―――爽やかな月曜の朝だ。雀のさえずりの中、そよそよと風が通り過ぎ、陽光は柔らかに降り注いでいる。これ以上に春らしい日というのも、そうそう見つかりはしないだろう。縁側で茶を啜っていれば、思わず眠ってしまいそうだ。


「そう思わぬか、愛花めいか?」


「にゃあ?」


 自分の後ろを可愛らしい、トテトテと鳴りそうな足取りで付いてきていた猫―――先日、私の家族となった猫・愛花に同意を求めてみる。私の声に反応したのか、首をかしげながら、これまた可愛らしい鳴き声を上げて返事をしてくれた。その姿に心癒された後、のんびりとした足取りで散歩を再開した。


 エヴァの家の周りはまこと、自然が多い。今度の休みの日に、昔を思い出してどこかの木の上で昼寝をするのもいいだろうと考えながら、愛花を肩に乗せた後、散歩を終えてエヴァの家の中に戻った。足の汚れを拭いてやり、床に下ろしてやると、愛花はとある布製の人形の上に飛び乗って丸くなった。


 えぇい小次郎、抜け毛がつくから止めさせんか! とエヴァは怒り心頭であったが、愛花はそこが随分とお気に入りらしく、昨日からあそこを動こうとはしない。終いにはエヴァの方が折れる始末であった。


 茶々丸は今、二階でエヴァの世話をしていて一階にはおらぬので、自分でコップに水を入れた後、椅子に腰掛けて愛花を眺めながら一息ついた。


 ……別荘で修業を始めて、昨日と一昨日を合わせて『十六日』が経った。『気』の制御は思った以上に困難で、最初の二、三日は闇雲に刀を振るっている内、気づいたら倒れていたというのもざらであった。だがその甲斐あってか、まだ『何となく』の域は出ないものの、『気』というものの感覚を掴めたような気がする。『十六日』間、只管に刀を振ってこれなのだから、やはり一度刹那に教えを請うた方がいいだろう。


 まぁ、その稽古のおかげで、今後の方針を立てることはできた。制御はまだまだ不可能なので、先ずはとにかく『閉じる』ことを覚えよう。さすれば、とりあえず普通に戦えるようにはなるはずだ。


「それもまだまだ、手探りの領域を出ぬのだがな」


 自嘲交じりに独り言を呟いた。体の調子だけは既に全快しているので、コップを台所に戻してから、二階に一声かけて了承を得た後、しっかりとした足取りで階段を上る。  二階に到着して、真っ先に茶々丸に声をかけた。


「どうだ茶々丸、エヴァの具合は」


「まだ、熱があります。今日一日は安静にした方が宜しいかと」


「ぐぅ……貴様にこんな姿を晒すとは……ケホ、ケホッ」


 不覚だ、と唸りながら、エヴァが布団の中から私を睨みながらそう言った。そのような元気があるのであれば、明日にはエヴァの病気も完治するであろう。


「……しかし、まさかエヴァが風邪を引こうとはな。しかも花粉症のおまけ付きときた」


 エヴァが体調を崩したのは昨日の夕方かららしく、私が『十六日目』の修業を終えてこちらに帰ってきた時には、既にベッドで横になっていた。それからは、私も別荘に戻るのを止めて、些細なことでもエヴァの看病を手伝った。


 しかし、六百年を生きる吸血鬼が風邪と花粉症で臥せるのは中々に“しゅーる”だと、木乃香殿から教わった現代の言葉を思い出しながら、そんなとりとめのない感想を持った。


「仕方ないだろう、魔力がないと私の体は十歳の女と同じ―――けほっ、けほっ」


「大丈夫ですか、マスター」


 私の軽口に反論しようとしたエヴァが、体を丸めて咳き込んだ。すかさず茶々丸がその背を摩っている。どうも、私が思った以上に重症のようだ。


 これでは今日も別荘に戻り、心置きなく修業に打ち込むことはできそうもない。私も何か力になれぬものかと、顎に手を添えて思考に耽り始める。


「マスター、お薬をどうぞ」


「くそっ、毎度の事だが、こんな物に頼らなければならんとはな……」


 己が身の不甲斐なさを呪っているような表情でエヴァが茶々丸から薬を受け取り、お湯と共に苦々しく飲み込んだ。そのまま再びベッドに背を預けると、思考に耽っている私に気づいたのか、視線をこちらに向けてきた。


「―――ん? おぉ、そうだ」


 それで何かを思いついたのか、エヴァが勢いよくベッドから起き上がった。


「小次郎、貴様もう体調は戻ったのだろう」


「む……まぁな」


 エヴァの問いかけに、何故か背筋を薄ら寒いものが駆け抜けた。


「ならば血をよこせ。用途は違うが、そういう約束だったろう」


「―――むぅ。確かにそういう約束であるから、提供するのは別に構わぬのだが……」


 この、未だ背筋を蠢いている何とも表現しがたい悪寒は何なのであろうか? 確固たる確証も得られないまま、一回目の血の提供が行われる運びとなってしまった。致し方ないかと、観念して腕をまくった。


「では茶々丸、準備しろ」


「はい、マスター」


 てっきり、エヴァが直接私から血を吸うと思っていた私は、茶々丸が何かの準備を進めている中でエヴァに問うた。


「エヴァ、何をしておるのだ? 私から直接血を吸うのではないのか?」


「それが出切れば苦労はせん。満月が過ぎると、昼間は完全に普通の人間と変わらないんだよ」


「ほう、そんな事情が……」


「マスター、お待たせしました」


 エヴァの話に頷いていると、茶々丸が準備とやらを終えたのか戻ってきた。片手にかごを持っており、その中に色々と道具が入っているのが見えた。それらを同じく片手に抱えてきた小さ目の机に並べていく。


 細長い中空の管のようなもの、何度か世話になったことがある少し大きめの“ばんそうこう”、瓶に入った何らかの薬液、何故かガラス製の入れ物―――確かグラスと言ったか―――等等、まるで用途がハッキリしない。首を傾げながら眺めていると、殊更に見たことのない代物が机の上に置かれた。  手のひらより少し大きめの、“びにーる”で作られている袋。そこから“ぷらすちっく”製の管が伸びて、その先には少し太めの針が装着されている。針の中も空洞になっているようで、何かをあの袋に溜めるための物なのであろうか?


 それを手にとって色々な方向から眺めていると、茶々丸はエヴァが横になっているベッドの側に椅子を一つ運び、


「マスター、少しの間、こちらへ」


 そう言って、病人であるエヴァに手を貸して、椅子へと座らせた。


「茶々丸、何をしておるのだ。エヴァはまだ横になっておらねばならぬのだろう」


「そうですが、今は小次郎さんに横になっていただかなければいけませんので」


 不可解なことを口にしながら、かけ布団をエヴァの下半身にかけて、ベッドだけになったそこに私を手招きする茶々丸。エヴァがついさっきまで横になっていた場所に、私のような男が横たわっていいのかという躊躇いはあったが、再三に渡る催促に負けて身を横たえた。


 エヴァもやはり女子だったのだろう、布団に染み込んだ甘い匂いが、私の鼻腔をついた。


 茶々丸はまず私の袖を捲くると、やけに伸縮性のある中空の管で私の二の腕の中ごろをきつめに縛った。次いで、綿のような物体に薬液を染み込ませると、それで肘の内側をポンポンと何度か叩く。そしておもむろに私の腕を掴むと、少し痛いかもしれませんが楽にしていてください、と告げて、あの袋から伸びるぷらすちっくの管にある針を私の腕に―――!


「―――っ!?」


 咄嗟に掴まれていた茶々丸の手を払いのけ、大急ぎでベッドから転がり落ちる。床に落ちてからもさらに一回転して距離を取り、立ち上がりつつ茶々丸に向かい慣れぬ無手の構えを取った―――もとい、取ってしまっていた。


 ……気まずい沈黙が部屋を押し包む。つ、と二人を見れば、二対の驚愕の瞳が私を射抜いていた。今さっきの行動を誤魔化すように、私は会話の口火を切った。


「い、いきなり何をするのだ、茶々丸」


「……何、と申されましても……」


「―――茶々丸、相手は小次郎だぞ。先に説明してやれ」


 エヴァの呆れ交じりの指摘を受けて、あ、と茶々丸は口に手を当てながら小さく呟いた。何時もなら私の知らないことを懇切丁寧に教えてくれる茶々丸であるが、やはり主であるエヴァの体調不良で焦ってしまったのだろう。失礼しました、と頭を下げてきたのを、気にしておらぬと言って頭を上げてもらった。


「それで結局、何をしようとしておったのだ?」


「はい。今行おうとしていたのは献血といって、こちらの針を腕の血管に直接刺して血を抜き取る作業です」


「ちょ、直接……か」


 針も管も中空なのは、どうやら血を抜き取る用途のためであったようだ。エヴァの状態を考えるのであれば、やはりこれ以外方法はないのだろう。だが、あの針としてはそれなりの太さを持つものをこの腕に刺す情景を想像すると、ゾッと背筋に寒気が走った。どうやら、先ほどから感じていた悪寒は、これを予期してのものであったらしい。


「―――おい小次郎。よもや貴様、怖いなどと言うつもりか?」


 ニヤリ、と上機嫌に私を見下すような笑みを浮かべて放たれたエヴァの言葉が、私の心の内に深く突き刺さった。


「……はっ、まさか。斬られることに比べればこの程度、恐れるに足りぬ」


「ククッ、そうかい。ならさっさとやってもらおうか、私も早く横になりたいんでな」


 ほらほら、と私の心情を見抜いた上でやってるとしか思えぬほど献血を急かしてくるエヴァ。体調が戻ったら真っ先に意趣返しをしてやろうと密かに決心しつつ、再びベッドに身を横たえた。


 茶々丸が先ほどと同じ手順を踏んで、私の腕に侵入させる針を手に近づいてくる。やはり本心を言うと、未知の行いを前に緊張していることは隠せない。思わず力を入れてしまいそうになるのを抑えながら、茶々丸に言われた通り腕を脱力させて、その時を待つ。


「…………その、小次郎さん。痛くないようにしますから、もう少し肩の力を抜いてください。またマスターに笑われてしまいますよ?」


「―――忠告、忝い」


 ……エヴァに聞こえないよう小さい言葉でそう言ってくれた茶々丸の言葉の通り、思っていたほどの痛みは感じなかったが、腕に針が刺さっている様は、きっと金輪際慣れることはないだろうと確信した。










「…………ふむ、ふむ」


 たった今採ったばかりの私の血を、エヴァは一口ほど口に含んで吟味しているようだ。本人は真剣なのだろうが、頬が片方ずつ膨れてはしぼむ様子は、エヴァの外見と相まって中々に愛らしいものがある。手に持っているグラスに入っているものが私の血でなければ、素直に微笑ましいといえるのだが……


「……味は、どういうものなのだ?」


 とりあえず、血とはどういった味なのか、興味本意で聞いてみた。


「ふむ―――恐らく、貴様が感じる血の味と変わらんだろうな。だがそこに含まれる魔力の量で、細部に違いは出てくる。貴様の血は、そうだな…………口当たりが軽くて、後味もスッキリしているから、他の味に飽きたら飲みたくなるな。それに思っていたよりは魔力も多いから、これは嬉しい誤算だ」


 それなりに私の血に満足してしてくれたのか、上機嫌に口元を吊り上げながらエヴァはグラスを傾けていく。


 私はというと、茶々丸から献血の後処理を受けて、刺された箇所にむず痒さを感じながら水分を多めに摂取している。それと、鉄分とやらを補給するための薬も渡されたので飲んでおいた。現代の医療は随分と開拓されているのだなと、思わず頷いてしまうほどの感心を覚えた。


 血を飲み終えると、エヴァは元いたベッドへと戻り、幾らか血色が良くなったように見える表情を浮かべて布団を被った。


「ふぅ……これで、一日寝ていたら風邪も治るだろう」


「それは重畳。役に立てて何よりだ」


「ではマスター、私は昼食の材料の買出しと、一応いつもの薬を貰って参ります」


 と、エヴァが血を飲んだことでもう大丈夫だと判断したのだろう、茶々丸がそんなことを口にした。


「ふむ、では私が供をしよう」


「え……いえ、そんな、小次郎さんは血を抜かれたのですから、小次郎さんも安静にしていてください」


「激しい運動をしなければよいのだろう? であれば、買出し程度問題はあるまい。それに、荷物持ちがいた方が茶々丸も楽をできよう」


「そ、それは……」


「いい、いい、茶々丸。本人が言ってるんだ、連れて行ってやれ。第一、こいつと二人きりになんてなったら、喧しくて敵わん」


「何を申すか。喧しくするのはエヴァであろう」


「喧しくさせるのは貴様だろう!」


 上半身を飛び起こしながら、エヴァが私を指差した。だがそれで眩暈を起こしたのか、小さい呻きを一つ上げると、パタンとベッドに倒れこみ、咳を二つ三つ。つい何時もの調子で切り替えしてしまったが、エヴァは何時もの調子ではないのだ。


「私がここにいては、退屈でついエヴァを弄ってしまいかねぬ。エヴァも一人の方が気兼ねなく昼寝ができよう」


「……分りました。ですが小次郎さん、ご無理はなさらないように」


 承知しておるよ、と茶々丸の念押しに答えながら、二人で階段を下りる。給仕の服から外行きようの服に着替えるためだろう、茶々丸は一階に降りるとどこかの部屋へと消えていった。


「愛花、私は出かけてくる。しかと留守番をしておるのだぞ?」


「みゃ〜」


 窓際の日当たりがいいところで伸びていた愛花に一声かけて、茶々丸が戻るのを待つ。






 カランカラン






 すると、玄関から鐘の音が響いてきた。


「来客か……こんな時に」


 主であるエヴァは床で臥せっていて、茶々丸も着替えのために手が離せない。家の者でない私がでてもいいのかと思いながらも、居留守をする訳にもいかぬだろうと、取っ手に手をかけて来客者を出迎えた。


「何方かな―――む?」


 意外な来客者に、思わず目を見張った。


 目立つ赤毛。身長よりも長い大き目の杖。数えで十にも満たぬ少年でありながら、現代の正装である“すーつ”を着用しているその姿は、


「……こ、小次郎さん?」


 紛れもなく、先日私と敵対していた、ネギであった。










 川沿いの道を、僕はクラス名簿を頼りに歩いていた。


 今の時間は、大体八時半くらい。今頃学校では朝のSHRが始まっている時間で、つまり僕のお仕事が始まる時間でもある。そんな時間に僕がこんなところを歩いているのには、もちろん訳があった。


「えーと……この辺りに、エヴァンジェリンさんの家があるはずなんだけど……」


 今朝、風邪による病欠の連絡があったという、エヴァンジェリンさん。僕はそれが嘘か本当かを確かめるために、エヴァンジェリンさんの家に向かっていた。


 普通ならここまでするなんてことはないけど、相手は魔法使いで、真祖の吸血鬼でもあるエヴァンジェリンさんだ。不老不死であるはずの彼女が風邪で寝込むなんて馬鹿な話は信じられないけど、エヴァンジェリンさんには登校の呪いという物がかかっていて、仮病をすることは許されないはず。そういった事情から、エヴァンジェリンさんの家の住所が書かれているクラス名簿片手に、僕は学校を飛び出した。


 春の暖かい日差しが、川の水面でキラキラと輝いている。穏やかさを乗せて吹く風は、そよそよと辺りに生い茂る緑を揺らしていた。


「学園都市内の桜ヶ丘4丁目29―――あ、ここかな?」


 緑の隙間から、赤いレンガの色が顔を出す。四方八方を緑に囲まれているログハウスが、エヴァンジェリンさんの家だった。墓場にでも住んでいるのかと思っていたから、結構素敵な家に住んでいるのは少し意外だった。


 木で作られた階段を上って、ログハウスの入り口の前に立つ。扉を開ける前に、深呼吸を一つついて、僕は土日にあった出来事を思い返した。


 ……茶々丸さんを襲った次の日の土曜日。僕が居候させてもらっているアスナさんの部屋で、カモ君とアスナさんと三人で話をしている時の事。






 ―――とりあえず、兄貴が今寮にいるのはマズイッスよ。
 ―――そ、そうね。今日は休みで人も多いし。






 僕が茶々丸さんを襲った事が、本人と小次郎さんからエヴァンジェリンさんに伝わっているのは、きっと間違いない。だからそれへの報復が、いつ起こっても不思議じゃない事、そしてそのせいで他の人に迷惑がかかってしまう事くらい、僕でも分った。


 だから、僕は杖を引っ掴むと、寮の窓から逃げるように飛び去った。


 街から離れるように飛ぶとあっという間に、ウェールズのとは形が違う山々が伸びている風景が眼下に広がった。


 一人でいれば、もしエヴァンジェリンさんが来ても誰にも迷惑をかけない。けどこの麻帆良にいる以上、いつまでも逃げ切れる訳がないのは分りきっている。いっそウェールズに帰っちゃおうかと、弱気な心持ちでお姉ちゃんやアーニャの事を懐かしんでいると、強い衝撃と共に視界が急激に回転した。


 考え事をしながら飛んでいたから、気づかない間に高度が下がってしまい、そのせいで木にぶつかったのだと、重力に引きずられる中でそれだけを知る事ができた。


 何がなんだか分らないまま、僕は川に落下した。ゴボゴボと水中で空気が踊る音が耳に木霊す中、急いで水面から顔を出す。僕は森に落ちてしまって、自分がどこにいるか分からなくなったという事にすぐ気が付いた。


「ハッ……杖! ぼ、僕の杖はどこ!?」


 そんな僕に追い討ちをかけるように、大切な杖までがどこかに行ってしまっていた。慌てて川から上がって辺りを探したり、いつものように目を閉じて場所を探ろうとしたけど、どうしても見つからない。あれがなければほとんど魔法を使えないから、死刑宣告を受けたような物だった。


 どこからか、オオカミの遠吠えが響いた。ただでさえ心細かった僕の心はそれで竦みあがり、お姉ちゃんに助けを求めながら、声のした方から逃げるように駆け出した。けど、慌てて走り出してしまったから、いくらも走らない内に躓いてしまい、顔から地面に倒れこんでしまった。


「うぅ……うぇぇっ……アスナさん……」


 頬が擦りむけた痛みと、一人ぼっちの寂しさから、じわりと涙が滲んだ。


 その時、ガサリ、と近くの茂みが蠢いた。


 もしかして、さっきのオオカミが……?


 心臓が冷たい何かで締め付けられて、小さい悲鳴が口から漏れた。


「―――おや? 誰かと思えば、ネギ坊主ではござらんか」


 けど、その茂みから出てきたのは、僕のクラスの生徒の一人、長瀬さんだった。人に会えて……それも相手が見慣れた人だったので、僕はすっかり安心して、少し泣きながら長瀬さんに抱きついた。


 ―――それから僕は、長瀬さんに誘われるままに、長瀬さんの修業という名の食料集めを手伝った。結果的には、ほとんどの食材は長瀬さんが集めたけど、崖を上ったり熊に追いかけられたり、二人で魚を追いかけたりと、とっても忙しい時間が過ぎていった。その間、僕の心には、寮を飛び出した時のような暗い気持ちはどこにもなかった。


 そうして、夜。汗と汚れでドロドロになった体を、長瀬さんが沸かしてくれたドラム缶の露天風呂で流している時、なぜか一緒に入ってきた長瀬さんが僕を背中から抱きしめながら、


「……思うにネギ坊主は、今まで何でも上手くやってこれたけど、ここに来て初めて壁にぶつかったでござるな? そして、どうしていいか分らず戸惑っているのでござろう?」


 的確に、僕の心を言い当ててきた。


「ネギ坊主はまだ十歳……そんな壁の一つや二つは当然でござる。たとえ逃げ出したとしても情けなくなどないでござるよ。  それでも辛くなった時には、またここへ来るでござる。おフロくらいには入れてあげるでござるから―――今日はゆっくり休んで、それからまた考えるでござるよ」


 僕を包みながら、長瀬さんが言ってくれた言葉。その意味を、僕は長瀬さんの腕枕で横になりながら考えた。


 ……そうだ。僕は、魔法学校をいい成績で卒業したくらいで、何でもできるなんていい気になってたんだ。そのくせ、いざ自分にどうしようもない事が起きれば、慌ててばかりで逃げる事しか考えなていなかったんだ。


 次の日の朝。改まった心持ちで目を閉じると、昨日は見えなかった杖の在り処が、まぶたの下にはっきりと浮かんだ。心の呼びかけに応えた杖は、あっという間に僕の手の内に納まっていた。


「ありがとう、長瀬さん。僕……何とか一人で頑張ってみます」


 杖に跨り、去り際に昨日一日の礼を述べて。僕は力強く、空に飛び立った―――


「…………一人で、頑張るんだ」


 日曜の朝に、長瀬さんに誓った言葉。それをもう一度、改めて心に刻むように呟いてから、エヴァンジェリンさんの家の呼び鈴を鳴らした。


「あのー、すいませーん。担任のネギですけど、家庭訪問に来ましたー」


 カランカラン、と軽快な音が鳴り響く。もし万が一、エヴァンジェリンさんが直接出迎えて来ても立ち向かえるように、覚悟を決めてグッと手を握り締めた。


 扉の向こうに、人が近づく気配を感じた。いよいよだと、大きくなる心臓の音に静まれと念じながら、扉が開かれるのを待つ。


「何方かな―――む?」


「……こ、小次郎さん?」


 けど、現れた人は予想だにしていなかった人で、そのせいで僕の覚悟は行き場を失って霧散してしまった。完全に洋風なログハウスの中から、完全に和風な人が出てきたのも、またそれを後押ししていた。


 ……というか、本当にこの人は何でここにいるんだろう? 休日なら、こんな朝早くからいてもまだおかしくはないけど、今日は月曜日だ。という事はもしかして、小次郎さんは昨日、エヴァンジェリンさんの家に泊まったんだろうか。そうだとしたら……それは何と言うか、凄く問題がある気がしたけど、すぐにそんな事はないと思い出した。


 日曜日に、カモ君が言っていた。小次郎さんが茶々丸さんを守るために僕のサギタ・マギカを斬った時、この人は『気』―――魔力と似て非なるものらしい―――を多少使っていたにしろ、ほとんど純粋な剣術で魔法を斬っていた、と。それも、一振りで七個まとめてだ。カモ君は小次郎さんの刀が、何か特殊なアーティファクトかもしれないとも言っていたけど、僕もそうでなければ話が合わないと思った。


 とにかく、エヴァンジェリンさんと同じくらい注意する人物だ―――僕達は小次郎さんに対して、そういう認識を持つ事になった。


「このような朝早くに、エヴァに何か用かな?」


 三日前に一度戦ってるにも関わらず、小次郎さんは今までどおりの声で僕に話しかけてきた。


「え、えーと、エヴァンジェリンさんが風邪で欠席すると聞いたんですけど…………その、様子を窺いに来ました」


「ほう、わざわざご苦労なことだ。エヴァなら今は、上で横になっておるよ。中々に重い風邪のようでな、もしやすると明日も欠席かも知れぬ」


 魔法使いにはとても信じられない事を言いながら、小次郎さんは僕を家の中に招き入れてくれた。とても吸血鬼が住んでいる家とは思えないファンシーな内装には驚いたけど、それ以上にこんな家の中に純和風の男性がいる事の方が、ずっと違和感を感じた。


「そ、そうなんですか……けど、吸血鬼の彼女が風邪なんて―――」


「―――引く訳がないだろう、この馬鹿が」


 引くんですか、という僕の疑問に先駆けて、否定の声が響いていた。


「エヴァンジェリンさん……!」


 声が聞こえた方に振り向くと、階段の手すりを跨ぐように腰掛けているエヴァンジェリンさんが、僕を見下ろしていた。あの夜と、吸血の感覚を思い出してしまったからか、僕の背中を冷たい何かが走る。知らず杖を握っていた手に力が入った。


 ただ……緊張はあまりしなかった。エヴァンジェリンさんの格好が、とっても可愛らしいパジャマだからだろう。フリルがたくさん付いているそれは、エヴァンジェリンさんの外見によく似合っていると思った。


「こらエヴァ、まだベッドを出られる体ではなかろう」


「煩い、私の勝手だ。それにしても、よく一人で来たな、ぼーや。魔力が十分でなくとも、貴様ごときひよっこをくびり殺す事くらい訳はないのだぞ?」


 小次郎さんの注意を無視して、エヴァンジェリンさんは僕に高圧的な言葉をかけてきた。フフフ、何て不適に笑っているけれど、目は少しうつろで顔もかなり赤い。風邪を引いたっていうのは、もしかして本当なんだろうか?


 それなら用事は早く済ませたほうがいいと思い、僕は懐から一枚の紙を取り出して、勢いよくエヴァンジェリンさんに突きつけた。


「……何だそれは。果たし状?」


「そ、そうです! 僕と、もう一度勝負してください!」


 一人で頑張る―――それを実行するための覚悟を形にしたのが、この果たし状だった。


「あと、ちゃんとサボらずに学校に来てくださいっ! このままだと卒業できませんよ!?」


「だから、呪いのせいで出席しても卒業出来ないんだよ。第一、十五年間も通ってる同じ場所に誰が好き好んで行くものか」


「―――これは何の騒ぎですか?」


「ネギが果し合いをエヴァに申し込んだのだが……さて、止めていいものか」


 小次郎さんと茶々丸さんが、後ろで困ってる風に何かを言っている気がしたけど、エヴァンジェリンさんに立ち向かっている今、そういった他のものは意図的に切り捨てた。


「―――まぁいい。では、ここで決着をつけるか? もっとも、臆病者の貴様にその度胸があればだが……」


「……いいですよ。僕が勝ったら、ちゃんと授業に出てくださいね」


「構わん。では私が勝ったら、先日茶々丸を襲ってくれた分も含めて、血を頂こうか」


 体調を崩しているかもしれない人相手に、今戦うのはちょっと気が引けたけど、向こうから挑んで来たんだから関係ないと、杖を構えた。僕の魔力に呼応して、杖に縛り付けている布が先端から半分ほど弾け飛び、その下にある木製の表面をあらわにする。


 エヴァンジェリンさんも、言葉のとおりもう戦闘準備を終わらせていた。右の手の平の上で魔力が光っている。左手の指の間には、魔法薬が入れられた試験管が三本握られていた。


 ―――僕とエヴァンジェリンさんの魔力がぶつかり合い、家が内側から軋みを上げる。窓辺で伸びていたネコさんは、空気の変化を察知したのか、逃げるように小次郎さんの方へ走っていった。


 エヴァンジェリンさんの口の端がつり上がる。まるで嵐の前の静けさを思わせる緩慢な動きで、エヴァンジェリンさんは右手を掲げた。そして、重心を前に移し―――


「―――ぅぁ」


 そのまま、手すりから床に向かって落下した。


「エヴァ!」


 きっと、僕たちを止めるために予め準備していたんだろう。誰よりも早く動いていた小次郎さんが、頭から床に向かっていたエヴァンジェリンさんを抱きとめた。


「無理をしおってからに……この戯け」


「や、やっぱり風邪って本当だったんですか!?」


「はい。一緒に花粉症も患っております」


「本当に吸血鬼なんですかこの人!?」


「小次郎さん、マスターを早く二階のベッドに」


「無論だ」


 両手でエヴァンジェリンさんをしっかりと抱えた小次郎さんが、力強く立ち上がった。いわゆるお姫様抱っこの形で、エヴァンジェリンさんを二階に運んでいく。その姿は色々とちぐはぐなはずなのに、少しだけ小次郎さんがこの家の中に溶け込んだ気がした。


 二人の従者の後ろについて行きながら、僕は本気で、敵であるエヴァンジェリンさんの体を案じていた。












 後書き


 初めてのことは誰でも怖い。逢千 鏡介です。


 ようやく更新した十八話前編、いかがだったでしょうか?


 献血にビックリする小次郎。そら四百年以上前の人にいきなりやったらビックリしますよ茶々丸さん!


 猫の名前は、愛らしい花、ということで愛花にしてみました。深い理由はありません。ですが、愛花に少しでも和んでいただけたら幸いです。


 ネギ君、小次郎がエヴァの家にいることに驚く。休日明けの月曜日に、女性二人が住んでる家から二十後半の男が出てきたら、それはもう怪しさ抜群ですよね! しかも小次郎だし!


 変にテンションの高い後書きでしたが、感想、指摘等々お待ちしてます。


 では。




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