麻帆良全域に、重い闇が垂れ込めている。年に二度、機械のメンテナンスのために行われるこの麻帆良大停電は、明かりだけに飽き足らず、人の往来や音までも麻帆良から奪い去っていた。
代わりに、地上からの光の脅威がなくなった事によって、空に浮かぶ月や星達は常よりも一層その存在を強く示していた。特に、雲に隠れてなお光を届かせている月の威光は、畏怖するほどに壮観であった。
その威光の下、夜空を高速で飛んでいく影があった。杖に跨り空を翔ける様は、見る者がいたのなら直ぐに『魔法使い』という単語を思い浮かべただろう。そして事実、その影はその通りなのだ。
大浴場から飛び出したネギが、影の正体だった。
二つの人影がネギの後を追いかける。同じく、大浴場から飛び出したエヴァンジェリンと茶々丸だ。身に纏う外套を蝙蝠の羽のように大きく広げ、我が物顔で夜空を進むその姿は、六百年を生きる吸血鬼に相応しい。
「あっははは! 本当によくやるじゃないか、あのぼーやは」
上機嫌に笑いながら、エヴァンジェリンは今も必死に自分から逃げている少年の、ここに至るまでの戦いを評価した。
大浴場内から飛び出した直後、ネギは迫り来るサギタ・マギカを全て、対エヴァンジェリン用に用意していた武装の内の一つ、魔法銃を使って撃ち落とした。ウェールズはメルディアナ魔法学校において、射撃の授業で優秀な成績を収めているネギだからこそ、可能な芸当であった。
リボンを使って杖に乗り込んできたまき絵と、その下を走って追いかけながらバスケットボールを使い攻撃してきた裕奈の二人は、進行上にあった旗に上手くまき絵を引っ掛けて落とす事により、並走していた裕奈と衝突させて気絶させた。状況に応じた素早い機転を利かせた事により、エヴァンジェリンのネギへの評価は一層高まった。
大浴場内での対応も含めたこれらが、先の笑いの理由である。
「マスター、残り時間にご注意を。停電復旧まで、後七十二分二十一秒です」
近年稀に見るほど機嫌が良い主に、茶々丸はいつもの調子で留意すべき事柄を思い出させた。
エヴァンジェリンは、ナギにかけられた『登校地獄』によって麻帆良にその身を縛り付けられ、魔力も抑え込まれていた。だがそれとは別に、麻帆良全域に張り巡らされている『結界』によっても、エヴァンジェリンの魔力の相当数が封印されていたのだ。そしてこの結界は、魔力と電力の二つを合わせて成り立っている事が、最近になって判明した。
即ち、学園のメンテナンスのために麻帆良全てが停電に陥るこの日に限り、結界は消え去るのである。
無論、そのための予備電力は用意されていたが、茶々丸がそのシステムにハッキングをかけ機能を停止させる事により、全て、とまでは行かずとも、エヴァンジェリンは束の間の間かつての隆盛を取り戻したのである。
「分かっているさ、茶々丸。そろそろ決着をつけてやろう!」
十五年分の鬱憤を吐き出すかのように、大声で宣言したエヴァンジェリンは、大きく外套を羽ばたかせる。途端、猛烈な加速を見せて高度を上げつつ、一心不乱に空を飛び続けていたネギを射程圏に捉えた。
「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック。氷の精霊29柱。魔法の射手! 連弾・氷の29矢!」
頭上からの、二十九にも及ぶ魔法の射手。声高らかに謳われた詠唱を聞き、ネギは上空のサギタ・マギカに向かい魔法銃で応戦する。中空で次々と爆散していくサギタ・マギカだが、全てを撃ち落した時、ネギの魔法銃の残弾が尽きてしまった。
「―――っ、加速!」
用を成さなくなった魔法銃を放り投げて、両手でしっかりと杖を握り締めたネギは、エヴァンジェリンを振り切ろうと魔力を爆発させた。風がネギの背後で猛り、あっという間にエヴァンジェリンとの距離を突き放す。
「茶々丸!」
「はい、マスター。
……ブースター、ロック解除。高機動戦闘、開始」
両足裏のバーニアのみでエヴァンジェリンに追いすがっていた茶々丸の背中が開き、姿を現した一対のジェットノズルが唸りを上げる。キュゥン、とノズルにエネルギーが収束する音を響かせた直後、爆弾でも爆発したかのような炸裂音を残して、瞬きの間にネギの側面を茶々丸が捉えていた。
「―――!」
「失礼します、ネギ先生」
丁寧にも断りを入れた後、肘の小型ジェットノズルによる加速を伴った左拳が、ネギに向かって無慈悲に放たれた。食らえば首が吹き飛びそうなそれを、咄嗟に頭を下げる事てネギは避ける。ゴウッ、と風の唸り声が後頭部から耳に届き、ネギの心胆を凍えさせた。
上下左右に、戦闘機も真っ青な旋回力でもって目まぐるしく動き回り、茶々丸を振り切ろうとするネギだが、まるで影のように茶々丸は張り付いてくる。先のまき絵のように建造物を使えないかと、凄まじい勢いで後方に流れていく景色の中へ目を走らせたが、適当な物は見つからない。しかもそういったものに気を裂くと、弾丸のような茶々丸の拳打が頬を掠めていくのだ。何か策はないかと、視線の代わりに思考を走らせていく。
「―――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック」
しかし、またも上空から響いたその言霊によって、ネギの思考は凍りついた。
麻帆良全体を見下ろせそうな高度から、エヴァンジェリンが一直線にネギへと迫って行く。速い。恐らく、重力も味方につけているのだ。右手には、サギタ・マギカを超える魔力の塊が見えた。
茶々丸が急速にネギの側から離脱していく。つまり、次に放たれる魔法はそういう魔法だ。茶々丸も巻き込んでしまうような範囲攻撃なのだ。
「氷爆!」
「あぐうっ!」
魔力によって作り出された氷の爆弾が、ネギの左後方で爆裂した。氷の破片・爆風・冷気の三つの凶器が同時にネギに襲い掛かる。瞬間的に障壁を展開し、少しでも威力をそごうとしたネギがだ、急ごしらえではその効果も薄く、左半身の所々が氷付けになってしまった。
「ハハハ、どうした逃げるだけか? 少しは反撃して来い!」
只管に逃げの一手を見せるネギに、魔法使いとして恥ずかしくないのか、と罵りの意味合いを含めた言葉をネギに浴びせるエヴァンジェリン。しかし、ネギはそれにも構わず、凍った体の箇所もそのままにすぐさま態勢を立て直し、再び今までと同じ方向へ飛び出した。
ネギには、策があったのだ。
『す、スゴイ力だ……やっぱり、とても敵わない。けど、後少しで―――』
ネギは、自分がエヴァンジェリンに敵わない事など百も承知だった。
自由に扱える魔力の量は元より、使える魔法の数とそれらの効率的運用、そもそもの経験などといった、『魔法使いの戦い』において重要なウェイトを占めるほとんどの要素で、ネギはエヴァンジェリンに大きく劣っている。そういった諸々を補うために魔法の道具を大量に用意していたのだが、大部分は使われぬまま四人の生徒に毟り取られてしまったし、そもそも付け焼刃的な意味合いしかもっていなかった。
だからこそネギは、エヴァンジェリンに墜とされる前に、己が勝利の場所へたどり着く必要があったのだ。圧倒的優位にあるからこそ、エヴァンジェリンはそのネギの策に気づく事なく、十五年の束縛から解放されるため、一心不乱にネギを追いかける。
「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック」
『―――見えた!』
幾度目かのエヴァンジェリンの詠唱が、ネギの鼓膜を震わせると同じく、ネギが必勝の場所と決めた麻帆良大橋が見えてきた。後もう少しだ、と一瞬ネギの心が緩むが、それが拙かった。
「来たれ氷精 大気に満ちよ。白夜の国の凍土と氷河を―――こおる大地!」
功を焦り、迂闊に橋の上へ着地しようとしたネギは、エヴァのこおる大地によって橋から発生した大量の氷柱に襲われた。
「―――っ! あ、あぁ!」
間一髪で上昇、旋回して、氷柱を避けたネギは見事と言うほかないが、無理な動きをした代償に杖から放り投げられて、何度も跳ねながら橋の上を転がっていった。
その様を喜悦の表情で見下ろしながら、橋に降り立ったエヴァンジェリンは、ネギの企みを看破した。
「ふ……なるほどな。この橋は学園都市の端だ。私は呪いで外には出られないから、ピンチになれば学園外へ逃げれば良い―――意外にせこい作戦じゃないか。え? 先生。
もう少し、期待していたんだが…………これで決着だ」
僅かな侮蔑を混ぜた視線で、地に這いつくばっているネギを見下し、茶々丸と共にネギへと歩を進めていく。ぐぅ、と唸りながらネギは、近づいてくるエヴァンジェリンを、悔しげな表情でただ見ているだけだった。
―――それが、エヴァンジェリンを捕らえる、最後の一手となった。
「―――っ!? なっ、これは……!」
パシィンッ、と甲高く鳴る音が、エヴァンジェリンと茶々丸の足元から響いた。魔方陣が輝き、そこから伸びる光の縄が二人に絡みつき、自由を奪っていく。逃げ出そうともがくが、鉄のように固くゴムのように柔らかい縄はエヴァンジェリンをもってしても容易く切れそうになかった。
陣が敷かれた上に、対象が足を踏み入れた時に発動する、対象を絡め取る結界―――
「捕縛結界!? ぼーや……!」
「や、やったー! 引っかかりましたね、エヴァンジェリンさん!」
完全にエヴァンジェリンが結界に捕らえられた事を確認すると、ネギは跳ねるように飛び起きて両手を挙げ、喜びを全身で表現し始めた。ネギがまだ十歳にも満たない少年であるという事が、その姿から窺える。
「もう動けませんよ、エヴァンジェリンさん。これで僕の勝ちです! さぁ、大人しく観念して、悪いことももう止めてください!」
あまりの興奮で鼻息を荒くしながら、ネギは得意顔でエヴァンジェリンにまくし立てた。
……これで勝負が決まったと『確信』している辺りも、ネギがまだ十歳に満たない未熟者である事の表れであろうか。
「……やるなぁ、ぼうや。感心したよ―――ふ、あは、アハハハ!」
紡ぎだされた言葉は、自分を罠に嵌めた事への純粋な賞賛。そして、後に続いた笑い声は、予想以上のネギの才能への喜悦。
そのどちらにも、敗北を認めるような色は欠片も混じっていなかった。
「な、何が可笑しいんですか!? ご存知のように、その結界に捕らえられたら簡単には抜け出せないんですよ!」
「そうだな、本来なら、ここで私の負けだろう―――茶々丸」
「はい、マスター。……スイマセン、ネギ先生」
エヴァンジェリンの指示に従いつつ、申し訳無さそうにネギへ言葉をかけた茶々丸に変化が生じた。耳から伸びる機械の根元と先端から、アンテナの様なものが更に飛び出したのだ。
「―――結界解除プログラム、始動」
「え、あ……えぇ!?」
「十五年の苦渋を舐めた私が、この類の罠に何の対処もしていなかったと思うか?」
茶々丸の中にインストールされていた、魔術的なトラップを無効化するプログラム―――恐らく、ナギとの経験を経たエヴァンジェリンの協力の下で作られたのだろう―――が起動され、光の縄に皹が入っていく。皹は瞬く間に魔方陣まで侵食し、
「―――この通りだ」
パキンッ、とガラスが割れる様な硬質の音を響かせて、粉々に砕け散った。
「そ、そんな、嘘!? ズルイ!」
「私も詳しくは分らないんだがな、科学の力って奴さ」
ヤレヤレ、という風に苦笑いしながら、エヴァンジェリンは自嘲する様に肩を竦めた。実際のところ、エヴァンジェリンも茶々丸が使ったプログラムの原理など知らないし、そういうものを自分が頼って使っているのだから、それは当然と言えるだろう。
「うぅっ……! ラス・テル―――あぁ!?」
内心、卑怯だ、と子供特有の感情的な批判を浴びせながら、再び二人を捕らえようと詠唱を始めようとしたネギだったが、あっという間に茶々丸に杖を引っ手繰られてしまった。
魔法使いは、特殊な事がない限り、杖がなければ魔法が使えなくなる。これでネギの戦力は、ほとんど封殺されたと言っていいだろう。
「ふん……奴の杖か」
茶々丸から受け取った杖を、忌々しさと僅かな懐かしさを混ぜた目で見つめること、数瞬。
「あ」
「ああっ!?」
ポーン、と。興味の失せた物を放る様に、橋の下に広がる湖へ無造作に投げ捨てた。ネギは元より、茶々丸にさえその行動は予想外だったのか、放物線を描いていく杖を、ただ呆然と見届けるだけだった。
「な、何するんですか、エヴァンジェリンさん……! あ、あれは僕の何よりも大切な杖……―――ひ、酷い、酷いですー! 本当なら僕が勝ってたのにー! ズルイですよもう一回勝負してくださーい!!」
今口にした通り、自分が何よりも大切にしている杖を投げ捨てられて、半べそをかき始めたネギは、完全にただの十歳の少年と成り果てた。駄々をこねながら両手を振り回し、茶々丸に頭を押さえられている事にも気づかず、エヴァンジェリンに詰め寄ろうとする。その姿に、エヴァンジェリンが認めた魔法使いの面影はない。
そのネギのあまりの変容ぶりに、どうしたらいいのか分らなくなった茶々丸は、ネギの頭を押さえたまま、エヴァンジェリンとの間で顔を交互させるだけだった。
「―――っ」
杖を投げ捨てた本人であるエヴァンジェリンは、ネギの情けない姿に苛立ちを感じていた。
大浴場から始まったネギの攻防は、本当によくやっていた。特に、先ほど破ったばかりだが、捕縛結界にはまんまとしてやられたのだ。エヴァンジェリンの中のネギの評価は、時間と比例して右肩上がりだった。
それがここに来て、一気に底辺を突破してしまった。罠は、破られてしかるべき物。それを見越した更なる罠を張ってこそ、初めて意味を成す。
だというのに、たった一つしか罠を用意しておらず、いざそれが破られただけでこうも泣き喚かれては、その苛立ちも仕方のないものであろう。
「あうっ……!?」
パシンッ、と乾いた音がネギの頬から響いた。苛立ちが限界に達したエヴァンジェリンの平手打ちが、ネギの頬を殴打したのだ。打たれた衝撃で、ネギの眼鏡が音を立てて橋の上に転がっていった。
「一度戦いを挑んだ男がキャンキャン泣き喚くな、馬鹿者! この程度でもう負けを認めるというのか!? お前の親父ならばこの程度の苦境、笑って乗り越えたものだぞ!」
十歳前後の女の子である外見からは想像もできない迫力を全身から放ち、指を突きつけてエヴァンジェリンはネギを罵倒する。打たれた頬を押さえて、気圧されたように力なく、ネギは橋の隅にある段差にしなだれかかっていた。あまりの迫力に、以前見た事がある大人の姿のエヴァンジェリンを、ネギは幻視してしまった。
「あ、ぅ……」
「―――……いや。だがまぁ、今日はよくやったよ、ぼうや。一人で来たのは、無謀だったがな」
ネギの怯えた視線を受けて、ふと感情を荒げている自分に気づいたエヴァンジェリンは、冷静さを取り戻した後、改めてネギへの正しい評価を口にした。
「では……血を吸わせてもらおうか」
膝立ちになり、ネギに覆い被さるようになったエヴァンジェリンは、胸倉を掴み上げて首筋をあらわにした。染み一つない、純白と言って差し支えないほどの肌が、月光を浴びて闇の中に浮かび上がっている。
これからこの首筋に、牙を突き立てる―――吸血鬼としての感情に火が点いたのか、ハアァ、と熱い息を吐きながら、頬を僅かに紅潮させて、緩慢な動作で口を首元に寄せていく。
「……マスター。差し出がましいですが、ネギ先生はまだ十歳です。あまり酷い事は……」
今まで静かに控えていただけだった茶々丸が、ここに来て主であるエヴァンジェリンに助言を申し立てた。恐らく、今後のエヴァンジェリンの立場と、純粋にネギの身を案じての事だろう。だがそれでも、忠実な彼女が僅かとはいえ主に異議を申し立てたのだから、そこに茶々丸の心根の優しさを窺う事ができる。
「心配するな、別に殺しはせん。せいぜい、三日か四日貧血になる程度だ。
……それに、このぼーや自身にも、興味が出てきたところだしな」
未熟ながらも、ネギはその才能の一角を今夜の戦いで見せ付けた。言うなれば今のエヴァンジェリンの心境は、道端で希少価値のありそうな鉱石を見つけたようなものだった。ここで殺してしまうのは、惜しい気がした。六百年を生きてきたエヴァンジェリンにとって、退屈を紛らわせるものはどれだけあっても足りないくらいなのだ。
「コラー! 待ちなさーーいっ!」
エヴァンジェリンの牙が、ネギの首の皮を突き破ろうとする―――寮を飛び出した神楽坂 明日菜が、この場に駆けつけたのは、丁度その時だった。
「フン……来たか、ぼーやのパートナー。神楽坂 明日菜」
ネギの首から牙を外し、百メートル以上彼方から弾丸のように駆け寄ってくる明日菜に視線を向けた。
以前、エヴァンジェリンは明日菜の手によって、ネギからの吸血を妨害されている。二の徹は踏むまいと、明日菜を明確な敵として捉えたエヴァンジェリンが、従者に命令を下した。
「茶々丸」
「ハイ」
一言名前を呼ばれただけで、主の意を汲み取った茶々丸が、明日菜を迎撃するために駆け出した。
茶々丸には僅かとはいえ、明日菜との戦闘経験がある。動きを知っている茶々丸が迎え打てば、十中八九経験の差で勝利できると、エヴァンジェリンは踏んだのだ。
見る見るうちに二人の距離が縮まっていく。互いが互いを間合いに捉えるまで、残り数歩となった時、明日菜が動いた。
「―――カモッ!」
「合点だ、姉さん!」
明日菜の背中側に隠れていたカモが、肩の上に意気揚々と飛び出した。その両手には、ライターともう一つ、管を巻いた銀色の物体が有った。この状況で出てきたという事は、明日菜にとっての勝機を、カモが握っているのだろう。
銀色の物体を止めるよう巻かれている紙には、“マグネシウム”と書かれていた。
カモを鷲づかみにした明日菜は、そのまま茶々丸の顔の辺りに向かって投げつけた。明日菜の動きに反応こそ出来ていたが、迫ってきたのが明日菜ではなくカモ―――即ち、小動物であったせいで、茶々丸は一瞬迎撃を躊躇ってしまった。
空を舞う中、カモは器用に片手でライターに火をつけ、マグネシウムに着火する。
「オコジフラーッシュ!」
火をつけられたマグネシウムが、強烈な閃光を発した。小さな星が目の前にあるような光だ。人間は元より、視覚回路に光学センサーを搭載していた茶々丸には、特に効果的な目くらましと言えよう。
突然の猛烈な発光によって一時的に視覚を失った茶々丸の隣を、ごめん、と断りながら明日菜が駆け抜けた。そのまま一直線に、迷わずエヴァンジェリンまでの間合いを詰める。
『狙いは私か!』
オコジョフラッシュの光を避けるため、外套で目の辺りを覆っていたエヴァンジェリンが、明日菜の接近にいち早く気づいていた。逆光のせいで顔はよく見えなかったが、明日菜の表情に、エヴァンジェリンへ向かう事の恐れは無いように見えた。面白い小娘だ、と内心で感心の言葉を洩らしつつ、いつぞやの様にはいかんと、片手を伸ばした。
「たかが人間が、私に触れる事すら出来んぞ」
伸ばした片手に魔力を集中させ、意図的に魔法障壁を展開する。エヴァンジェリン程であれば無意識であろうと、攻めの最中においてすら並の使い手以上の障壁を展開させる事が可能である。
それを、意識して障壁を張るべく集中すればどうなるかは、想像に難くない。
生半可な手段では削る事すら望めず、ましてや一人間の力で突き破る事など到底不可能であろう。
そうとは知らず、明日菜は走る勢いをそのまま攻撃の力に転換するために跳び蹴りを放った。理合いも何もない、無造作なものではあるが、傍目からも相応の威力を持っているだろう事が察せられる勢いだ。それでもエヴァンジェリンは、多くの戦いに裏付けられた自信を持って、障壁と衝突し無様に地面に這い蹲る姿を見てやろうと、悠然と見届けた。
しかし、その後に響いた音は、障壁との衝突音ではなく、蹴りが己の頬を捉えた鈍い音だった。
「!?」
到底女子中学生によるものとは思えない衝撃が、エヴァンジェリンの頭部を貫き、体さえも宙に舞わせた。視界が回転する中、エヴァンジェリンは一瞬、何が起こったのか理解する事ができなかった。
いつかの奇襲とは違い、今回は間違いなく障壁を、それも意識を集中して展開していたのだ。それをあたかも紙の盾であるかのように貫かれては、『闇の福音』と恐れられた己の沽券に関わってくる。何の前触れもなく訪れる天災のような理不尽さと言えよう。
「ば、馬鹿な、貴様一体―――あれ?」
何とか思考を取り戻し、身を捻って着地をした後。振り返ったその先に明日菜はなく、一瞬前までへたり込んでいたネギの姿すら、闇に消えていた。
「くっ……どこだ、どこへ行った!」
「申し訳ありません、マスター…………あ、マスター、鼻血が」
僕たちが隠れている柱の向こう側で、エヴァンジェリンさんが僕たちを探して声を荒げている。茶々丸さんはそれを宥めるように謝っている。言葉からして、きっとハンカチで鼻の辺りを拭いているんだろう、もがっ、と呻くような声も聞こえてきた。
「はぁ、はぁ―――ふぅ……危なかった」
さっき、あっという間に僕を助け出してここまで連れてきてくれたアスナさんが、隣りで息を整えていた。
凄く、情けない気持ちになった。
「アスナさん……ゴメンナサイ。僕……アスナさんに迷惑かけないようにって、一人で頑張ったのに……ダメでした」
せっかく、アスナさんをこれ以上魔法と関わらせず、危険な事から遠ざけようと、一人で戦ったのに。エヴァンジェリンさんに勝てなくて、見っともなく泣き喚いて、結局はアスナさんに助けられた。
あんまりにも自分が情けなくて、悔しくて。喉がつまって目頭が熱くなったのに気づき、歯を食いしばって耐えようとしたけど、あっという間に涙が僕の頬を伝って落ちた。それと一緒に、堪えていた弱音もあふれ出してしまっていた。
「―――バカ。ガキのくせに、無理しちゃって」
とても優しい声だった。バカって罵られて、拳骨で軽く小突かれたのに……じんわりと染みるみたいに、僕の心に温かい気持ちが満ちていった。
「ガキがこんな所で意地張ったって可愛くないのよ」
「うぅ……」
「いい? この場合はね―――」
僕の目を真っ直ぐに見据えて、笑いながらアスナさんが口を開く。その目から、迷いを見出す事はできなかった。
「私が来たくて来たんだから、迷惑でも何でもないの。ほら、協力するから、チャッチャと問題児をどうにかするわよ、ネギ」
「アスナさん……」
その力強さすら感じる言葉が、僕の心に漂っていた暗い気持ちを吹き飛ばしてくれた。
―――お前の親父ならばこの程度の苦境、笑って乗り越えたものだぞ!
エヴァンジェリンさんに言われた言葉が蘇る。
……そうだ。これくらいで迷い、へこたれていたら、エヴァンジェリンさんは倒せないし、父さんにも届かない。ここで蹲ったままでいたら、きっと僕はどこへも行けなくなる。
涙を拭い去り、アスナさんに習って、迷いなくハッキリと口を開いた。
「―――お願いします。僕、あの人に勝たなきゃ!」
「おっしゃ、そうこなくっちゃ、兄貴! では姉さん、いっちまおうぜ!」
アスナさんの肩に乗って、事の成り行きを見守っていたカモ君が嬉しそうに僕の声に応えて、何かをアスナさんに促した。むぅ……仕方ないわね、とやや顔を赤らめて渋りながらも、まだ踏ん切りがつかないのか、アスナさんは所在無くモジモジとしている。
その間に、カモ君は僕とアスナさんを中心に、魔方陣を描き上げていた。
「非常事態だし、相手は十歳だし…………うん、準備OK。行くわよ、ネギ」
仮契約の魔方陣だ―――気づいた時には、思い切ったアスナさんが、僕の両頬に手を添えて、その柔らかい唇を僕のそれに重ねてきた。
頬を赤らめて目を閉じているアスナさんの顔だけが、仮契約の魔方陣から発生している光に照らされて、開かれたままの僕の目に映っていた。
「―――な、ななな何するんですかアスナさんー!? ぼ、ぼ、僕、キスした事なかったんですよ!?」
ようやく何がおこったのかを理解して、慌ててアスナさんとのキスを解く。バクバクと鳴りっ放しの胸を押さえつけながら、きっと真っ赤になってるであろう顔でアスナさんを見た。
「大丈夫っ。私もしたことないけど、今のはカウントしないから。あんたガキだし」
誰へのフォローなのか分らない言葉を、アスナさんは早口で口にした。何となく、それは男として聞き逃してはならないような言葉に思えたけど、ファーストキスを思わぬ形で迎えた僕に、そんな余裕はなかった。
「兄貴! 前回の仮契約みたくおでこにキスじゃ、力も中途半端なんだよ! それじゃあの二人にはかなわねぇ。
でも今回は俺っちが姉さんに頼み込んでちゃんとキスしてもらったから、いけるぜ!」
今の仮契約の意味をカモ君が説明してきた。正直、先に言って欲しかったけど、それはそれでアスナさんとキスするのを躊躇ったりしていたかもしれない、と少し冷静になってきた頭で考えた。
「―――契約更新!」
カモ君の叫びに合わせて、魔方陣がより一層強い光を発する。それは辺りの闇を切り裂いて、同時に僕とアスナさんとの間に、確固たる繋がりを作り出していた。
「むっ……そこか!」
強烈な光と、同時に巻き起こった魔力の奔流。
鼻血の収まったエヴァンジェリンが、宙に浮かびネギと明日菜を探そうとした直後、それらは明確に隠れていた敵の居場所を伝えた。
直ちにそこへ赴こうとするが、それよりも早く、ネギと明日菜が隠れていた柱からエヴァンジェリン達の前に姿を現した。
「―――ふん……出てきたか」
物理的にもネギ達を見下ろしながら、エヴァンジェリンは尊大に腕を組み、現れた『魔法使いとその従者』を見やる。ネギの方は、まだ表情に緊張が見受けられ、足もガチガチに固まっていた。しかし、明日菜の方はというと、
「うひゃー……空飛んでるよ、空」
何よりも、驚きと呆れの感情が一番に顔に出ていた。生まれながらの胆力と言えよう。
ネギが杖を使って空を飛べる事を知っている明日菜からしても、何の道具も使わずに宙に浮かんでいるエヴァンジェリンは、少々信じられないものがあったのだ。その隣りでホバリングしている茶々丸については、機械という事で既に折り合いをつけていたので、とくに何も思わなかった。
「フフ……どうした。お姉ちゃんが助けに来てくれてホッと一息か、ぼーや……?」
「うぐっ……」
嘲りの笑みを浮かべ、エヴァンジェリンがネギを詰る。長年の戦いで培った、話術により心理戦だ。もっともこの場においては、純粋にネギを弄ってやる事が目的であったが。
そんな事は考えてもいなかったネギであるが、結果的に否定できない事柄を指摘され、恥ずかしさと情けなさで頬を赤くした。
「気にすんな、兄貴ッ」
「そうよ、エヴァンジェリン! これで二対二、正々堂々互角の勝負じゃない!」
主に代わり、たった今従者となった明日菜が、エヴァンジェリンの言葉を突っぱねた。性別は関係なく、魔法使いとその従者が二組いるのであれば、それは尋常な勝負だと、言外に真理を突きつける。
「そうだな……双方パートナーも揃って、ようやく正統な決闘という訳だが―――互角、とはいかんぞ? ぼーやは杖なし、貴様も戦いについては全くの素人だろう」
明日菜の言葉を肯定しつつ、見逃している真実を口にしたエヴァンジェリンが、ネギ達と同じ橋の上に降り立った。自ら『正統な決闘』と口にした手前、開戦は同じ条件で迎えなければ闇の福音の名が廃るという、プライドによるものだ。十五年の時を無碍に過ごそうと、かつてのエヴァンジェリンは何一つ腐っていない。
「……茶々丸、神楽坂 明日菜を甘く見るなよ。意外な難敵かもしれん」
「ハイ、マスター」
戦いの火蓋が切って落とされる直前、エヴァンジェリンは茶々丸へ忠告を一つかけた。
かねてより、学園長がわざわざ孫娘と相部屋にするのだから何かある、と明日菜の存在を気にかけていたエヴァンジェリンであったが、ここ数日の内にその疑いは確信へと変貌していた。
自分の魔法障壁を二度に渡って破り、肉体への直接攻撃をやってのけた人物が、ただの女子中学生であるはずがない。
茶々丸も、その飛びぬけた身体能力から明日菜を要注意人物として認識していたので、すぐさま主の言葉に肯定を返した。
従者の答えに満足した後、エヴァンジェリンはキッと目を細めて、愛しい仇敵の息子を見据えた。
「―――行くぞ。私が生徒だという事は忘れ、本気で来るがいい……ネギ・スプリングフィールド」
「……はいっ!」
今までとは打って変わり、自らの意思をはっきりと乗せた言葉で、戦いの開幕を迎え入れたネギは、この勇気を与えてくれた従者と使い魔に、感謝の念を抱いた。
そして、強く思う。
―――絶対、負けられない!
自分が先に進むために、従者と使い魔の働きに報いるために。目の前の敵を倒すと、その視線が物語っていた。
辺りから音が消え去り、嵐の前の静けさを思わせる刹那の静寂が辺りを押し包む。
「―――契約執行90秒間! ネギの従者『神楽坂 明日菜』!」
仮契約カードを掲げ、ネギが静寂を打ち破った。紡がれた詠唱に従い、明日菜の全身にネギの魔力が注がれる。
「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!」
「ラス・テル・マ・スキル・マギステル!」
エヴァンジェリンも、始動キーの詠唱でそれに応じた。ただ、すぐさま茶々丸が踏み出した事がネギ達と違っていた。契約こそ結んでいるものの、体の大半が機械仕掛けである茶々丸に、魔力供給は意味を成さない。その代わりとなるジェットノズルを体の各所に兼ね備えている茶々丸は、文字通り足元を爆発させ、ネギの魔法を妨害しようと明日菜に飛び掛った。
並みの者なら、繰り出された事すら認識できない速度で、茶々丸の左拳が突き出された。右肩を引き、上半身の捻りの力も加えている一撃は、空手の正拳突きを思わせた。
うひゃっ、と突然の攻撃に怯みながらも、素人とは思えない速度で明日菜が茶々丸の突きを払った。左手で外に向かって払う事で、守りの払いと攻めの踏み込みを同時にやってのけた明日菜の右手が、茶々丸の額へと走る。
明日菜の動きにすぐさま反応した茶々丸は、全く同じ攻撃にロケットパンチを組み合わせたものを、同じ場所に返した。
「あたっ!」
折り曲げた親指に中指と薬指を引っ掛け、力を溜めて解放する攻撃―――俗に言うデコピン、茶々丸のものはロケットデコピンとでも呼べよう―――が、それぞれの額に同時に命中した。ビシンッ、と到底デコピンが発生させられるとは思えない炸裂音が、周囲に鳴り響いた。
威力の高さは、音からある程度察する事が可能であるが、これほどの音を出すデコピンは明日菜に相応のダメージを与えたのだろう、額を押さえて蹲った。しかし、茶々丸も茶々丸で、明日菜のデコピンを受けてバランスを崩していた。
「風の精霊17人! 縛鎖となりて……!?」
デコピンとはいえ、明日菜が攻撃を受ける姿を見てしまい、ネギの詠唱が途中で途切れた。しかしすぐさま、相手は茶々丸なのだからひどい事はしないだろうと、ネギは用意した道具の最後の一つ―――予備の杖として持ってきた、子供用練習杖を手に掲げる。
エヴァンジェリンに投げ捨てられた杖に比べればまるで頼りないが、わがままは言っていられない。ネギは勝利への希望を、自分と同じ小さい杖に託した。
「ハハハッ! 何だ、その可愛い杖は!
食らえ、魔法の射手・氷の17矢!」
ネギが詠唱を中断した事で、先に呪文を完成させたエヴァンジェリンの魔法の射手が、ネギへと殺到した。
迫り来る凶器を前に、瞬時に詠唱を完了させたネギの魔法の射手が迎え撃つ。
「魔法の射手、連弾・雷の17矢!」
名の通り、雷を纏った十七の魔力の矢が、二人の間で氷塊と激突する。花火のような光と音を轟かせ、二人の戦いのボルテージを引き上げていった。
「ハハッ、雷も使えるとはな! だが、詠唱を中断しているようでは話にならんぞ!
―――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック。闇の精霊29柱!」
空へと飛び立ちながら、エヴァンジェリンが次の魔法の詠唱に入った。一杯一杯のネギとは違い、言葉にも表情にも余裕がありありと見て取れる。ネギが雷系統の魔法も使えた事に喜び、同時に未熟な点を指摘しているのが、その表れだろう。
「―――っ!? ラ、ラス・テル・マ・スキル・マギステル! 光の精霊29柱!」
二十九という精霊の数に驚くも、今度は素早く詠唱を完了させ、エヴァンジェリンと同時に魔法の射手を撃ち出した。
「魔法の射手、連弾・闇の29矢!」
「魔法の射手、連弾・光の29矢!」
光と闇。否定しあうも、互いがいてこそ存在が成り立つもの達がぶつかり合う。その対極の輝きが、時折空まで届き、星の輝きを食い潰す。
『立派な魔法使い』を信じているネギと、悪に誇りを持ちそれに順ずるエヴァンジェリン。
魔法の属性が、そのまま二人の信念を表しているようだった。
相殺した魔法の射手の余波が、地上にいたネギに襲い掛かる。
「うくっ……!」
「ネギ!?」
「アッハハハ、いいぞ! よくついて来たな!」
十五年ぶりの戒めからの解放。魔法使いとしての戦い。久しく忘れかけていた戦場の高揚が、エヴァンジェリンの体内を駆け巡っていた。その相手が、あのナギの息子であるという事も、エヴァンジェリンの感情を一層高ぶらせていく。
街にまで届きそうな程よく通る声で笑いつつ、ネギの評価を殊更に高め、エヴァンジェリンは次の一手を心待ちにする。
『ほ、本当に強い人だ……父さんはこんな人に、あんなに簡単に勝ったのか』
余波が生んだ風の奔流から、腕で顔を庇いながら、ネギは改めて父の偉大さを痛感した。
まともに魔法を打ち合ったのはたったの二回、それも初歩の魔法である魔法の射手だ。
しかし、一矢に込められた魔力の純度は、それだけで相手の実力を伝えてくる。
常に限界ギリギリで立ち回っている自分とは違い、エヴァンジェリンは余裕に満ち満ちている。そのせいで、ネギにはエヴァンジェリンが実際の何倍も強く感じられた。
『―――でも、でも……僕だって!』
僅かに脳裏を過ぎった弱気を、奮い立たせた勇気ではじき出す。気持ちの負けが戦いの負けに繋がる事は、つい先程身に染みて分っていた。
「―――ラス・テル・マ・スキル・マギステル! 来たれ雷精、風の精!」
だからこそ、今自分が放てる最強の魔法で、エヴァンジェリンに打って出る―――!
「―――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック! 来たれ氷精、闇の精!」
ネギの詠唱を聞き、瞬時に放たれる魔法を看破したエヴァンジェリンが詠唱を紡いだ。呼び出す精霊の差はあれど、それは間違いなく同種の呪文だった。
「ま、まさか打ち合う気かよ!?」
僅かの驚きと共にエヴァンジェリンの狙いを理解したネギと同時に、安全な場所で戦いを静観していたカモもそれを知った。体重の軽い自分ではこのままだと吹き飛ばされる、と察知したカモは、更に遠くへ離れていった。
「雷を纏いて吹きすさべ、南洋の嵐!」
「闇を従え吹雪け、常世の吹雪!」
全く同じ速度と調子で、二人の詠唱は紡がれていく。それぞれの手に、今までとは比べ物にならない、視認出来る程の魔力が集まり始めた。
それらは正に、嵐のような激しさでネギの手で荒れ狂い、吹雪のような冷徹さをもってエヴァンジェリンの手で渦巻いている。
「―――来るがいい、ぼーや!」
その言葉を皮切りに、二人は同時に魔力を溜めた手を振りかぶり―――
「雷の暴風!」
「闇の吹雪!」
麻帆良大橋すら震える程の衝撃を伴い、白い嵐と黒い吹雪が激突した。
二つの魔法は、完全に二人の間で拮抗していた。互いが押し退けようとせめぎ合っている中心には、近寄っただけで五体が千切れそうな暴力が巻き起こっている。一向に変化の兆しが見えない魔力の衝突は、二人の魔力が互角である事を如実に示していた。
「ぐうっ―――!? くくっ……!」
事ここに至り、エヴァンジェリンもそれを認めざるを得なかった。
確かに、ネギの評価は彼女の中で段飛ばしの速度で上がっていた。しかし、決して自分と同格―――否、そもそも、それに近い次元のものですらなかった。あくまでネギは格下であり、だからこその余裕であったのだ。
だが、自分の魔法と競り合っている目の前の現状は、明確にそれを否定していた。少なくとも、身に宿す魔力の量で言えば、自分と肩を並べる事ができる―――エヴァンジェリンは、少しの苛立ちと共に、ネギの評価を大幅に改めた。
そしてそれは、ネギにしても同様であった。
『ス、スゴイ力……ダメだ、撃ち負ける……!』
魔力発生の基点となっている右腕に、エヴァンジェリンの魔法の圧力が圧し掛かっていた。少しでも気を抜けば、途端に自分の『雷の暴風』は吹雪に食い荒らされ、そのままこの身をズタズタに引き裂かれるだろう。そんな未来の様が、ネギの脳裏で明確に映し出されていた。
外からの圧力と、身の内から忍びよって来た恐怖とに挟まれ、右腕がガクガクと震え始めた。
『―――違う、まだだ! もう……逃げない!』
自分は明日菜に何と言ったのか。それを思い出し、今までで最大の気迫を放つ心の言葉を持って、恐怖を打ち払った。
主の声に応じたのか、ネギの身に宿る魔力の一端が、唸りを上げた。
「えぇいっ!!」
目一杯の魔力を杖に注ぎこむ。そのあまりの量に、子供用練習杖では耐え切れなかったのだろう。あっという間に先端の星に皹が入り、欠片が魔力の余波で生まれた風に乗って飛んだ。
それが、ネギの鼻腔をくすぐった。
「は―――ハクションッ!」
……結果を言えば、それが功を奏したのだろう。くしゃみの拍子で、瞬間的に全魔力を解放したネギの『雷の暴風』が、エヴァンジェリンの『闇の吹雪』を消し飛ばした。
「な―――何っ!?」
驚いた時には、全てが終わっていた。十歳の少年が放ったとは思えない威力の魔法は、完全にエヴァンジェリンを捉え、辺りに壮絶な爆発音を轟かせた。
「ネギー!」
「マスター!」
自分たちの戦いを止め、魔法使いの戦いを見届けていた二人の従者が、同時に主の名を叫んだ。
魔力の残滓が辺りに漂う中、ネギは片膝をついて、息を整えていた。
「はぁ……はぁ」
急激な魔力の放出により、相当な精神力を奪われたのだろう。額には汗が浮かび、心臓は早鐘を打ったようにガンガンと鳴り響いている。とても戦いを続けられる状態でない事は、誰が見ても明らかであった。
―――エヴァンジェリンさんは、無事なんだろうか?
自慢する訳ではないが、今の『雷の暴風』にはかなりに威力が秘められていた。いくら真祖の吸血鬼であるとはいえ、あれの直撃を食らった以上、ただで済むとは思えない。それ故にネギは、自分の生徒でもあるエヴァンジェリンの身を案じた。
「……フ、フフフ。やりおったな、小僧…………いや、期待通りだよ。流石は奴の息子だ……」
しかし、それも杞憂だったようだ。弱々しさは欠片も感じられない声が、先ほどまでエヴァンジェリンが浮かんでいた場所から聞こえてきた。つられてネギは、無事を確認しようと視線を上げた。
そこに、雪のような裸体が浮かんでいた。
「え―――あ、あわっ!? ぬ、脱げ……! ごめんなさいっ!」
魔力障壁を突き抜けた『雷の暴風』が、エヴァンジェリンの服をも吹き飛ばしたのだろう。一糸纏わぬ姿のエヴァンジェリンが、怒りと羞恥で顔を真っ赤にしていた。ただ、体に傷一つない辺り、流石の闇の福音と言ったところだろう。
膨らみが全くない乳房は片腕でまとめて隠し、女性の象徴たる部分は、風に流れた髪の毛があわやといった風に遮っている。しかしそれでも、染み一つない新雪のような肌からは、十分な色香を夜に漂わせていた。
「や、やったぜ兄貴! あのエヴァンジェリンに打ち勝っちまった、信じられねぇ!」
「ぐっ……だが、まだ決着はついていないぞ、ぼーや!」
エヴァンジェリンの怒声が飛び、掲げられた手に魔力が再び集まり始めた時、それは起こった。
「―――! いけないマスター、戻って!」
真っ先にその事態に気づいた茶々丸が、珍しく慌てて己が主に警告を飛ばした。
それが目に見えるまでに、大した時間は要さなかった。
「な……何!?」
バシャン、と何か大きいスイッチが入るような音が響くと同時に、橋の各所で光が灯り始めたのだ。瞬く間に光はその範囲を拡大していき、気づけば街の方からも同じ光が届いていた。
「予定より七分二十七秒も停電の復旧が早い! マスター!」
「ちっ、いい加減な仕事をしおって!」
己が従者に悪態をつく暇があれば、エヴァンジェリンは真っ先に橋の上へ避難するべきだった。その僅かな時間でも、十分にこの後に起きる事態は避けれたのだから。
「―――きゃんっ!?」
一筋の静電気のようなものが、エヴァンジェリンの体に走った。その違和感に気づいた時には、落雷にでも打たれたような光がエヴァンジェリンを襲っていた。可愛らしい悲鳴を上げると、糸が切れた人形のようになってしまったエヴァンジェリンは、まっ逆さまに湖へと落ちていく。
「ど、どうしたの!?」
「停電が復旧して、マスターへの封印が復活したのです! マスターは泳げませんから、このままだと湖に落ちて―――マスター!」
明らかな感情をあらわにし、茶々丸が明日菜への説明もそこそこにすると、全開のブースターを展開して、主を助けようと飛び出した。
だが悲しい事に、自分では落下までに間に合わないと、茶々丸の最高性能のコンピュータが客観的な結果を弾き出していた。初動が遅れたのと、エヴァンジェリンまで距離があった事が、その最大の理由だった。
そんな事はさせない―――機械にあるまじき考えで、その結果を無視した茶々丸が、今にも湖面に落ちそうなエヴァンジェリンを助けるべく、橋から飛び出した。
「―――エヴァンジェリンさん!」
それよりも早く橋から飛び降りた姿を見たのも、ちょうどその時だった。
―――体が勝手に動いたとしか言えなかった。魔力もほとんど使い果たし、杖すらない自分にエヴァンジェリンを助ける事はできないと、十分に理解していたのに、気づいたら迷いなくエヴァンジェリンに向かって飛び降りていた。
きっと、その理由は簡単な事だろうと、視界が高速で流れる中、頭の隅でネギは考えた。
「杖よ!」
歯を食いしばる思いで魔力を搾り出し、ありったけの思いを込めて杖を呼ぶ。それに比例したような速度を持って、ネギの杖はあるべき場所に戻っていた。
素早く身を翻し、杖に跨ったネギは、一気にエヴァンジェリンとの距離を詰めていく。そうして、あと十数センチでエヴァンジェリンが着水したであろうところで、自分の両腕に小さい少女の体を抱える事に成功した。
「エヴァンジェリンさん、大丈夫ですか!?」
腕を掴んだ時、自由落下中の人間を支えるための負荷で肩が痛んだが、それをおくびにも出さず真っ先に容態を尋ねた。
「……なぜ、助けた」
いつだったか、同じような馬鹿を見た事があったエヴァンジェリンは、その時と同じ問いを投げかけた。
あの時ははぐらかされたが、こいつは何と答えるのだろう―――
僅かの期待が混じっていた事を、エヴァンジェリンは自覚していなかった。
ネギは、エヴァンジェリンの目を見ながら、その答えを口にした。
「そんなの……エヴァンジェリンさんが僕の生徒だからに決まっているじゃないですか」
―――それが、気づけばエヴァンジェリンを助けるために飛び出した理由でもある事を、ネギは気づいていた。
自分の父との因縁も、『立派な魔法使い』の使命すら関係なく、先生として生徒の力になるのは当然だと、ネギは一片の迷いもなく、エヴァンジェリンに告げたのだ。
「……馬鹿が」
返された言葉に、不快な響きはなかった。それが、この勝負の勝敗を物語っていた―――
「…………うむ、全て終わったようだな」
輝きを取り戻した麻帆良、その一角にある中等部学生寮の側で、戦いの気配が消えた空を眺めて一言呟いた。
携帯電話を取り出し、茶々丸から教わった通りの操作を行い、相手の携帯電話を呼び出す。
[もしもし、ワシじゃが]
「学園長殿、私だ。市外を担当していた者たちはどうなった?」
[うむ、全員無事に仕事をやり終えてくれたようじゃよ。突破したものも何人かおったようじゃが、街に侵入する前にあらかたは撃破できたようじゃ]
「左様か。実は、私が担当していた区域にも、一人現れてな。今は、刹那の符で動きを封じておる。誰か回収によこしてくれぬか?」
[ほ……それは、ご苦労じゃったの。報酬を上乗せしとくぞい]
「忝い。では」
事務的な会話を終え、携帯の通話を切った。懐に仕舞った後、私に代わって侵入者の乱波―――何とか無事に撃破できた―――を見張っていてくれた刹那に声をかける。
「刹那、今から回収に来るそうだ」
「そうですか」
「刹那は先に戻ってよいぞ。後は私が対応しておく」
「いえ、もし何かが起きてしまってはマズイので、私もこのまま」
「……左様か。まぁ、無理強いはせぬよ」
仕事が終わったと言うに、少しも緊張を解かず、刹那は寮に侵入しようとしていた者を見据えている。符で身動きを封じ、そもそもまだ意識を取り戻していないのに、だ。よほど、寮を襲撃しようとしたことが腹に据えかねているのだろう。
『……そろそろ、良い頃合いかな』
この先の予定を密かに立てつつ、私はもう一度空を見上げた。
「……エヴァ、ネギ。其方らの戦いの結末が、いいものであることを願っておるぞ」
明日、エヴァから聞ける話が、せいぜい労える話であってくれと、私は星に願をかけるのだった。
後書き
…………長かった。ようやっとエヴァ編まで終わった。逢千 鏡介です。
珍しく、ネギま本編にほぼ忠実な話を作ったことになりましたが、いかがだったでしょうか?
私としては、空中での高機動戦闘のシーンが、一番書いてて面白かったです。というか、エヴァが上空から手に魔法をためながら突っ込んできたら、滅茶苦茶怖いと思います。
次回からは、少々閑話を挟みまして、とうとう目玉の修学旅行編です!
これを書くために、花鳥風月を書き始めたと言っても過言ではない。そしてそれに見合ったストーリー展開を予定しております。お楽しみに。
最後に、小次郎の戦闘を楽しみにしていた方々に謝罪を。正直なところ、書く必要性が余り見出せず、今回はネギが主役だ、という思いもありまして、カットいたしました。
では。
十九話前編へ
二十話前編へ
戻る
感想記帳台へ