イヤァッ、と鋭い気合を発し、竹刀を払いながら相手の間合いを侵犯する。私の気勢に気圧されたのか、相手はやや足を浮つかせながら後ろに下がり、払われた竹刀をそのまま上段に振りかぶった。その隙を見逃さず、更に一足を踏み込み、がら空きとなっている胴を一閃した。


「一本!」


 審判役を務めていた国重先生の、張りのある声が道場内に響く。先ほど小手を決めていた私は、この胴の一本と合わせて試合に勝利した。国重先生の勝者宣言が終わった後、ありがとうございましたと一礼して、次の試合を待っている他の部員たちの列の一番後ろに入り、重い面を外す。


「ふぅ……」


 適度な疲労感を感じながら、顔を流れる汗を頭に巻いていたタオルで拭く。密閉された空間から開放されたからか、熱いはずの道場の空気が心地よかった。


 もう半面で行われている試合は随分と白熱していた。互いに一本ずつ有効打を決めているようで、どちらも最後の一本を自分のものにするために、激しい攻防を繰り広げている。


 こちらのコートでも、国重先生の合図がかかり、試合が始められた。


「セアァッ!」


 開始早々、裂帛の気合と共に面が炸裂した。踏み込みの鋭さも、そこから攻撃に繋げる無駄のなさもかなりのものだ。最近メキメキと上達してきている、辻部長の一撃だった。


 少しずつ日が傾いてきて、徐々に赤くなっていく床板が強く踏み鳴らされる音と、竹刀がぶつかり合う乾いた音を聞きながら、私は深呼吸を一つついて、道場内を眺めた。


 小次郎さんがコーチになってから、個人差こそあるものの、剣道部の実力は目に見えて分るほど上がっている。この調子なら、個人・団体の両方で全国大会出場も夢ではないだろう。実際それを目標にして、練習に熱を入れている人も結構見受けられた。


 特に上達が目覚しいのは、一番難しいとされる逆胴をついさっき決めて、二本連取による勝利を収めた辻部長だ。かねてより『打倒(フェイ)部長』を目標にしている人だから、小次郎さんという達人から稽古を受けて、更に熱を入れているのかもしれない。私の隣に腰を下ろし、面を取った部長にお疲れ様ですと会釈しながら、そんな事を考えた。


 ……ただ逆に、やる気が削がれている者たちがいる事も、少し気にかかっている。最悪の状況にならないうちに、小次郎さんや国重先生に進言した方がいいだろう。


「剣道部もすっかり強くなったな、桜咲」


「え? あ、そ、そうですね」


 部活中の私語をほとんどしない部長から話しかけられたのが意外で、少しどもりながらの返答になってしまった。珍しい事もあるものだと思っていると、ところで、と部長が声を潜めながら顔を少し寄せてきた。どうやら、本題を切り出すための前振りだったらしい。


「小次郎先生の様子がおかしいみたいだが、桜咲、何か知らないか?」


「……実は、私も気になっていました」


 上座に座っている、剣道部強化の立役者を二人でこっそり見る。いつもなら見守るような瞳で試合を眺めている人は、少し暗い顔で、膝に頬杖を突きながら視線を落として何かを思案しているようだ。


 今日の稽古が始まってからというもの、小次郎さんの様子は終始あのような感じだった。一昨日、珍しくコーチを欠席していたから、その時に何かあったのだろうか。他の部員もそれには気づいているようで、練習中にチラチラと小次郎さんを窺っていた。


 国重先生は何かを知っているのか、特に小次郎さんには触れなかった。稽古が終わった後、少し話を聞き出す事に決めた。


 ―――そうこうしている内に、今日の部活動は終わっていった。小次郎さんを気遣ったのだろう、今日は誰も小次郎さんに挑もうとはしなかった。


「「「ありがとうございましたっ!」」」


 全員で二人の先生に向き合い、大声と共に礼をする。国重先生の合図で解散となった時、小次郎さんは国重先生に軽い会釈をすると、またも珍しく早々に出口へと向かった。外へ出しな、私たちに別れの挨拶を告げると、まるで話しかけられるのを避けるように、サッと道場を後にした。


 小次郎さんへの疑問は、ここへ来て頂点に達したのだろう。部員の誰しもが、小次郎さんの今日一日の挙動について議論を始めた。私はというと、先ほど決めたとおり、国重先生を捕まえて話を聞いてみようと声をかける。


「国重先生、少々よろしいでしょうか」


「どうした、桜咲」


「今日一日、小次郎先生の様子がおかしかったのは、先生も気づいていらっしゃったでしょう。何かご存知ありませんか?」


 私の質問を聞くと、国重先生は一瞬目線を逸らした。これはやはり知っていると思ったとき、先生の口が開かれた。


「……確かに、一昨日何かに悩んでいる様子だったが―――生憎、それ以外は、な」


 困ったとでも言いたげな顔と口調。恐らく、本当に国重先生も知らないのだろう、僅かな困惑が言葉の端々に表れていた。それで質問を止める事にした私は、静かに頭を下げてから、更衣室へと踵を返した。


 汗が染み込んだ道着と肌着を脱ぎながら、小次郎さんについて考える。


 ……あの小次郎さんが、部活中にまで悩むほどの難題。それが一体どんなものなのか、十余年程度しか生きていない私では答えを出す事はできない。ただ、あの人にも悩みはあるのだなと、場違いな感想だけは持っていた。


 それと―――悩むのなら、もう少しそれを隠して欲しいと不満を抱いた。あの人は自分の周囲への影響力をまるで自覚していない。たとえその悩みがどんなものだろうと、私との稽古のさなかでも浮かべている含み笑いくらい、表に出してくれていいと思う。普段が普段なだけに、そういう気持ちの上下が分りやすいのが、彼の欠点だった。


 明日になっても治ってなかったら、思い切って直に聞いてみようか―――


 私は、そんな事を考えながら、新しいシャツに袖を通した。










「…………生徒たちには、悪いことをしてしまったな」


 逃げるように道場を後にした私は、当て所なく歩きながら、部活中の自分を省みた。


 どれだけコーチに身をやつそうとしても、気がつけばエヴァのことを考えていた自分。せめて部活中はと、その意識を切り離そうともしたが、結局それを成しえることはできず、ズルズルと時間を浪費してしまった。それだけで済めばまだ自分の問題になっただろうが、そんな私を気にしていたのだろう、部員たちの稽古もどこか浮ついていた。


 二回続けてコーチを欠席するのも拙いと、悩みを抱えたまま出勤した結果がこれだ。一昨日に続いて、如何に自分が楽をして生きていたのかを痛感させられてしまった。


「―――しかし」


 足を止めて、道の傍らに植えられている木を見上げる。エヴァに関しての問題は、同じところをグルグルと回っていて、まるで自然が循環するように終わりは見えなかった。


 私は生徒を守りたい。だが、そのためには友人であるエヴァを傷つけねばならない。しかし、エヴァの行いは当然の権利で、それを止めることは誰にもできぬ。だが、それを黙認するのは即ち、生徒が襲われても致し方ないと言うも同じこと。到底、私が見逃すことはできないのだが―――


 二日間かけても、この堂々巡りから抜け出すことはできていない。修業にも身は入らず、馳走であるはずの茶々丸の料理さえ、何時ものように美味いと感じられなかった。この調子からして、私一人ではこの悩みを解決することは不可能だろう。


 再び目的地の定まらない足を進めながら、私は考え得る限りの、現状の解決策を洗い出すことにした。


 一つ目……エヴァが呪いを解くことを諦め、生徒を襲うのも止めること。


 ―――あり得ぬ。エヴァの十五年分の恨みと、ナギへの執着心は半端ではない。例え殺されることになっても、この好機を逃すつもりはないだろう。


 二つ目……私が全てに目を瞑り、事が終わるまで静観する。


 ―――これも、あり得ぬ。そのような思い切りをつけられれば、今私はこれほど悩んではいない。


 三つ目……秘密裏にネギを捕らえ、エヴァに突き出す。


 ―――これを本気で考えた時もあったが、やはりあり得ぬ。ネギとはエヴァやタカミチ以上に短い付き合いだが、刹那や木乃香殿のクラスの担任でもある。斯様なことをしてしまっては彼女らに会わせる顔がないし、事の発端が親にあるとはいえ、その責を実子という理由だけで押し付けるのは、あまりにも酷だろう。


 二日間を使っても、この三つの解決策しか思い浮かばなかった。


「かといって、誰かに相談するのもな……」


 魔法先生の多くは、まだ『桜通りの吸血鬼』がエヴァであることに気づいておらぬはず。もし既に知っているならば、正義を掲げているあの御仁たちのこと、エヴァなどとっくにお縄についている。唯一相談できそうなのはタカミチくらいだが、そもそも相談したところで、納得のいく答えが出るとも思えなかった。


 ……だが、このまま一人で考えたとして、答えが出ないこともまた明白。どうしたものかと、改めて嘆息を吐いたところで、ふと、一人の人物が頭に浮かんだ。


「そういえば……」


 自分とエヴァのことばかり考えていて、もう一人、この問題に直接関わっている人物がいることを、今更ながらに思い出した。


 ―――絡繰 茶々丸。従順にエヴァに仕えている侍女。


 普段の彼女を考えれば、到底説き伏せることは不可能だろう。


 だが茶々丸は、不審人物で行く当てもなかった私を擁護してくれるような、心優しき女子だ。


 そんな彼女が、如何に主のためとはいえ、無辜(むこ)の人々が手にかかることを黙認することができるのだろうか?


「…………聞いてみるか」


 あわよくば、茶々丸を介して、エヴァを説得できるやも知れぬ―――


 そんな、あり得ぬと分っているはずのことを思い立ち、自分が予想以上に追い詰められていると知った。藁にもすがる思いとは、正に今の私のことを指すのだろう。気持ちが落ち込んでいるせいか、肩にかかる青江が嫌に重い。


 ……とにかく、この時間なら、教会裏で猫たちに餌を与えているはず。私は、肩と首を一回ししてから、足を教会に向けた。










 ―――数十分前




 川沿いの道を、茶々丸さんが一定の調子で歩いている。道の脇には木や草といった緑が、青々と生い茂っていた。片手にはコンビニのレジ袋を提げていて、中には何か入っているみたいだ。


「茶々丸って奴の方が一人になった、チャンスだぜ兄貴! 一気にボコッちまおう!」


「だ、だめ! 人目につくとマズイよ、もう少しまって!」


 茂みに隠れている僕の隣にいた、最近とある経緯で使い魔になってくれたオコジョ妖精―――カモ君が、ちょっと気の早いことを口にする。もともと僕らはそれが目的なんだけど、さすがにこんなところだといつ人に目撃されるか分らないから、僕はカモ君を慌ててなだめた。


「……なんか、辻斬りみたいでイヤね。しかもクラスメートだし……」


 カモ君とは反対側でしゃがんでいるアスナさんが、もっともなことを呟いた。僕もそれには同感なんだけど、これは僕にとって必要なこと。だから、何としても、やるしかない。


『そうだ……先生を続けるためにも、エヴァンジェリンさんを倒すためにも、これは必要なことなんだ……』


 エヴァンジェリンさんとの話を聞いたカモ君が、学校で僕に話してくれた作戦。それは、確かに有効な作戦だったんだけど……




 ―――ネギの兄貴と姐さんがサクッと仮契約を交わして、相手の片一方を二人がかりでボコッちまうんだよ!




 茶々丸さんは、僕の教え子だ。いくら彼女がエヴァンジェリンさんの従者で、彼女を倒さないと僕に勝ち目がないといっても、教え子を傷つけちゃう先生なんてダメだと思う。それに、仮契約を結ぶってことは、アスナさんをもっと危険な目に合わせてしまうかもしれない。だからやっぱり、これはいけないことなんだと思う。


 けど―――このまま待っていたら、エヴァンジェリンさんは次の満月にまた襲ってくる。その時、あの感覚をもう一度、もっと深く味わうことになんてなったら、僕は正直、正気を保っていられるか分らない。


『……これは、僕の命を守るために必要なことなんだ。だから、このまま―――倒しちゃっても、誰も僕を責めないはずだ……きっと』


 そうやって自分に言い聞かせても、そもそもの自信がないから、もやもやした胸のしこりは消えてくれない。自分でも本当はどうしたらいいのか分らないまま、茶々丸さんの後をつけて行く。


「えーん、えーん」


 と、茶々丸さんが進む先で、一人の女の子が泣いていた。フーセン、フーセンと言いながら木の下で泣いているから、きっと風船を誤って手放してしまい、木の枝に引っかかっちゃったんだと思う。


 茶々丸さんは、その女の子の前で足を止めた。そして、木に引っかかっている風船と女の子を交互に見た後、急に茶々丸さんの背中から凄い音が響いた。


 バシャッ、という、硬いものが急激な勢いで開く音。何事かと、音の元に目を向けてみれば、茶々丸さんの背中の一部が文字通り『開いて』いた。その中には、何かの噴射口が見える。前に本で見た、飛行機のジェットノズルを小さくしたような形だ。


 それが何であるかを考える前に、そのノズルは見た目通りの機能を発揮しだした。炎を噴出させて、ドドドドッ、と体の芯に響きそうな音を轟かせながら、茶々丸さんの体が上昇していく。そのまま手を伸ばして、風船を掴むと、今度は炎が小さくなっていき、茶々丸さんが降りてきた。


 風船を掴むときにぶつけたおでこを押さえながら、茶々丸さんが女の子に風船を手渡す。背中が開いたときの音にビックリしていた女の子も、空を飛んで風船を取ってくれた茶々丸さんに気づいたのか、笑顔でお礼を言ってから、元気に手を振ってどこかへ走っていった。


「あ、茶々丸だー」


「茶々丸ー」


 茶々丸さんもその女の子に手を振り替えしていると、どこからか男の子が二人、茶々丸さんに駆け寄っていった。二人の男の子は、茶々丸さんと挨拶を交わすと、また歩き出した茶々丸さんの周りを走りながら一緒の方向に進みだした。


「…………」


「…………」


 そして、僕とアスナさんは、尾行している茶々丸さんが歩き出したのにも気づかないで、呆然と口を開けて立っていた。


「そ、そーいえば……茶々丸さんってどんな人なんですか? 飛んでましたけど……」


「えーと―――あれ? あ、あんまり気にした事ないから、分らないわ……」


「いや、だからロボだろ? さすが日本だよなー、まさかロボットが学校に通ってるとはよ」


「じゃ、じゃあ茶々丸さんって人間じゃないの!?」


「えぇぇ!!?」


「うおぉいっ! 見りゃわかんだろぉ!?」


 カモ君の突っ込みに、機械は苦手だとアスナさんと二人で弁明したけど、さらに突っ込みを入れられた。


 とにかくこんなこと話してる場合じゃねぇと、カモ君が話を本来の路線に切り替える。それでようやくハッとなった僕たちは、もうかなり小さくなった茶々丸さんの背中を慌てて追いかけ始めた。


 それから、茶々丸さんはさらに良いことをし続けた。


 歩道橋を辛そうに上ってるおばあさんを見つけたら、反対側までおぶって運んであげていた。別れ際、『いつもありがとうございます』とおばあさんが茶々丸さんにお礼を言っていたから、いつもこういうことをしているんだろう。二人の男の子も、『また茶々丸がいいことしてるー』と言いながら、茶々丸さんの後ろを歩いていた。


 そのまましばらく歩いていると、今度は橋の上で人だかりができているところに出くわした。みんなの視線は全て橋下の川に向けられていて、その先には、小さめのダンボールに入れられて川を流れている仔猫の姿。


 慌てて僕が助けに行こうとするけど、尾行中でしょ、とアスナさんが慌てて肩を掴んで僕を止める。その間に、茶々丸さんが躊躇いもせず川に入っていって、力強く仔猫を救出して見せた。戻ってきた茶々丸さんは、集まっていた人たちの拍手を一身に浴びていた。


「え、えらい!」


「めちゃくちゃいい人じゃないのよ! しかも町の人気者だし!」


「い、いやっ、オレッチたちを油断させる罠かもしれないぜ、兄貴」


 カモ君は変に食い下がるけど、僕とアスナさんの中では、茶々丸さんはすっかり『いい人』という認識ができ上がりつつある。それが余計に、僕の心を悩ませた。


 ―――そして。


 仔猫を助けた後、茶々丸さんは教会の裏手に来ていて。


 そこには、助けた仔猫を頭に乗せたまま、たくさんの猫や鳥たちにレジ袋から取り出したエサをあげている、聖母のような笑みを浮かべた茶々丸さんの姿が―――


「「―――いい人だ」」


 アスナさんと二人、感激の涙を流す。茶々丸さんはやっぱり、とっても、凄くいい人だった。


「ちょ……待ってください二人とも! ネギの兄貴は命を狙われてんでしょう!? しっかりしてください! ほら、ここなら人目もないし、チャンスっす! 心を鬼にして、一丁ポカーっと!」


「で、でもー……」


「―――しょうがないわねぇ……はぁ」


 あんなにいい人をこれから二人で襲うなんて卑怯なことに、凄く心が痛む。けど、カモ君の『命を狙われてる』って言葉を聞いて、またあの感覚を思い出してしまい、僕はそれに勝つことができず、動物たちがいなくなるのを見計らってから、茶々丸さんと向き合った。


「…………こんにちは、ネギ先生。神楽坂さん」


 学校で話すのと同じ風に僕たちを迎えた姿が、最後にきつく、僕の心を締め付けた。










 ―――私が教会に到着した時、既に後戻りはできなくなっていた。


 茶々丸の右斜め後ろにある建物に身を潜めて、私は場の様子を窺っている。


 ネギと神楽坂殿は、沈痛な面持ちで茶々丸と向かい合っていた。ネギの手には、何時も身に着けている長い杖が握られていて、対して神楽坂殿は、無手の自然体でネギの隣に控えている。二人が発している空気は、どこか脆弱だが、確かに戦いへの意思を表していた。


 そんな二人を、茶々丸は無機質な表情で見据えていた。


「……油断しました。でも、お相手はいたします」


 二人とは違う明確な意思を示しながら、後頭部に差していたぜんまいを外す。それが何かの切り替えの基点なのだろう、表情はおろか、瞳からも感情が抜け落ちた。『仕事』をこなす時の、茶々丸のいつもの顔だ。


「茶々丸さん、あの……僕を狙うのはやめていただけませんか?」


「―――申し訳ありませんネギ先生。マスターの命令は、私にとって絶対ですので」


 静かに頭を垂れながら茶々丸が口にした言葉を聞いて、あぁやはりか、と納得した。あれほど献身的にエヴァに尽くしている茶々丸なのだから、私の先の妄想が如何に都合が良すぎたか分る。


 茶々丸の答えを聞いて、ネギの表情が落胆に染まった。私と同じくネギも、都合のいい返事を期待していたのだろう。そのまま隣にいる神楽坂殿といくらか言葉を交わすと、力ない瞳を引き絞り、泣きそうな顔で茶々丸を正面に捉えた。


 神楽坂殿も、一言『ごめんね』と謝りながら、体を半身に構える。


「では……茶々丸さん」


「はい―――神楽坂 明日菜さん……いいパートナーを見つけましたね」


 直に戦いが始まる。一瞬、戦いを止めるべきかとも思ったが、それはならぬと、自分を押しとどめた。


 三日前の夜、ネギはエヴァを追いかけた。恐らくその日、二人はもう交戦したのだろう。その時にエヴァの従者が茶々丸だということも知ったはずだ。でなければ、茶々丸を二人で襲うなどという行いを、あのネギがする理由がない。


 ―――これは、ネギとエヴァの戦いの内の一つだ。私が邪魔してよいものではない。


 手を強く握りながら、自分に強く言い聞かせた。


「―――行きます! 契約執行10秒間(シム・メア・パルス ペル・デケム・セクンダス)! ネギの従者(ミニストラ・ネギイ)神楽坂 明日菜(カグラザカ アスナ)』!」


 ネギが何かの呪文を叫ぶ。瞬間、神楽坂殿の周りに風が吹いたかと思うと、(ことわり)を無視した勢いで神楽坂殿が飛び出した。


 思わぬ速度にも決して慌てず、冷静に茶々丸が反応する。神楽坂殿の足を止めるための、牽制の左突きを繰り出した。神楽坂殿の身体能力が高いのは百も承知だが、エヴァと共にいくつもの戦いを潜り抜けてきた茶々丸には敵わないだろう。


 だが、神楽坂殿はその予想を覆す。突き出されてきた手に決してひるまず、踏み込む足をそのままに、右手で茶々丸の左手を払った。流石の茶々丸もこれには面を食らったのか、次の一歩を許してしまい、左手中指の一撃を額に受けた。


「速い……! 素人とは思えない動き―――」


 一撃を食らいながらも、それ以上の進行は許さぬとばかりに、神楽坂殿の足を茶々丸が払った。それによって神楽坂殿は態勢を崩したが、その時にはもう、王手が詰められていた。


光の精霊11柱(ウンデキム・スピリートウス・ルーキス)! 集い来たりて敵を射て(コエウンテース・サギテント・イニミクム)!」


 神楽坂殿に注意を払っている隙に、茶々丸の側面を取ったネギの魔法が完成を間直にしている。それを表すように、ネギの周りには握り拳程の大きさの光の塊が浮いていた。よくは分からぬが、恐らく、あれを持ってして茶々丸を襲うつもりなのだろう。




 ―――いいのか?




 気づけばそんなことを考えた自分を、馬鹿なと叱咤する。これはネギとエヴァの戦いの一つだと、先に言い聞かせたはずだ。


 光弾の光が、段々と強くなっていく。あれが放たれるのは近い、雰囲気でそれとなく分った。茶々丸もネギの動きには気づいているが、如何せん足払いのために片足を使っているせいで、次の動作への繋ぎが遅れている。あれではネギの攻撃の方が早いだろう。


 茶々丸は魔法への防御手段を持っていない。もう、勝負はついたようなものだった。




 ―――許せるのか?




 再び響いた、何かへの問いかけ。馬鹿なと叱咤する前に、何を? と更に問いをかけていた。


 ネギを―――?


 違う。


 神楽坂殿を―――?


 違う。


『……では、私は、何を許せるのかと―――』


 その時。ふっと、エヴァたちとの日常を思い出した。


 ―――私のからかいに、望み通りの反応をしてくれるエヴァ。私はそれを受け流し、更にからかい、心の底から笑っている。そんな私たちのやり取りを、茶々丸は微笑んで見守っていた。


 ―――仕事帰りにエヴァの家により、持参した茶菓子で雑談を交わした。エヴァは大抵、文句を言いながらも、結局は私の話に付き合ってくれる。その席には、必ず茶々丸の茶があった。


 ―――我が家の台所で、茶々丸は料理を作ってくれた。エヴァと二人で舌鼓を打ちながら、美味いと告げた一言で、茶々丸はいつも嬉しそうに…………


「―――魔法の射手(サギタ・マギカ)! 連弾・光の11柱(セリエス・ルーキス)!」


「―――!」


 問いかけの答えが出る直前に、私は飛び出した。逸歩から繋ぎ、己の出せる最速を持って茶々丸に走りよる。その途中、青江を止める紐を一気に解き放ち、邪魔だとばかりに鞘を投げ捨てた。


 ―――あぁ。それは、とても許せぬよな。


 そうだ。このままこの場を見逃して、茶々丸を―――友人を殺されれば、私は、自分を許すことができなくなる。ネギもエヴァも、ナギも何も関係ない。否、『友』を守るのに、理由など要るものか。


 光弾は無慈悲に茶々丸へと迫る。その速度と、私と茶々丸までの距離を見て、今のままでは間に合わぬと知った。


 所詮この身はただの人。私がサーヴァントとして呼び出されたのは、『佐々木 小次郎の秘剣を振るえる』という一点のみ。ならばこの距離を、あの光弾が茶々丸を襲うよりも速く駆け抜けるのは不可能だ。そのようなことが可能なのは、私のような紛い物とは違う、不可能を可能にして人を救ってきた、真実英霊として祭られている者だけだろう。


『―――否』


 だが、そのようなことは、決して認められない。茶々丸は、この世界に来て初めて私を助けてくれた。いくつもの世話を焼いてくれた。その恩を、私はまだ返しきっていない。ならばどうして、他ならぬ私が、茶々丸を助けられないことを認められよう。


「―――すいません、マスター。もし私が動かなくなったら、ネコのエサを……」


 全てを諦め、受け入れたような言葉。それを否定するために、歯を食いしばり、不可能を可能にしようと、更に強く地を蹴った。


 間に合わぬのならば間に合わせればよい。幸い、似たようなことは実践済みだ。


 限界を振り切れ。身体の破損など気にするな。今こそこの身を、真実『英霊』と化せ―――!


「―――!」


 私の中で何かが弾け、唐突に加速する。先の神楽坂殿のような、理を無視した急加速。理由は気にしない、する必要もない。茶々丸を守護するように光弾の前に立ちはだかった私は、すぐさま唯一の構えを取る。


「! こ、小次郎さ―――」


 茶々丸の声が聞こえたが、それすらも意識から切り離した。見据えるは都合十一にも及ぶ、魔術の弾丸。


 本来なら、私がこれらに対抗する術はない。だが、茶々丸を助けるためには、どうしても全てを切り伏せなければならぬ。


 私が持ちえるのは、青江と、燕返しと、それら二つへの信頼という、三つだけ。それ以外には、成功への確信も、青江が折れてしまわないかという心配も、モノならざるものを斬れるのかという不安もなかった。


 いけるな―――心の中で呟いた一言への答えのつもりか、自ら光を放つように、青江が光った。


「秘剣――――――」


 加えて。この秘剣は、燕を斬るために編み出した業。人では到底敵いはしない自然を相手に磨き上げた、月への足がかり。神でなくば破ることあたわぬ、この業で―――


「――――――燕返し!」




 女子一人守れぬことが、どうしてあり得ようか―――!




 自分でも驚くほどの疾さと鋭さを持って、三条の三日月が私と茶々丸を守護する。十一個の光弾の内、三日月は七つを断ち切った。すぐさま返しの一太刀を放ち、何とか二つを更に切り伏せる。


 しかし、残った二つはどうしようもなかった。仕方なく、顔に迫っていたものを腕で受け止め、もう一つは腹筋を締めることで耐え抜いた。


「がふっ……」


 衝撃が腹から背中へと突き抜ける。痛みには何とか耐えれたが、それに伴った威力までは殺しきれなかったようだ。中に溜まっていた空気を全て吐き出し、私は苦悶の音を洩らした。


『クッ―――しかし、あれだけ悩んでいたというに、いざとなったらこれか』


 これでは答えを出せないはずだと、自分の不器用さに内心で自嘲した。


「ぇ―――こ、小次郎さん!? だだ、大丈夫ですか!」


 唐突に表れ、己が魔法を切り伏せた者が誰かを認識したのだろう、ネギが驚愕の声で叫んだ。


『食らわせた者の心配をするくらいなら、始めから放つなというのだ……全く』


 誰がどう見ても敵としか映らない今の私へ、気遣いの言葉をかけてきたことがおかしくて、苦笑いを浮かべる。痛む腹を押さえながら、俯いていた視線をネギに向けた。


「……何とも其方らしくない所業よな、ネギ。己が生徒を二人がかりで襲うとは」


 先ほどはネギの意思によるものなのかとも思うていたが、今の言葉でそれは違うということを確信した。楽をしていたとはいえ、倍以上生きている私ですらああだったのだ、十歳にも満たぬ若輩であるネギに、やはり今回の一件は重すぎたのだろう。


「な、何であなたが茶々丸さんを守ってるのよ、小次郎先生」


 ネギの隣りに戻った神楽坂殿は、隙無く身構えて私を睨んでいる。茶々丸の申した通り、とても素人とは思えぬ動きと、肝の据わりようだ。そういった道に進めば、大成するのは間違いないだろう。


「何故も何も……友を助けるのが、そんなにも不思議なことか?」


 無粋なことを聞いてくれるなと、片頬を吊り上げて嘲笑を浮かべる。ネギも神楽坂殿も、そんな私に何と言えばいいのか迷っている様子だった。これ幸いとばかりに、ところで、と話の支配権を得た。


「此度の所業、ネギの意思によるものならばと静観していたが……其方らの様子を見るに、どこぞの者の入れ知恵であろう?」


 先ほどから考えていたことを確認するために、あえて口に出して問いただした。思惑通り、ネギも神楽坂殿もこれといった返答はせず、図星を突かれたように口を閉ざす。


 それを見て、私は嘲笑を含み笑いに変えた。


「やはりな―――であれば、止めておけ。その程度で人を殺めようとするな、未熟者」


「そ、そんな! 僕は殺す気なんて―――」


「ならばなおのことよ。殺す気がないのであれば、茶々丸からは手を引け。そも、己が意思であろうとそうでなかろうと、其方らが手を汚すのは、まだ早い。
 そら。ここで引くというのであれば、私も、そして茶々丸も手出しはせぬ。大人しく去るがよい。
 もっとも……それでもなお己が意思で思い直し、茶々丸を襲うというのならば、今度は我が秘剣が其方らに牙を剥くぞ」


 腰を落としてみせることで威圧をかけ、少しの殺気でネギたちを牽制する。そういったものに耐性がないネギと神楽坂殿は、それだけで顔を青ざめさせ、たじろぐように一歩下がった。


「あ、兄貴! ここはその男の言うとおり逃げるんだ! 二対二は分が悪い!」


 どこからか声が響く。視線を辺りに走らせて見たが、それらしい人影は見当たらない。だが、この指示の出しようからいって、此度の作戦をネギに提案した人物だろうと思った。


「うぅ……わ、分かったよ、カモ君」


「小次郎先生が相手なのはきついしね……私もそれがいいと思うわ」


 二言三言、軍師の言葉に従った会話を交わした後、ネギと神楽坂殿は最後まで私たちに気を配りながら、この場を後にした。


 その姿が完全に見えなくなってから、私も青江を下ろし、殺気を霧散させる。


「―――ふぅ。茶々丸よ、大事ないか」


「は、はい……ですが、小次郎さんのほうが」


「それこそ問題はない。せいぜい、突きを受けた程度の痛みだ。痣くらいは残ろうが、支障はあるまい。それよりも茶々丸が無事で何よりだ。もしここで助けられなかったとなれば、エヴァに会わす顔がないからな」


 クツクツと笑いながらそう告げた時、ふと何か温かいものが足に当たっていることに気づいた。はて、と疑問を感じながら視線を下に下げると、


「にゃ〜」


「猫?」


 何故かは知らないが、子猫が一匹、私の足に頬摺りをしていた。白い体毛に所々、薄い灰色の毛が生えていてぶち模様を作り出している。茶々丸が何時も餌をやっている猫のウチの一匹であろうか。


「あ……先ほど川で助けた猫さんですね」


「ほう……もしや、恩人を助けてくれた礼をしているのかな?」


 しゃがみ込み、顎の下をくすぐってやると、ゴロロと気持ち良さ気に呻きながら、私の手に顔を押し付けてくる。可愛いものだと思いながら頭を撫でてやると、前足で私の手を叩いたり甘噛みしたりとじゃれ付いてきた。その様子に心を和ませながら、茶々丸に問うた。


「川で助けたということは、捨て猫か?」


「はい。恐らくは」


「そうか…………このまま捨て置くのも、心苦しいな」


 一通りじゃれ付いて満足したのか、私にされるがままとなった子猫を、両手で優しく持ち上げてやる。そして、私の目線と同じ高さまで上げてやり、一言問う。


「私の家に来るか?」


「飼うのですか?」


「うむ。こうして会ったのも何かの縁であろうし、これからも餌をやりに来るのであれば、飼ったところで大差あるまい。どうだ、子猫よ」


「にゃう?」


 やはり言葉が伝わらなかったのか、子猫はカクンと小首を傾げた。愛らしい仕草に頬を緩ませていると、短い手足をパタパタと動かして暴れ始めた。その様もまた愛らしかったが、持たれるのが気に食わぬのかと思い、私の肩に乗せてみる。最初は体勢が安定しなかったものの、落ち着いてくるとここが気に入ったのか、はたまた先の問いかけの答えのつもりか、私の頬に顔を擦り付けてきた。


「ははっ、そうかそうか。では、今日から其方は家族の一員だな」


 思わぬところで家に住むものが増えたことを嬉しく思いながら、これからのことについて少し考える。


 エヴァの問いかけに対する答えは用意できた。これならば、私は胸を張ってエヴァに告げることができるだろう。ただ、此度の件でネギたちとの関係がどうなるかが、少々の懸念だった。


『まぁ、その時はその時か』


 茶々丸を助けられたのだ、その程度の代償は甘んじて受けよう。仮に敵と見なされたとて、こちらから戦う意思を見せなければネギのこと、私と戦うことはあるまい。


 今までの迷いが嘘のように清々しく晴れ渡った心持ちで、力強く立ち上がる。


「―――ぅ、ぁ」


 瞬間、世界が歪んだ。


 黒い靄が立ち込めるように、私の世界が塗りつぶされていく。耳鳴りが酷い。せめて踏ん張ろうと四肢に力を込めたが、少しずつ意識が届かなくなっていった。私が立っているのか、そもそもどこにいるのかすら分らなくなっていく。


「―――! 大丈夫ですか、小次郎さんっ!?」


 何かの音がやけに遠くから聞こえる。世界は依然闇に包まれていて、聴覚も触覚もまともに働いていない。何かが必死に私の名を呼んでる気がしたが、脳にすら意識が通っていないのか、それについて考えることもできなかった。


 その闇がどれほど続いたか。私には判断できなかったが、気づけば世界は色を取り戻していた。


「―――わ、たしは……」


 心臓がやけに激しく動いている。今、私はどこにいたのか。それを確認するために、まだ力の入らない身体を何とか動かし顔を上げ、辺りを見渡そうとして―――


「お気づきになられましたか?」


 目の前に、茶々丸の顔があった。


「な……」


「急に私に寄りかかってこられたので、何事かと思いましたが…………いくら呼びかけても返事がないので、とても驚きました」


「そ、そうだったのか……それは、済まぬ。どうも、立ち眩みを起こしたようだ」


 一気に冴えた頭で、今の自分の状態を見下ろしてみる。正面から全体重を茶々丸に預けていて、それを茶々丸に支えてもらっている形だった。如何に立ち眩みのせいとはいえ、茶々丸には悪いことをしてしまった。慌てて、しかし露骨にならぬよう、静かに離れる。


「ぅ―――?」


 だが、途端にガクン、と膝が抜けて地に手をつく。立ち上がろうとしたが、まるで足に力が入らない。支えている手も震えていて、気を抜けば倒れてしまいそうなほどだ。


「ど、どうしたのですか、小次郎さん」


「いや、分らぬ……だが、まるで力が入らない」


 歯を食いしばり、何とか立ち上がろうとするが、体は少しも大地から離れない。私が茶々丸に寄りかかってしまった時に降りたのだろう、新しい家族が、心配そうに私を見上げていた。


「茶々丸。済まぬが、手を貸してくれぬか」


 一人では無理だと判断して、茶々丸に助けを求める。


「―――」


 だが、茶々丸は顎に手を当てて何かを考えているようで、私の言葉には気づいていなかった。再度呼びかけることで、失礼しましたと謝罪しつつ、ようやく振り向いてくれた。


「いや、よい。それよりも、手を……」


「いえ。それよりも、もっといい手があります」


 私の言葉を遮って茶々丸がそう告げると、少々お待ちくださいと言い残して私から離れていく。向かう先には、私が茶々丸を助ける時に投げ捨てた青江の鞘。それを拾った後、何時の間にか手を離れていた青江も拾い上げ、鞘に納めると、何故か自分の背中に留め始めた。紐をしっかりと結び、何度か動かすことで落ちないということを確認した茶々丸は、今度は子猫を拾い上げた。そして、それを私の懐に優しく入れてくる。


 青江を背に差した意図は分らないが、子猫に関しては今の私を思った心遣いなのだろう。これでやっと手を貸してくれる。そう思い、手が差し出されるのを待っていると、


「失礼します」


 そう一言だけ断りを入れると、返事も待たず、私を両手で抱え上げた。


「な―――茶々丸、何をっ!」


「このまま空を飛んでマスターの家まで運びます。ここからなら、そちらの方が近いですから」


「そ、それは構わぬが、この持ち方は―――」


 勘弁してくれという、私の頼みは聞き遂げられず。私は、何時か自分が刹那にしてやったのと同じ格好で、人生初の飛行体験を経験したのだった。












 後書き


 ようやくここまでこれた、逢千 鏡介です。


 もうお気づきになった方も多いと思いますが、この十六話でやったことは、花鳥風月の中でやりたいことの一つでした。何をしたのか、読者の方々は分りきってると思いますが、作中で明言されてない以上、感想等々で固有名詞を挙げるのを自重してくださればと思います。


 それと、理由についてもちゃんと考えており、十七話で説明する予定です。なので、賛成反対両意見とも、それまで控えてくれればとも思います。


 最近、後書きに書くことが思いつかない。ので、短いですが、ここらで失礼します。


 では。




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