事も始めたようで、不良の間ではタカミチと同じくらい危険視もされているようだ。生まれは富山の地方で、経営してた道場が過疎化で潰れたために、父親の友達だった学園長先生を頼って麻帆良にやってきたらしい。


 ……これが、カモ君が集めてくれた、小次郎さんに関する情報。エヴァンジェリンさんとの一件が終わった後に、僕から頼んだ事だったんだけど、カモ君も小次郎さんの事は気になっていたのか、進んで調べを進めてくれた。


 もし判明した情報がこれだけだったら、少なくともここまで身構える事はなかったと思う。けど、カモ君が得た情報には、続きがあった。


 どういった手段を使ったかは分らないけど、カモ君は小次郎さんの経歴を徹底的に探ったらしい。その結果、驚くべき事実が判明した。


 小次郎さんの過去には、途中過程がすっぽりと抜け落ちていたのだ。富山で生まれたと思ったら、急に道場の経営破綻に行き着き、麻帆良に流れ着いている。どこの学校に通っていたとか、こういう剣術大会に出場していたとか、いつ道場を開いたとか、そういう成長段階の情報が全く見当たらなかったのだ。


 カモ君は、これが作られた過去だと言っていた。つまり事実上、小次郎さんには麻帆良に来る以前の過去が全くないのだ。


 それでいて、小次郎さんと学園長先生に繋がりがあるのは本当らしく、またタカミチやエヴァンジェリンさんとも交友がある。僕たちは最初、小次郎さんは『エヴァンジェリンさんの従者』だと思っていたんだけど、これだけの情報を前にすると、それすらも怪しくなる。


 結局、小次郎さんの正体は一切不明。下手に手を出さず、遠目から警戒していよう―――そういう結論に落ち着いたのだった。


「まぁ兄貴。佐々木 小次郎が何で『引率の先生』として修学旅行についてきたかは気になるところだがよ、そろそろ周囲に気をつけた方がいいんじゃねーか?」


 小次郎さんについての思考をめぐらせて立ち往生していた僕を、カモ君のその言葉が呼び戻した。


「え……どういう事?」


「じじぃが言ってたじゃんか、道中で妨害行為があるかも知れねぇって。もしかしたら、西からのスパイくらい、もう入り込んでるかも」


「えっ―――スパイ!?」


 言われて、それくらいの可能性なら十分にありえると、僕でも思う事ができた。


 今さっき通り抜けた、3−Aの生徒たちが乗っている車両から悲鳴が聞こえてきたのは、正にその時だった。










 新幹線への乗り込み口がある、車両と車両とを繋ぐ小さい空間。そこの壁に背を預けながら、私は流れ行く景色を眺めていた。


 轟々と、風を突き破る音を辺りに撒き散らしながら、鉄の固まりが駆けて行く。いたるところで見受けられる文明の進展に驚きはもう無くなったが、未だ慣れというものがそれに追いついていなかった。


 それはそれとして、私は待ち人が来るまでの僅かな時間、この新幹線が向かっている慣れ親しんだ地に思いを馳せた。


 京都。私も生きていた頃は、何度か訪れたことのある土地だ。聞くところによると、清水寺を初め二条城など、私の時代から存在した寺や建造物が、幾つもそのままの形を残して存在しているらしい。その話を聞いた時は、麻帆良に蘇ってより初めて、年甲斐もなく胸を躍らせたことを覚えている。事情こそ違えと、あの頃を知るモノが現世に私だけでなかったと言う事実は、それだけの衝撃を私に与えてくれた。


『早く着いて欲しいものだ……』


 長年逢うことの叶わなかった恋人との再会を待ちわびるような気持ちで、窓の外を眺めていると、後部車両側の扉が開いた。


 現れたのは、待ち人である刹那であった。3−Aの車両を去り際に、目配せで刹那に合図をしたのだ。


「何か用でしょうか」


「楽しんでおるところ、わざわざ済まぬ。少し確認したいことがあってな。
 刹那から見て今現在、この新幹線に西の者は潜んでおるか?」


 時間を取らせる訳にも行かぬので、早々に用件を切り出した。私も生徒たちがいる車両を回りつつ、一般客がおる車両も回ってみたが、それらしき人物は見受けられなかった。しかし私に判別がつくのは、せいぜい武芸を修めているかそうでないかと、戦の経験があるかないか程度に過ぎず、魔法の分野については完全にお手上げ状態である。事実、予め学園長殿からそうだと教えられていなければ、私は初見でネギが魔法使いであると見破ることができなかったであろう。


 そこで、多少なりとも陰陽道に通ずる刹那の意見も聞いてみたかったのだ。


 刹那は、そうですね、と前持った後、意見を口にしてくれた。


「私が見たところ、3−A生徒が乗っている車両のそこかしこに、呪符の気配を感じます」


「何……!? まことか」


「はい。ですが調べてみたところ、実害を与える類のものではなく、出来て驚かせるのがせいぜいの代物でしたので、警戒しつつ黙認していました。下手に動いて私の存在を、ネギ先生に知られるわけには行きませんから」


「なるほど……」


 恐らく刹那も学園長殿から、私と似たようなことを言われておるのだろう。だからこそ、斯様な判断を下したに違いない。


 何はともあれ、既に西の妨害が行われているという情報を得た私は、礼を申してから刹那をもう返そうと思った。


 絹を裂くような悲鳴が幾重も聞こえたのは、丁度その時だ。


「何事か」


「今のは、後部車両の方からですね」


 後部車両―――即ち、3−Aの皆がいる方向だ。まさか、今話した呪符が発動したのであろうか。


「私が見に行きま―――む」


 すぐさま踵を返し、3−Aの下へ向かおうとした刹那が唐突に足を止め、竹刀袋に納めていた夕凪を抜き放った。何かそれほどの事態が起きているのかと、私も急ぎ後部車両の方に顔を覗かせた。


 そこには、


「……燕?」


 この私が見間違うはずのない一羽の鳥が、こちらに向かって飛翔していた。よく見れば、口には何か白い便箋を咥えている。更にその遥か後方からは、慌てた風なネギが燕を追うように走っていた。


「あれは……式神です。斬ります、小次郎さん、離れて」


 一言言い捨てた刹那が、夕凪を左手に持ち、右手を柄に添えて燕の進路上に立ちふさがった。親指で鯉口を切る動作と、常の構えより腰が落ちている立ち方から、刹那が放とうとしている一太刀を知ることができた。


 燕はかなりの速度でこちらに向かっているようだ、見る見る内に刹那と燕の距離が詰められていく。


 刹那はあの燕が、式神―――即ち作り物であると言った。


 だが、如何に作り物と言えど、私が六年もの間追い続けた燕を本当に斬れるのであろうかと、私は刹那の一挙一動を食い入るように見つめた。


 燕と刹那が交錯する。


 瞬間、刹那の腕がぶれて、キンッ、と甲高い刃唸りが鳴った。


 燕はその身を二つに断たれ、刹那の申した通り、一枚の紙切れにその姿を還していた。


「……見事」


 思わず、そんな感嘆の一言が漏れていた。五尺余りの長刀で居合いを放ったこともそうであるが、やはり何よりも、燕を斬った、という事実に対しての一言であった。


 如何に『気』を使っていたにしろ、一本線の斬撃で燕を斬るとは恐れ入る。改めて、『気』というものの理不尽さを認識した。


「凄まじいな刹那。よもや、その刀で居合いを放ち、あまつさえ燕を斬って見せるとは」


「いえ……世の中には、もっと長い刀で居合いの稽古をする方もいらっしゃいますから。小次郎さんでも、練習すれば出来るようになると思います」


「ほう。我が燕返しに匹敵する一太刀を、練習すればできる、と申すか」


「ぇ―――あ、い、いえ! そ、そういうことではなく、居合いの話です! 私だって、気を使わなかったら、今の式神を斬れたかどうか―――」


 私の皮肉に、面白いようにうろたえて弁明をしてくれる刹那。その姿を見て溜飲を下げた私は、済まなかったと皮肉を言った非礼を詫びて、足元に転がっていた先ほど燕の式神が咥えていた便箋を手に取った。


 表には、麻帆良女子中等部の校章が張られていた。


「それは……まさか、親書?」


「何、まことか」


 夕凪を竹刀袋に仕舞った刹那が、半信半疑の言葉でそう申した。それならば、ネギが必至になってあの式神を追いかけていたのにも納得が行く。


「待てーっ!」


 そして噂をすれば何とやら……ではないが、ようやく追いついたらしいネギが、私たちのいる場所に駆け込んできた。


「え……あ……」


 はぁ、はぁと荒い息を落ち着けながら、私と刹那二人の間で視線を彷徨わせている。その視線が、ふいにある一点を見定めて停止した。


 その先を追ってみれば、私の手に握られている親書に行き着いた。


『まずいな……』


 私たちの足元には紙になった式神があり、わざわざ人気の少ないところにいた二人の片方の手に、親書が握られている。西からの妨害がある、と伝えられているネギからすれば、相当に怪しい状況であろう。


「ネギ、このような落し物があったのだが」


 せめて少しでも怪しまれぬようにと、進んでネギに親書を渡した。


「あ……はい、これは僕のものです。ど、どうも」


 だが、やはり既に遅かったのだろう。疑いの目を私に向けながら、ネギはおずおずと親書を受け取った。


「ならんぞ、引率の先生がそれでは、生徒に示しがつかぬからな」


「はい……気をつけます」


「うむ。では、私はまた見回りを再開するとしよう。刹那も、わざわざ呼び出してすまなかった、戻ってよいぞ」


「はい。ネギ先生も、失礼します」


 なるたけ自然な流れを作り、内心は逃げるようにその場を立ち去った。背中にネギの視線が突き刺さっていたのは、気のせいではなかろう。


「さて……まずいことにならねば良いが」


 この先の私の修学旅行に、暗雲が立ちこめてしまい、私は顔を顰めた。












 後書き


 ついに始まった修学旅行編。逢千です。


 やっとここまでこぎつけました……いやぁ、長かった。風牙亭から数えると約二年か……執筆遅いなぁ。続いてるからいいけど。


 スーツ姿の小次郎登場。絶対にホストか何かです。夜の街に放ったら……適応しそうで困る。この全世界型対応侍め。


 そして暇さえあれば、刹那を弄る小次郎だった。ちょっとは控えなさい。


 感想、指摘、お待ちしています。


 では。




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