壁にかけられてる振り子時計から、九時を報せる鐘が鳴り響く。麻帆良にある学校では今頃、授業が始まっているだろう。即ち、ネギの仕事が始まる時間なのだが、幸い一時間目に授業が入っていないので、それまでに戻れば問題はないだろう。もっとも、朝のSHRをすっぽかしている身なので、後日しずなや新田に怒られてしまうかもしれないが。


 しかし、今のネギにとっては、エヴァンジェリンの事の方が優先度は上だった。


 先ほど、ネギとの決着をつけようとして倒れたエヴァンジェリンは、茶々丸の手によって二階のベッドで横になっている。荒い息を吐いている姿は痛々しく、茶々丸の横に座っていたネギはつい、エヴァンジェリンが吸血鬼であるということを、一瞬忘れてしまった。


 小次郎はというと、そんなエヴァンジェリンの枕元で椅子に座り、氷水でよく冷やしたタオルをエヴァンジェリンの額に乗せていた。心配気な目でエヴァンジェリンを見つめる姿は、まるで兄が妹を看病しているような光景であった。


「うぅ……ハァ、ハァ……」


「な、何だか凄く苦しそう……」


「無理もありません。魔力が減少している今、マスターの体は十歳頃の女性と変わりませんので」


 苦しげに呻いたエヴァンジェリンを見て、ネギが見たままの感想を口にした。それに対する茶々丸の説明を受けて、そうなんですか、と未だ半信半疑な気持ちで言葉を返しすネギ。実際、他の魔法使いが同じことを言われても、似たような反応を返すか、もしくは信じないかもしれないだろう。だがネギの目の前には、風邪に苦しむエヴァンジェリンがいるのだから、信じないわけには行かないだろう。


「ネギ先生……一つお願いがあるのですが、いいでしょうか」


「あ、はい。ど、どうぞ」


 いくらこんな状況とはいえ、一応敵である茶々丸から『お願いをしたい』と言われて、返事が少しどもってしまったが、ネギは何とか先を促した。


「私と小次郎さんはこれから、伝手のある大学の病院で良く効く薬を貰って来ようと思います。ですのでその間、マスターを看ていて頂けませんか?」


「何?」


「えぇ!? ぼ、僕がですか!?」


 茶々丸の突然の発言に、程度は違うがネギはおろか小次郎までもが、驚愕の言葉を口にしていた。それを無視するように、ネギ先生ならお任せできます、と茶々丸はネギを信用していることを言葉にして表した。


 本気なんだろうかと、今度こそ疑問を持って表情を窺うネギであったが、そもそも表情から相手の気持ちを察するような芸当、ネギには不可能であった。


 しかし、ここまで言われたら魔法使いとして、担任として、断るわけには行かない。そう考えたネギは、茶々丸の頼みを受ける事にした。


「わ、分りました。けど、僕も授業がありますから、早めに帰ってきてくださいね」


「はい。では小次郎さん、私は外行きの準備をしてきますので、後ほど玄関で」


「……うむ」


 ネギと小次郎に向かって礼をしてから、茶々丸は一階の方へと降りて行った。


 茶々丸と違い小次郎は、ネギをこの家に残す事に少しの抵抗を感じているのだろう。茶々丸へと返された引っかかるような声と渋い表情が、それを物語っていた。ネギもそこから、小次郎の心情を察したのか、チラチラと小次郎を横目で捕らえている。


 すると、小次郎はふぅ、と短く溜め息を吐きながら立ち上がった。その動きを見て、ネギが僅かに身を竦める。


 もしかしたら、僕に何かするんだろうか―――


 先日、小次郎から直に妨害を受けているネギは、小次郎に対して少々の恐怖感を持っていた。それ故、小次郎と二人きりになったこの状況で少々思考が跳躍していても、それは致し方のない事と言える。


 エヴァの隣を離れた小次郎は、真っ直ぐにネギのいる方に歩き始めた。とは言っても、同じ部屋の中にいるのだから、高々数歩で小次郎はネギの前にたどり着いた。


「な、なんでしょうか……」


「―――」


 恐々と尋ねたネギに、小次郎はそっと、タオルを差し出した。エヴァンジェリンの額に乗せるためのタオルだった。


「エヴァを頼む」


 それだけ言って、タオルをネギに手渡して肩を軽く叩くと、小次郎も茶々丸の後を追って階段を下りていった。


 ―――この後小次郎は、薬を貰うために向かった大学で、何故かいた葉加瀬からとある協力を要請されるのだが、それはまた別の話である。


 小次郎が二階からいなくなってしばらくした後、一階の玄関が開閉する音が、ネギの耳に届く。覗き窓から外を見れば、小次郎と茶々丸が並んで歩いていく姿が見えた。


『ほ、本当に行っちゃった……』


 二人の背中が見えなくなるまで窓に張り付いていたネギの脳裏に、もしかして僕は敵として見られていないんだろうか、という何とも微妙な不安が過ぎった。


『僕がその気になったら、今エヴァンジェリンさんを倒す事だってできるのに…………―――ぜ、絶対にしないけど!』


 戦術的に見れば正しい選択を一瞬思い浮かべるネギだったが、直ぐにそんな卑怯な事はできないと、自分に言い聞かせるように否定した。その辺りを、茶々丸と小次郎の二人に見抜かれていると考え付かなかったネギは、変な二人だなぁ、という結論に落ち着き、とにかく看病をしようと、エヴァンジェリンのベッド横に座り込んだ。


「うぅ……ゴホッ、ゴホッ……!」


「あ、あわわっ。大丈夫ですか、エヴァンジェリンさん」


 苦しそうに咳き込んだエヴァンジェリンを見て、ネギは何かをしようとするが、そもそも看病の経験がないネギには、何をどうするのがいいかなど分るはずもない。唯一の取り柄である魔法も、風邪に効く類を習得していないので、ネギは余計に焦ってしまった。


「ハァ、ハァ……のどが……」


「の、喉が渇いたんですね!? 待っててください!」


 無意識に呟かれたのだろう言葉を聞いて、ネギは急ぎ階段を駆け下りて、台所で目に付いた飲み物を一通り盆に載せて二階へ駆け戻っていった。


 しかし、水やお茶はともかく、コーラまで運んでいる辺り、ネギの焦り具合が窺えるだろう。


 コップに先ず水を注いだネギは、エヴァンジェリンの口元にコップの口を近づけた。しかし、眠っている人が水を、ましてやコップから飲むことなどできるはずもない。お茶やコーラと中身を替えても、その結果は変わらなかった。


 結局ネギは、少しだけにして下さいよ、とやや涙目になりながら、軽く切った自分の指先をエヴァンジェリンの口に含ませて、魔力回復にも繋がる血液を飲ませた。  ネギの血を飲んだ事で多少は体が落ち着いたのか、咳は大分収まったようだ。しかし、窓から射す日光で必要以上に体が温められてしまったのだろう。掛け布団ごと寝返りを打ち、額に汗を浮かべながら、熱い、とうわ言のようにエヴァンジェリンが呟いた。


「あぁっ、窓から日光が!」


 その呟きを聞いてから、窓の事に気づいたネギは慌ててカーテンを閉めたが、時既に遅し。たっぷりと汗をかいてしまったエヴァンジェリンのパジャマは、相応の汗を吸収し、それが冷えてエヴァンジェリンから体温を奪っていた。


 ネギは急いでパジャマを着替えさせようとしたが、エヴァンジェリンの外見に似合わない派手な下着を見て、自分が何をしているのかにハッと気づいた。必要に迫られているとはいえ、先生が生徒の服を勝手に脱がせていい訳がない、と手をパジャマから離す。だが、とうとう寒さでガタガタと身を震わせ始めてしまったので、早急に着替えさせなければ風邪はなお更悪化してしまう。


 苦肉の策として、ネギは目隠しをしながら、なるべく肌に触らないよう、エヴァンジェリンのパジャマを着替えさせた。シーツも汗でジットリ湿っていたが、流石にそこまで取り替える事はできなかった。


 そこまでして、ようやく心身共に落ち着いたのだろう。エヴァンジェリンは、穏やかな寝顔を浮かべて、蒲団の中で静かに寝息を立て始めた。ネギの方も何とか一段落ついた安心感から、ホッと溜め息を零し、決闘に来たはずなのになぁ、と当初の予定とは百八十度以上違っている現状に、首を傾げた。


 薬を貰いに行った二人が帰ってくる様子はない。手持ち無沙汰になったネギは、今まで深く考える事がなかったエヴァンジェリンについて、考えを巡らせてみる事にした。


 最初に襲われた時は、それだけに考えが行って他に目が行かなかったが、改めてみればエヴァンジェリンは、とても吸血鬼とは思えない外見をしていると、ネギは思った。


 まるで上質なフランス人形を思わせる顔の造りには、少女特有のあどけなさが含まれていて、見た目通りの幼さの中にどこか気品を漂わせていた。金髪は枕の上を流れるように広がり、見た目から手に取った時の滑らかさが窺える。肌は透き通るように白く、まるでつき立ての餅のように柔らかそうであった。眉毛や唇の形も、大きすぎず小さすぎず、全てが一体となってエヴァンジェリンを構成していた。


『寝てるとこんなにカワイイ女の子なのになぁ……』


 しみじみと、エヴァンジェリンの外見の感想を内心で呟いたネギは、次いで、なぜエヴァンジェリンは吸血鬼になったのだろう、という疑問を考え付いた。


 真祖とは、今は失われた秘伝によって自らの肉体を吸血鬼化した、元人間である者達の事を指す。


 しかし、見た目自分と同じ十歳程度の女の子が、自ら進んで吸血鬼になるのだろうか?


 十五年前から麻帆良にいるのなら本当は何歳なんだろうか、何故サウザンドマスターに呪いをかけられたのか、そもそもサウザンドマスターとはどういう関係だったのか―――他にも幾つか気になる事柄はあれど、ネギの頭に、それだけが突っ掛かりを残していた。


 一度気になり始めると、どうしても知りたくなるのが人の常。エヴァンジェリンの調子が落ち着いているのを再確認したネギは、どこかに手がかりがないかと、部屋の中を歩き回り始めたが、これといった手がかりは見つからなかった。棚の戸の中や、押入れを開ければ何か見つかるかもしれなかったが、ネギも流石にそこまで探すのは気が引けた。そもそも相手はエヴァンジェリンだ、そんな事をすれば、ネギは二時間目の授業に出れなくなってしまうだろう。


「……ぅ、う。や、めろ……」


 仕方ないかと諦めて、元いた場所に戻ろうとしたネギの耳に、呻くようなエヴァンジェリンの声が届いた。


「……! ご、ごめんなさい、別に悪気は―――?」


 丁度、言ってしまえば無断の家捜しをしていた時に「やめろ」という言葉が聞こえたものだから、ネギは肩を竦めて取り繕うような謝罪の言葉を慌てて口にした。だが、振り返ってエヴァンジェリンを見てみれば、依然眠りの中にある。どうやら寝言だったようだ。ネギも、何だ寝言か、と肩の力を抜いた。


「や、めろ……待て―――サウザンドマスター……」


 しかし、その寝言にしては明確に響いた名前を聞いて、ネギの肩に先ほど以上の力が入った。


『サウザンドマスターの夢……!?』


 自分が追いかけ続けている、父・サウザンドマスターの夢を、今、エヴァンジェリンが見ている。そう思った瞬間、ネギの脳裏に、ある方法が閃いた。


『―――うぅ、で、でも……』


 それは、ネギの価値観からすればやってはいけない事に分類されてしまう行いだった。別段、誰に責められる訳でもない事ではあるのだが、如何せん『立派な魔法使い』を信じているネギは躊躇いを覚えてしまう。


 しかし、父を追いかけているネギではあるが、その情報は未だ一つとして掴めていない。加えて間の悪い事に、ネギは今さっきからエヴァンジェリンとサウザンドマスターの関係について、興味を抱いたばかりの状態である。結局、多少の逡巡の後、ネギはその閃きを決行した。


「ラス・テル・マ・スキル・マギステル。夢の妖精ニュンファ・ソムニー女王メイヴよレーギーナ・メイブ扉を開けてポルターム・アペリエンヌ夢へとアド・セー・メーいざなえアリキアット……」


 エヴァンジェリンを起こさないよう、細心の注意を払いつつ詠唱を完了させた時、紡がれた夢見の魔法は、ネギを十五年前に誘っていた―――










 昼と夜を繋ぐ僅かな夕暮れの時間、水辺から望める景色は、そこに幻想的な世界を作り出していた。


 まだ青さが強く残る空の中に、茜色に染まった雲が漂っている。遠くには緑に包まれた山々が連なっており、その手前には、湖に浮かぶ孤島に作られた街とを結ぶ橋が架かっていた。僅かに音が聞こえる程度の強さで吹いている風は、緩やかに雲を運び、それと共に自然の香りを運んでいた。


 青、赤、緑。光の三原色に数えられる色が、大自然の手によって僅かの間共存を許されるこの時は、例え千金を積んだとしても惜しくはないだろう。


 その奇跡の様な空間に、二つの人影が対峙していた。


「ついに追い詰めたぞ、『千の呪文の男サウザンドマスター』……この極東の島国でな」


 膝にまで届く程の金髪を風になびかせている女性が、向かい合っている杖を持つフードを目深に被ったローブ姿の男に、そう言葉を突きつけた。


 女性は、正に絶世の美女と呼ぶに相応しい容姿を誇っていた。妖艶な魅力をたたえる顔は、その表情の微妙な変化だけで、男の心を掌握しかねない程だ。大人の女性である事を示す、はっきりとめりはりの付いた肉体は、男の視線を釘付けにして離しそうもない。


 そんな女性の体を覆う服装は、男の劣情を直に刺激しそうな物であった。


 股が見える瀬戸際の長さの裾を持ったイブニングドレス。その裾にはフリルが施されていて、そこからまた、飾りのためであろう透明な生地がスカートの様に、艶かしい肉付きの足を覆っている。豊満な胸元は、一般的なイブニングドレスよりも大胆に切り取られた作りによって、上半分が露出していた。それを補うように、胸の谷間と両脇から伸びる黒皮のベルトがネックベルトに繋がっていたが、それが余計に女性の胸の大きさを強調している。肩から背中にかけては完全に外気に晒されていて、抜ける様な白い肌が、女性の妖艶な魅力を殊更引き立てていた。また、腕には袖の代わりなのか、筒状の黒い布が紐で直接括りつけられていて、それがまた女性を拘束している様にも見え、背徳的な美を添えていた。


 見ようによっては、ボンデージの亜種にも映る服装を身に纏っているこの女性こそが、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルであるという事を理解するのに、ネギはたっぷり十秒ほどの時間を必要とした。


『昔のエヴァンジェリンさん!? い、今と全然違うや……』


 肌の露出の多さにドギマギしながらも、それが幻術によるものであり、本体はあの幼女体型の方だという事を、ネギは見破っていた。


「今日こそ貴様を打ち倒し……その血肉を我が物としてくれる」


 右手の指を鉤爪のように折り曲げる事で戦闘の意を顕にしたエヴァンジェリンは、左手に握っていた木の棒―――魔力の糸で三十センチ程の人形と繋がっていた―――を手から離した。このままだと、人形は無様な格好で砂地に手足を投げ出すだろうが、信じられない事にその人形は、しっかと両の足で砂地に着地していた。


 ナイフほどの長さを持った刃物を両の手に逆手で持ち、フードを被った男を見つめる姿は、明らかに自我を持っている事が窺える。


「―――『人形使いドールマスター』『闇の福音ダーク・エヴァンジェル』『不死の魔法使いマガ・ノスフェラトゥ』エヴァンジェリンよ……」


 ここに来て初めて、男が口を開いた。低く、相手を威圧するような声だ。


「……己が力と美貌の糧に何百人を毒牙にかけた? その上、俺を狙い何を企むかは知らぬが―――」


 少し俯いていた頭を上げながら、男が一度言葉を区切る。次に放つ言葉を、より強調するための間だ。そして、顔が上げられた事によって、ネギの目にその男の顔が映りこんだ。


「諦めろ。何度挑んでも俺には勝てんぞ」


 あ、とネギは息を飲んだ。凛々しく引き絞られた目からは、壮絶な威圧感と、嵐の前を思わせる静けさが放たれていた。フードによって顔にかかる影が、それの後押しをしている。何より、自分と同じ色の髪の毛と、自分とよく似た顔立ち。この人がサウザンドマスターなんだと、ネギは歓喜した。


『す、スゴイスゴイ、イメージ通りだ! まさに最強の魔法使いだぁ!』


 自分が子供の頃から、その行いと実力から英雄と持て囃されていたサウザンドマスター。子供心に、父の活躍する姿を見たいと願っていたネギだったが、今まさに理想の威厳と風格を漂わせる姿が、自分の目の前で佇んでいた。夢とはいえ、それをようやく目の当たりにする事ができたのだ、その喜びは一塩のものだろう。


「ふん、パートナーもいない魔法使いに何が出来る! 行くぞチャチャゼロ!」


「アイサー、御主人!」


 サウザンドマスターの言葉を一笑に付し、エヴァンジェリンは隣りに降り立った人形―――自身の従者であるチャチャゼロと共に、余裕然と立ち尽くしているサウザンドマスターに向かって飛び出した。


 それに対してサウザンドマスターが取った行動は、えーとこの辺だっけか、と呟きながら僅かに数歩下がるだけであった。


「フ……遅いわ若造。私の勝ちだ!」


 勝利を確信したエヴァンジェリンの両手に、炎のように揺らめく魔力が現れた。それがどういう効果を発揮するのかは定かでないが、それがこの勝負におけるエヴァンジェリンの必勝の策なのだろう。


 チャチャゼロも、エヴァンジェリンとは反対の方向から、サウザンドマスターへと迫っていた。


 絶体絶命とも言える状況に陥りながらも、サウザンドマスターは冷静に、二人の動きを見て更に一歩足を動かした。他にこれといった迎撃のための動作も、魔力の発生も感じ取れなかったネギは、思わず心の中で、父さん! と叫んでいた。


 十分な威力を持って、両手の魔力を叩きつけるために、エヴァンジェリンがサウザンドマスターの手前に着地する。そして、その両手が突き出される―――


「―――ぷわぁっ!?」


 寸前、砂が抜けて、その下に溜められていた水の中に、盛大に落ちていた。


 予め穴を掘り、その上に人が乗れば崩れるような何か―――網目状に編んだ草や茎が一般的だが、サウザンドマスターは薄い木の板を使った―――を敷き、更にその上からカモフラージュのために周囲と同化する物を被せた物。


 いわゆる落とし穴に、エヴァンジェリンは落ちたのだった。


「―――ぷはっ! こ、これは……!」


「落トシ穴ダ御主人」


「見りゃ分る!」


 余りにも予想外過ぎる事態に、つい分っている事を確認する様な言葉を口にしたエヴァンジェリンだったが、律儀に答えた己が従者へ、空気を読めとばかりに理不尽な叫びを返した。


 だが、エヴァンジェリンの気持ちももっともである。千の呪文の男とまで謳われる男が、まさか落とし穴を用意しているなど、誰が考え付くだろうか。


『えー……?』


 その一連の様子を眺めていたネギも、目を点にして呆然と口を開けていた。恐らく今の気持ちは、エヴァンジェリンと同じものであろう。


 エヴァンジェリンとチャチャゼロは、落とし穴の中に溜められた水の中でバシャバシャともがいている。三十センチほどの身長であるチャチャゼロはともかくとして、少なくとも百六十センチ後半はありそうなエヴァンジェリンがもがく程の水を張れる落とし穴というのも、中々に壮絶である。


 もしかして、魔法を使わずに掘ったんだろうか―――


 多少思考がパニックになっているネギは、スコップを持って必死に砂を掘っているサウザンドマスターの姿を想像してしまい、悲しい気持ちになった。


「ふはははははは!」


 そんな二人に追い討ちをかける様に、高らかに笑いながら、サウザンドマスターは肩に担いだかなり大きい袋の中身を、次々落とし穴の中に入れていく。その笑い声こそ低いままだったが、威厳や風格といったネギが理想とするものは欠片も残ってはいなかった。むしろ、悪戯が成功したという、子供じみた笑い声にさえ聞こえてしまう。


「ひっ、ひぃぃぃぃぃ! 私の嫌いなニンニクやネギィィィィ!?」


 その袋から投入している物が、エヴァンジェリンが苦手としている物であると知れた時、ネギの中にあった父親の像に、一撃で修復不可能な皹が入った。


「フフフ……お前の苦手な物は既に調査済みよ」


「あっ、あぁぁぁっ! ダメェ!」


「オチツケ御主人!」


 口調だけ聞けば、まだ威厳はあるだろうが、その声からはやはり、そういったものは感じ取れない。加えてサウザンドマスターは手に持っていた杖―――ネギの杖と瓜二つである―――で、落とし穴の中の水をかき混ぜ始めた。もはや行動まで子供である。


 予想外に予想外を重ねられて、エヴァンジェリンもパニックになってしまったのだろう。少女のような悲鳴を上げながら、無意味に水面を叩くのみである。チャチャゼロも何とか荒ぶる主を宥めようとしているが、エヴァンジェリンの耳には届かなかった。


「あぅぅっ!」


「アァッ、御主人ノ幻術解ケタ!」


「わははは! 噂の吸血鬼の正体がチビのガキだと知ったら、みんななんと言うかな」


 とうとう常時展開している幻術まで解けてしまい、その正体である十歳の幼女の姿に戻ってしまったエヴァンジェリンに、サウザンドマスターはこれでもかと、言葉と共にニンニクを放り込んで追い討ちをかけていく。エヴァンジェリンにできる事は、やめろ馬鹿、と大声で罵声を浴びせる事だけだった。


「ひ、卑怯者! 貴様は『千の呪文の男サウザンドマスター』だろ! 魔法使いなら魔法で勝負しろぉぉっ!」


 我慢の限界に来たのか、言外に魔法使いとしてのプライドはないのか、とサウザンドマスターを罵るエヴァンジェリンだったが、そんなものを持っているのなら、始めから落とし穴を用意する筈がない。


「やなこった。俺は本当は五、六個しか魔法知らねーんだよ、勉強苦手でな。
 魔法学校も中退だ。恐れ入ったかコラ」


「なっ……!?」


 ついに口調にまで威厳が無くなった―――というより、演技を止めたサウザンドマスターが、親指を立てながらむしろ誇らしげに、自分が使える魔法の数と衝撃の経歴を明かした。六百年近く生きているエヴァンジェリンであり、何年もサウザンドマスターを追いかけていた彼女だからこそ、その衝撃は殊更に大きかった。


『―――』


 しかし、一番ダメージが大きいのは、これ以上ない程に目が死んでしまっているネギであろう。彼の中の父のイメージである『最強の魔法使い』の像は、もはや粉塵と化していた。


「お、おいサウザンドマスター! 私の何が嫌なんだ!」


「だから俺、ガキには興味ないっての」


「歳か、歳なのか!? 歳なら百歳越えているぞ!」


「じゃあオバハンだなー」


「オバハン言うなぁぁぁ!」


「……オチツケヨ御主人」


 自分のどこが至らないのか、八つ当たり気味にサウザンドマスターに問いただすエヴァンジェリンだが、端から見ればその会話はただの漫才でしかない。死んだ目のままその光景を眺めていたネギは、以前一度だけ見た事があるエヴァンジェリンと小次郎の掛け合いを思い出していた。一人冷静な突っ込みを入れたチャチャゼロの言葉は、誰にも届く事はなかった。


「なぁ、いい加減俺を追うのは諦めて、悪事からも足を洗ったらどうだ?」


「やだ!」


 転じて優しげな声でエヴァンジェリンを宥めようとするサウザンドマスターであるが、エヴァンジェリンはその一言でそれを突っぱねてしまった。その姿は完全に癇癪を起こした子供である。


「そーかそーか……それじゃ仕方がない。変な呪いをかけて二度と悪さのできない体にしてやるぜ」


「―――うっ……何だ、この強大な魔力は……」


「あー、確か麻帆良のじじぃが警備員欲しがってたんだよな。えーとマンマンテロテロ…………長いな、この呪文、面倒くせぇ」


「や、止めろ馬鹿! そんな力で適当な呪文を使うな! た、助け、誰か助けてぇぇぇ!」


「御主人ピーンチ」


 もはやここにサウザンドマスターはおらず、闇の福音もいない。いるのは、いじめっ子といじめられっ子の二人だけであった。完全に蚊帳の外になってしまったチャチャゼロは、ヤッテラレッカヨ、とばかりに投げやりな言葉を吐いた。


登校地獄インフエルヌ・スコラステイクス!」


「好きなのにー!」


 エヴァンジェリンの、断末魔にしては可愛らしい言葉が、最後に虚しく夕暮れに響き渡った―――










「―――うわぁぁぁぁぁ! …………あ?」


 跳ねるように飛び起きたエヴァンジェリンは、少しの間の後、ゆっくりと辺りを見渡して、今まで見ていたものが夢であるという事を認識した。


「ハァ、ハァ…………また、あの夢か……」


 十五年経った今でも忘れない、自分の想い人であるサウザンドマスターに敗れてしまった日の夢。決まって体調を崩したり、ふと過去を思い返して感傷に浸った日の夜に見る事が多かった。朝っぱらからこんな夢を見て最悪な気分だと、内心で舌打ちをしながら、水でも貰おうと、今の従者である茶々丸の姿を探した。


「うわっとっ!?」


「スピー……スー……」


 その前に、自分のベッドに杖を握ったまま突っ伏して眠っている、サウザンドマスターの息子の姿を見つけた。この家に来た事は覚えているが、まさかこんなところにいて、しかも眠っているとは考えても見なかったエヴァンジェリンは、素っ頓狂な声を上げてしまった。


「何でこんな所に…………これでは、殺れと言ってる様なものだな」


 エヴァンジェリンとネギは敵同士だ。だというのに、その本人の前で暢気に眠っているネギは、殺されても文句が言える立場ではない。例え風邪を引いていて、魔力が十分でないとしても、六百年間敵と戦い生き抜いてきたエヴァンジェリンには、今のネギを殺す方法など腐る程あった。


 僅かに、エヴァンジェリンの体から殺気が漏れる。


 しかし―――


『……ちっ。私の看病をしていたのか……』


 ふと見れば、布団の上に湿ったタオルが落ちていた。恐らく、自分の額の上に乗せられていたのだろう。それと同じタオルが、眠っているネギの手には握られていて、そこからエヴァンジェリンは、ネギが自分の看病をしていたのだと知った。


 その仔犬の様な寝顔も相まって、毒気を抜かれてしまったエヴァンジェリンは、溜め息と共に殺気を吐き出した。


「―――ん、うぅ…………は、しまった寝てた! あ、起きたんですかエヴァンジェリンさん。体調はどうですか!?」


「あぁ、大丈夫だよ。今日の所は見逃してやるから、さっさと帰れ」


 軽いうたた寝だったのだろう、ハッと目を覚ましたネギは、既に体を起こしていたエヴァンジェリンに慌てて容態を尋ねた。看病を受けていた手前、エヴァンジェリンは今の容態を素直に伝えてから、ぶっきらぼうに帰るよう促した。


「あ……はい、そうですね。そろそろ授業もありますし、じゃあ、今日はこれで……」


 果たし状も今日はしまっておきますね、と言葉通り背広の内ポケットに仕舞いながら、ネギはそそくさと逃げるようにエヴァンジェリンに背を向けた。


『うひゃー……色々見れちゃった。けど、あれが本当に父さんなのかな……?』


 夢を覗き見ていたという事がバレれば、何をされるか分ったものではない。そう思ったネギは、エヴァンジェリンに促されたのをこれ幸いと、家を出て行こうとしていた。


「……おい、貴様。そういえば、何ゆえ、寝ながら杖を握っていたんだ?」


 だが、その明らかな挙動不審が、避けれた筈の疑いを買ってしまったのだろう。ふと思っただけの疑問を投げかけられてネギは、ギクリと身を硬直させてしまった。


 エヴァンジェリンが答えを察するのに、それ以上の答えはない。


「まさか、貴様…………私の夢を!? い、言え、何をどこまで見た貴様!」


「べ、別に何も……」


「嘘を吐けぇ! 目を逸らしていたらバレバレだ! 貴様らは親子揃って―――殺す! やっぱり今殺すっ!」


「うわぁぁぁっ!」


 狭い家の中で、二人の追いかけっこが始まる。その見た目だけは、とても微笑ましい光景であった事は、言うまでもない。










 その頃、薬を取りに行った二人はというと。


「あ……マスターが元気になられましたね。良かった」


「そのようだな。しかし、仲がいいな、あの二人は。や、結構」


 ドタバタと騒音が響く家を眺めてしみじみと、しかし本気で、そんな言葉を口にしていた。












 後書き


 書いてて思ったこと。やっぱナギって馬鹿だなぁ。逢千 鏡介です。


 今回は珍しく、小次郎ではなくネギとエヴァンジェリンがメインでしたが、お楽しみいただけたでしょうか?


 大人エヴァの描写には、かなり力を入れてみました。妖艶な雰囲気と背徳感を、少しでも感じていただけたら嬉しいです。


 しかし……作中でも書きましたが、ナギはあの落とし穴、本当にどうしたんでしょうかね? 私は勿論、素手で掘ったに一票!


 感想等々、お待ちしております。


 では。


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