―――時を遡る事、十数分前






 満月が輝いている。一つの雲もかげることないその姿は、爛々と辺りを照らし上げ、周りに眩く星の光を食い潰すだけでは飽き足らず、大地にまでその威光を放っていた。


 その光に呼応したのか、大地に根付いた木々の枝を、風が緩やかに揺らしていた。スルスルと運ばれてくる春の外気はどこか包み込むように優しく、温かく、それはまるで揺り篭に抱かれた赤子のように、木々を丑三つへと誘うだろう。


 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、そんな素晴らしい月夜の中、光の隙間を縫うように夜へ溶け込みながら空を飛んでいた。全身に纏った黒い外套が風にたなびく様は、まるで蝙蝠の羽のようであった。生来の目も覚めるような金髪は、月光に濡れる事でその美しさをより深めて、さながら天の川の如くエヴァンジェリンの後を流れている。


 ネギ・スプリングフィールドがここ麻帆良にやってくると知ってより、半年。エヴァンジェリンは危険を覚悟で満月の夜に吸血行為を繰り返し、脆弱に成り果てさせられてしまった身に、魔力を少しずつ蓄えていった。無論、回数を重ねるに連れてその行いは徐々に日の明るみに晒されていき、昨今では『桜通りの吸血鬼』という形で生徒の間に広まっている。


 エヴァンジェリンは、飛ぶ速度を少し落としながら、家を出るときに己の従者と言葉すくなに交わした会話を思い出した。




 ―――では、言いつけ通り頼むぞ
 ―――はい、マスター




 エヴァンジェリンは昨日も吸血を行った。その犠牲者である佐々木 まき絵は今朝発見され、彼女の担任であるネギには『桜通りで見つかった』という情報も渡っているはずだ。ならば正義感の塊であるネギが、自分の生徒を傷つけられて黙っているはずがない。数日の内に現場を押さえるべく桜通りに現れるだろうというのが、エヴァンジェリンの予想であり、そのための従者との会話だった。


 従者の有無以前に、『魔法使い』として未熟者であるネギ。今のままならば確実に勝利する自信が、エヴァンジェリンにはあった。


 ……ただ、従者にも話していない―――恐らくあの従者なら思っているだろう―――懸念が、エヴァンジェリンの脳内を何度も掠めていた。


「…………あの男も、方向はズレているが、ある種義侠心の塊だからな」


 一月前に出会い、そのままそれなりの関係を続けている一人の男。まだ短い付き合いではあるが、エヴァンジェリンはその男の性格をよく理解している。故に、奴が来る可能性も高いだろうとエヴァンジェリンは胸中で呟き、少しため息を吐いた。


 桜通りの上空でエヴァンジェリンが停止する。いつもなら生徒が通るのをここで待つことになるのが多いのだが、今日は随分と運の悪い者がいたようだ。それを発見した途端、エヴァンジェリンは大地に向かって急直下を開始し、そのまま街灯の上に着地した。


 トッ、という音に気づいたのだろう、生徒が街灯を見上げる。そしてそこにいたエヴァンジェリン―――吸血鬼を認めた瞬間、生徒は獲物に成り果てた。


「27番、宮崎 のどかか…………悪いけど、少しだけその血を分けてもらうよ」


 外套を広げて、獲物に向かって吸血鬼が飛び降りる。獲物は叫び声を上げるものの、恐怖に身が竦んで動けなかった。


「待て、其処な者。狼藉はここまでだ」


 そんな、もはや血を吸われるしかなかった彼女を救ったのは、突然聞こえたとある声だった。その凛とした響きに聞き覚えのあったエヴァンジェリンは、ピタリと動きを止めて、ゆっくりと声のした方を振り返る。


 ……見覚えのある、否、一度見たら忘れられないであろう派手な色合いの着物。その上から羽織っている、紫の生地に金糸の縁取りが施された陣羽織が、まるで物語の中から出てきたような美しく端整な顔立ちをより一層引き立たせていた。


「―――小次郎」


「…………エヴァ」


 従者にも話したくなかった懸念が、そこに立っていた―――










 ……私が『桜通りの吸血鬼』と見詰め合ってより、既に五秒もの時が過ぎようとしている。本来ならばとっくにひっとらえて、学園長殿へ引き渡すために連行を始めている時間。だが私は、それだけの時間を動きもせず、ただいたずらに浪費していた。


 エヴァは、真っ直ぐに私を見ている。ギリギリではあるが、その立ち位置は私の間合いの内だというのに、私はどうしても、青江を振るう機が見つけられなかった。


「…………やはり来たか、小次郎。もしやとは思っていたが、真面目な事だ……」


 ため息をつきながら、エヴァが呆れ混じりに呟いた言葉はあろうことか、自らの行いを肯定していた。


 エヴァが『桜通りの吸血鬼』であることは、これで疑いようのない事実となってしまった。それを認識した途端、私は弾かれたように青江を振るっていた。


「―――何故だ、エヴァ。其方、何のために斯様なことを……。其方は、私と同じ、学園を守る警備員ではなかったのか」


 刀を首筋に突きつけたまま、高圧的に問いただす。学園を、生徒を守るはずの私たちが、何故生徒に手をかける、と。
 

 私の問いかけにエヴァは一度口を開きかけるが、何かを言いよどむように元に戻ると、言葉を選ぶように沈黙してから、再び口を開いた。


「ふん……貴様に話す筋合いは無いな。そもそも警備員など、私は嫌々やっていたのだ。生徒は元より、ここに住んでいる者たちのために働いた事など一度とてない」


 その返答は、正直意外だったと言うしかない。エヴァがほとんどの者と一歩、もしくはそれ以上の距離を開けた付き合いをしており、かつ他の仕事仲間もエヴァに対して距離を置いているのは、この一ヶ月仕事を共にして分かっていた。私が知る限り、エヴァと親しげに言葉を交わしている者は、学園長殿とタカミチと、後は私の三人ぐらいだろう。


 だが、エヴァが他人に無関心なのかと問われれば、私は即刻否と答える。そんな者を、私は友と呼びはしない。


 いつだったか、我が家で茶の席を共にした時、茶々丸が言っていた。マスターは本当は優しい方です、それが周りの人には分かりにくいだけなのです、と。無論、私は直ぐこれに同意した。


 そんな心根の優しいエヴァの口から、麻帆良の者など知ったことではない、という言葉を聞かされた私は、強い衝撃を受けていた。


「それで……貴様はこれからどうするんだ? え? 生徒から慕われてる麻帆良剣道部コーチ様」


 どこか私を試すような視線でこちらを見上げながら、薄ら笑いを浮かべたエヴァが私に決断を迫る。青江を首筋に突きつけられているという、圧倒的に不利な状況にありながら、その語気は己の立場の方が上だとでも言っているようだった。


「―――無論、多少手荒になってでも止めさせてもらう。生徒も守らねばならぬし……何より、友人に斯様な行いを続けさせるわけには行かぬ」


 エヴァの視線を強く見返し、青江をしっかりと握り直しながら丹田に力を込めて、全身に気を張り詰めさせる。深くゆっくりと気息を整えて、覚悟を決めた。


「―――友人、か…………ハッ、下らん」


 私が口にした『友人』という一言。エヴァはそれを噛み砕くように反復した後、一笑に付した。


「何がおかしい。友人を止めるのはそれほどに異なことか?」


「いや。貴様の性格はそれなりに知っているから、そういう理由で動いてもおかしくはないさ。それに別に、お前が私をどう思っているかはさほど問題じゃあない。
 私が下らんと言ったのは、その程度の理由で私を止めようとする、貴様の浅はかな行いだ」


 ―――何故か、その言葉に私の覚悟が軋みを上げた。崩れそうな体を支えて、言葉の意を尋ねる。


「それは……どういうことだ」


「分からんか? 存外に鈍いのだな、小次郎。―――あぁいや、気づこうとしていないだけか? だとしたら大層な独りよがりだよ」


 試すようなエヴァの視線が、その言葉と共に蔑みを含むものへと変わった。


 独りよがり……確かにそうだろう。今ここにいるのは私の独断であり、その理由もただ『吸血鬼が許せなかった』というだけのものでしかない。魔法使いたちのように正義を掲げる気など毛頭ないし、これを指摘されたとして、私は笑って流すことくらいは出来るつもりでいた。


 だが、エヴァの言葉はそれをさせなかった。まるで先の言葉が呪いだったかのように、私の口が二の句を紡ぐのを許さない。


「…………ふん、まぁいい。どうせこの間合いだ、貴様から逃げる事は叶わんだろう」


「では、大人しく投降するのだな?」


「いいや、私は諦めない。私を止めたいのなら、その刀で一太刀叩き込め。貴様なら簡単だろう?」


 そうすれば大人しく従うさと、ふてぶてしい笑みを浮かべて、エヴァが条件を提示してきた。それは明らかに、私に有利すぎる条件。諦めないと口にしたのに、何故エヴァはわざわざそんな条件を挙げたのだろうと、暫し思案してみたが、これという答えは出てこない。その不明瞭さのせいで、私はすぐに青江を振りかぶれずにいる。


「どうした? この刀はそのために突きつけたのではないの…………あぁ、『友人』を傷つけるのに気が引けるのか? なら峰打ちでもかまわんぞ」


「……何が狙いだ」


「狙い? またおかしな事を聞くな貴様は。『桜通りの吸血鬼』を止める大チャンスじゃないか、どこにそんな問いをかける暇がある」


「―――っ」


 ……そうだ、どこに迷う必要がある。吸血鬼が、エヴァが自ら投降すると言っているに等しいこの状況で、なぜ躊躇っているのだ。刀が折れぬ程度の力で峰打ちを叩き込めばそれで済む。エヴァが大した怪我を負うこともない上、生徒がこれ以上襲われることもなくなる。悪いことなど一つもない、私にとって願ったり叶ったりな状況を目の前にしているのに―――




 ―――あぁいや、気づこうとしていないだけか? だとしたら大層な独りよがりだよ




 この、たった一言が、私のどこかに引っかかっていて。歯車が外れたように私の腕はピクリとも動かず、青江もただの鋼の棒に成り下がっていた。


 傍らを吹きぬけた風だけが、辺りに音を与えている。丑三つにはまだ早いというのに、辺りには静寂が満ちていた。そんな、今にも闇に押しつぶされそうな世界の中で、エヴァの瞳だけが、言葉を発していた。


 貴様には、その姿がお似合いだよ―――


「―――てー!」


 突然、世界に音が蘇った。聞こえてきた音は人の声のようで、私とエヴァは同時にその方向に視線を走らせた。


「……ネギ?」


「あれは、坊や……ついに来たか」


 ポツリと、杖に乗ってこちらへ滑空してくる者の名を呟く。エヴァも同じく、ネギのことを口にすると、私の横をすり抜けるように駆け出した。


「エヴァ……! ま―――」


 名前を呼び、駆け出したエヴァを止めようとしたが、何故か『待て』の一言を口にすることはできず。肩を掴もうと伸ばした手は、フラフラと虚空をさ迷うだけだった。


「ま、待てーっ! ぼくの生徒に何を―――って、小次郎さん!?」


 到着するなり、ネギが私の名前を叫んだ。だが、宮崎殿が倒れ付している現場に抜き身を携えた男が一人というこの状況を見れば、それも致し方ないことであろう。


「え、えぇ!? ま、まさか、小次郎さんが……」


「……違う。件の吸血鬼は、今向こうへ走り去って行った。あの足を見るに、私では無理だが、ネギならば追いつけるやも知れぬ。宮崎殿は私に任せて、行ってくれぬか」


「え、あ、でも……」


「―――頼む。行って、奴を捕らえてくれ」


 ネギの目を見つめながら、心からの願いを言葉に託す。今の自分がどういう表情をしているか分らないが、そこから何かを感じてくれたのか、一瞬の間の後に、分かりました、とネギが力強く頷いてくれた。


 ネギが吸血鬼を追いかけるため足に力を込める。刹那、ネギの足元で風が逆巻くと、まるで爆発したような第一歩を踏み出して、あっという間にネギは小さくなっていった。


「…………ふぅ」


 誰もいなくなったことを確認した私は、宮崎殿に私の羽織をかぶせた後、地べたにドッと腰を下ろした。青江も地面に下ろし、両手を後ろにやって体を支え、天を仰ぐ形となり、もう一度大きく息を吐く。


「ちょ、あそこにいるの小次郎さんじゃない!? しかも何か座り込んでる!」


「ほ、ほんまや。小次郎さーん!」


 と、声と共に足音が近づいてくる。どうやら女子が二人、やってきたようだ。そちらに振り返ってみれば、木乃香殿と神楽坂殿が走っている姿が見えた。


「だ、大丈夫ですか小次ろ―――って、うわぁ! ほほ、本屋ちゃん!? しっかりして!」


「小次郎さん、何かあったん!?」


 神楽坂殿は最初私へ声をかけようとしたが、倒れている宮崎殿を見るなりそちらへ駆け寄った。反対に木乃香殿は私の方へと一直線にやってきて、私の身を案じてくれた。


「……桜通りの吸血鬼を捕らえようと張っていたのだが、逃してしまってな。今は、偶然やってきたネギが犯人を追いかけているはずだ」


「は? ネギの奴、犯人を追いかけたの!? あんのバカァ!」


 私の言葉を聴いた途端、神楽坂殿は立ち上がり、このか本屋ちゃんよろしく、と一言言い残すと、先ほどのネギと同じように駆け出した。


 止める間もなく走り去った神楽坂殿の背中を見送った後、尻の辺りについた汚れを叩きながら立ち上がる。木乃香殿が、大丈夫? と心配そうに尋ねてきたが、問題ないと答えて、潜んでいた場所に置いていた鞘を拾い上げて青江を納めた。


「さぁ、木乃香殿。宮崎殿を寮まで送るとしよう」


 安心させるようにそう呟くと、静かに宮崎殿を抱え上げた。木乃香殿は一瞬、宮崎殿を見つめていたがそれも束の間、私を先導するように歩き出した。


 腕に感じる、宮崎殿の重さと体温。それでようやく、私は現状に対して考えを巡らせることができるようになった。


 ―――生徒を襲う、桜通りの吸血鬼。その所業を許せぬと、怒りすら覚えたその正体はこともあろうに、この世界に蘇ってより初めて言葉を交わした友人……エヴァ。


「…………其方は一体、何をしておるのだ……エヴァ」


 少しだけ立ち止まり、エヴァとネギが走り去った方向へ顔を向けながら口にした、混乱と憤りの混じった言葉。


 それでようやく、私はエヴァのことを、何も知らないのだと思い知った。










 逃走を図った吸血鬼を追いかけてより、数分。ネギは、自分の前を走る黒い背中をようやく捉えていた。


 魔法を使用して走る速度を高めている自分が、追いつくまで一分以上かかってしまった事実から、ネギはうすうす感じていた予感を確信へと切り替えた。


『やっぱり、犯人は僕と同じ、魔法使い……!』


 その予感は今朝、保健室で眠っていた佐々木 まき絵を見たときから、ネギの頭の頭の中で燻っていた。


 ネギ以外の生徒や先生―――正確には魔法に精通していない者たち―――は、まき絵が桜通りで発見された事に何の疑念も抱いていなかったが、ネギはまき絵の体から、微かな魔力の残り香を嗅ぎ取っていた。


 魔法は世のため人のためにある。この言葉を心の底から信じているネギは、犯人が魔法使いかもしれないという事実に強く憤った。


『絶対に捕まえてやる……!』


 その気持ちへ応えるようにネギを取り巻く風が猛り、踏み出す一歩をさらに力強いものへと変え、黒い背中との距離を縮めさせた。


「待てーっ!」


「む……早い。そういえば、坊やは風が得意だったな」


 ネギが律儀に発した言葉を聞き、エヴァンジェリンが追っての接近を知る。事前に集めた情報を思い出し、このままでは追いつかれると判断したエヴァンジェリンは歩道橋の手すりを飛び越えて、そのまま闇夜に飛び立った。箒も杖も使わずに空を飛んだ事にネギは驚きを覚えるが、すぐに己も愛用の杖に跨りエヴァンジェリンを追う。


 エヴァンジェリンは横目に後ろを伺い、ネギがついてきている事を確認すると急にクルリと身を反転させ、ネギを出迎えるために静止した。唐突に止まった事を訝しみながらも、ネギは慎重にエヴァンジェリンと対峙し、その顔を見る。


「え……? あ、あなたは、エヴァンジェリンさん……!?」


「フフ……こんばんは、ネギ先生。夜に生徒と空の散歩とは、何とも洒落ている状況だな」


 吸血鬼―――即ち犯人である魔法使いの正体が、己の生徒であった事実に驚きを隠せないネギとは違い、エヴァは余裕気な笑みを浮かべてネギの狼狽を楽しんでいる。そしてネギが二の句を口にする前に、懐に手を差し入れて言葉を発した。


「新学期に入った事だし、改めて歓迎のご挨拶と行こうか、ネギ先生―――いや、ネギ・スプリングフィールド!」


 名前を叫ぶと同時に、居合い抜きの如き速度で懐から手を抜くエヴァンジェリン。その両手には一つずつ入れ物が握られており、右手の物は小さめのフラスコのような形で、左手の物は細長い試験管のような形をしていた。


氷結・武装解除(フリーゲランス・エクサルマティオー)!」


 それぞれ透明色と赤色の液体を収めているそれらを、呪文の解放と共に腕が伸びきる寸前、ネギに向けて投げつけた。互いがぶつかり合い、砕け散り、中身が宙で混ざり合った瞬間、エヴァンジェリンの魔法がネギを襲った。


「うわぁ!?」


 唐突な魔法による攻撃。ネギは咄嗟に片手を前に突き出し、エヴァンジェリンの魔法を抵抗(レジスト)するも腕辺りまでの服は凍って砕け散り、加えていきなりの行動に対処しきれず、バランスを大きく崩して慌てて杖にしがみついた。


「レジストしたか、やはりな…………だがこの程度でその様では、とても『奴』の息子は名乗れんぞ?」


 ネギが杖にしがみついている間に上昇したのだろう、文字通りネギを見下ろす位置に移動したエヴァンジェリンは、ネギの興味を自分に向ける最初の寄せ餌を撒いた。案の定ネギはそれに引き寄せられ、やや呆然とした瞳でエヴァンジェリンを見上げた。


「『奴』の、息子…………まさか、エヴァンジェリンさん、僕の父さんの事―――」


「フフフ……先生、奴の事を知りたいんだろ? 奴の話を聞きたいんだろ? 私を捕まえられたら、教えてやるよ」


 本命の一言を告げて、エヴァンジェリンが再び身を翻して飛翔を始める。急な話の展開に反応が遅れたネギは、慌ててエヴァンジェリンの後を追いかける。


 これでいい……これで坊やの視界は狭まり、私しか見なくなる―――エヴァンジェリンは心中でそう呟くと、勝利の地へ向かって飛ぶ速度を上げた。


 元より実戦経験に乏しいネギでは、これが策であると気づく事は難しいだろうし、何より今はエヴァンジェリンが言う『奴』―――恐らく、己が追いかけ続けている父、サウザンドマスター・ナギの情報を持っているという事のせいで、なおさらその視界は狭まっている。故に、この一連が策であると気づく事はなく、エヴァンジェリンと父への手がかりを見失わないために、ネギは死地へと杖を加速させた。


「ラス・テル・マ・スキル・マギステル―――風精召喚(エウオカーテイオ・ウアルキユリアールム)! 剣を執る戦友(コントウベルナーリア・グラディアーリア)!」


 ネギが魔法を発動させる。途端、ネギの周りに『ネギ』を模ったモノが八体出現した。姿形は皆一様に同じで、唯一オリジナルとの違いがあるとすれば、それは全身が白色に統一されているのと、それぞれが何かしらの得物を所持している事だけだった。


「分身―――いや、精霊召喚(サモン・エレメント)か」


 詠唱を聞き、エヴァンジェリンは顔だけで後ろを見る事で、その分身じみた術の正体を看破した。


 その名の通り、世にいる精霊を呼び出し使役する事で己の力とする、精霊召喚の魔法。ネギが唱えたそれは、風の中位精霊を呼び出すためのもので、難度的にはそこまで難しいものではない。


 だが、決して十歳の見習い魔法使いが扱えるような魔法でもなく、また八体を同時に使役するなど甚だ不可能である事も確か。それを可能にするネギの才能と貯蔵魔力の量に、エヴァンジェリンは密かに舌を巻いた。


捕まえて(アゲ・カピアント)!」


 唯一実体を持つネギが指揮官となり、八体の風精に号令を下す。その指先がエヴァンジェリンを指した瞬間、風精は一斉に飛び立ち、敵の包囲を開始した。


 瞬く間にエヴァンジェリンとの距離を詰めた風精達は、執拗にその得物をエヴァンジェリンに向けて振るい続ける。恐らくその得物が当たった対象を、風で捕縛するのだろう。エヴァンジェリンはそれらを振り切ろうと上昇と下降を繰り返すが、風精達は速度で勝っているらしくすぐに追いすがってきた。


 振り切るのは不可能と判断し、迎撃するために外套の中から先ほどと同じフラスコを幾つか取り出したエヴァンジェリンは、風精達にそれらを投げつけ魔法を使い撃ち落していく。その攻防を、付かず離れずの距離を保ちつつ凝視していたネギは、一つの疑念を抱いていた。


 その根本は、先ほどからエヴァンジェリンが取り出し、投げているフラスコや試験管にあった。これらの中に入っている液体は魔法薬と呼ばれ、魔法を発動させる際の触媒として広く使われている。また、それ自体も魔力を多く含んでいるため、魔法の威力を底上げしたり、術者の力量以上の魔法の発動すら可能にするといった優秀な代物である。


 だが、それはあくまで駆け出しの初心者などに限った話だ。魔法役を触媒にするという事は、ただでさえ長い魔法の工程にさらに一工程加えるという事になる。一度に持ち歩ける数も限られている上、強くなれば強くなるほど魔法の威力は自然と上がるので、魔法薬を使う意義は段々と薄れていく。


 ネギはエヴァンジェリンの事を凄腕の魔法使いだろうと踏んでいた。外見に似合わない貫禄と余裕はそれだけで歴戦の魔法使いである事を表し、本来空を飛ぶために必要な杖や箒を使用せず空を飛んでいる者が、並大抵の魔法使いであろうはずもない、という読みからだ。


 故に、それだけの魔法使いが魔法薬を使わなければ魔法を唱えられず、またあまりにも低いその威力に、ネギは疑念を抱き、ある一つの仮定を導き出した。


 理由は分からないが、この魔法使いは極端に魔力が低いのではないか―――と。


 己が仮定を確かめるべく、ネギは三体となった風精の内の一体をエヴァンジェリンに突撃させた。案の定エヴァンジェリンは魔法薬を取り出し、風精を迎撃した。


『間違いない…………この人は魔力が極端に低い。勝てる!』


 勝機を見つけたネギは、残りの風精達をエヴァンジェリンに向かわせると、それを目くらましにしつつ急加速する。エヴァンジェリンがその二体を撃破すると同時に間合いを詰めたネギは、勝利に向けて手を伸ばした。


「追いつめた、これで終わりです! 風花・武装解除(フランス・エクサルマティオー)!」


 ネギの呪文に従い開放される風。武装解除の名を冠したその風は、エヴァンジェリンの外套を吹き飛ばし、その白い肌を夜空に晒す。杖や箒の役割りを黒い外套が果たしていたのだろう、それを失ったエヴァンジェリンはそのまま落下していき、眼下の屋根の上に着地した。


「やるじゃないか、先生」


 ほとんど下着だけとなった自分の体を隠そうともせず、三メートルほどの距離を隔てた先に降り立ったネギに向けて、エヴァンジェリンは予想外の過程でここに降り立たせた事への賛辞を向けた。英国紳士を自称するネギは片目を隠して、そのあられもない姿を極力見ないよう努めつつ、己が勝利を確信して口を開く。


「こ、これで僕の勝ちですね……。約束どおり教えてもらいますよ。何でこんな事をしたのか―――それに、お父さんの事も……」


 先生として生徒の肌を見るのが躊躇われたのか、そもそも十歳の少年にはほとんど同い年にしか見えないエヴァンジェリンの肌も刺激が強いのか、顔を赤らめながら発せられた言葉はややどもっていた。


 エヴァンジェリンはその狼狽すらも楽しみつつ、追い詰められたはずの状況においてうっすらと笑みを浮かべて見せた。


「お前の親父…………即ち、サウザンドマスターの事か……?」


「―――っ! と、とにかく、もう決着はつきました! 魔力もマントもない今、あなたに勝ち目はありません! 大人しく降参してください!」


 半ば確信していた事ではあったが、はっきりと口に出された事で、ネギは思わず目を見開いてエヴァンジェリンを凝視した。探しても探しても見つからなかった、自分の憧れである父。その手がかりが目の前にあると思うと、今にも飛び出してしまいそうになるが、それを抑えてネギはあくまで自主的な降伏を要求する。


 ……既に―――否、最初から、己が敗北しているとも知らないで。


「フフ―――これで、勝ったつもりか?」


 その言葉と同時に、エヴァンジェリンの背後にそびえる屋根からトッ、と足音のような音が聞こえた。ネギはその音に気づいたが、それが何なのかを理解する間もなく、己が絶対的敗因が降り立つのを見届けた。


 ズンッ、と何か金属でも落ちたような重い音が響く。落ちてきたモノは形こそ人であるが、そうならば響いた音の理由がつかない。何よりそのモノが降りた辺りの屋根が砕けているという事実が、これがただの人間でない事を物語っていた。


「さぁ、お前の得意な呪文を唱えてみるがいい」


 先ほどとは違い、はっきりと勝利の笑みを浮かべながらエヴァンジェリンがそう告げる。落ちてきたモノは新手だと、ようやく思考がそこに思い至ったネギはすぐさま二人を捕らえるための魔法を紡ぎだす。


「ラス・テル・マ・スキル・マギステル―――風の精霊11人(ウンデキム・スピリトウス・アエリアーレス)! 縛鎖となりて(ウィンクルム・ファクティ)敵を捕まえろ(イニミクム・カプテント)!」


 ネギが唱えるは風の魔法の射手(サギタ・マギカ)。全ての魔法使いが最初に覚える初歩の術であるが、その汎用性の高さと『捕縛』に特化した能力から、熟練の魔法使いでも使うことがある魔法だ。特にネギは風の魔法を得意としている。この魔法が放たれれば、間違いなく目の前の二人を捕らえることが出来るという自信がネギにはあった。


「フッ―――」


 それでもエヴァンジェリンは勝利の笑みを崩さず、むしろ更に口の端を吊り上げた。


 エヴァンジェリンの背後でモノが動く。恐ろしいほど速い寄り身でネギとの間合いを詰めたそれは、左手をネギの頭に向けて差し出し、溜めてあった指を弾き出した。


「サギ―――あたっ!」


 魔法が完成する直前、額から軽い音が響き、同時にネギは鋭い痛みを感じた。それで集中力が切れたのか、魔法を放つべく突き出していた左手から、ポヒュウと気の抜けるような音が、魔法の射手(サギタ・マギカ)の代わりに放たれた。


 親指に引っ掛けた中指を溜めて放つ一撃―――俗に言うデコピンが、その結果を生み出したのだった。


「あたた……? え、あれっ!? き、君はうちのクラスの―――!」


 突然の痛みに額を押さえるが、自分の魔法を妨害したモノがデコピンを放って一歩下がり、距離が近くなった事ではっきりとその姿が見えた途端、ネギは今日二度目になる驚きの声を上げた。


 鮮やかな薄い緑色の髪が腰の辺りまで流れている。胸部にある膨らみと柔らかい顔立ちは、その者が女性である事を表していた。耳には特徴的な飾り物をあしらっており、制服から覗く素肌からは、人の肌とは違うどこか機械的な印象が放たれていた。


「紹介しよう。私のパートナー、3−A出席番号十番―――“魔法使いの従者(ミニステル・マギ)”絡繰 茶々丸だ」


「え、な―――えぇーーー!? ちゃ、茶々丸さんが、あなたのパートナー!?」


 エヴァンジェリンの口から語られた事実に、ネギは強い衝撃を受けたのを自覚した。『桜通りの吸血鬼』の正体が自分のクラスの者で、加えてその従者がまたもや自分のクラスの一人だとあっては、それも仕方ないかもしれないが。


「そうだ。従者のいないお前では、もう私に勝てんぞ」


「な―――パ、パートナーくらいいなくたって……!」


 エヴァンジェリンの言葉を否定しようと、ネギが再び詠唱を開始する。だが途端、茶々丸はもう一度ネギに近づくと、今度は両頬を引っ張る事で魔法の完成を妨げた。


 直接的な妨害こそするものの、攻撃はしてこない茶々丸を不審に思ったのか、抓まれた頬を摩りながらネギは茶々丸を見上げた。茶々丸もまた、何をするでもなくネギに視線を返している。しかしネギが三度詠唱を口にし始めた瞬間、茶々丸は左手の指先で額を小突いてネギの言葉を詰まらせた。


「クク……驚いたか? 元々『魔法使いの従者』とは戦いのための道具だ。我々魔法使いは呪文詠唱中、完全に無防備となり、当然攻撃を受ければ呪文は完成出来ない。そこを盾となり剣となって守護するのが、従者(ミニステル)の本来の使命だ。今では恋人探しの口実となってしまっているのだが……それはまぁいい。


 つまり―――パートナーのいないお前では、我々二人には勝てないという事さ」


 両腕を組みながらエヴァンジェリンが告げた言葉は、単純であるが故にネギを絶望させるに十分な内容だった。


 魔法は詠唱を唱えられなければ成功しない。勿論『無詠唱呪文』という、詠唱を破棄できる技法も世には存在するが、ネギはまだそれを身につけてはいない。そんな状態で従者がいないまま戦うというのは、丸裸で戦場に赴くようなものだ。その結末など容易に想像できるだろう。


 ネギは唐突に、エヴァンジェリンの存在が怖くなった。『勝てる』という意識と優位な状況が鈍らせていた恐怖が、『勝てない』という現実を受けて肥大化したのだ。


「茶々丸」


「はい。―――申し訳ありません、ネギ先生」


 主の命を受けた茶々丸が、一言訳の分からない謝罪をするとネギの視界から消え失せた。その謝罪の理由を、ネギはすぐに知る事になる。


 うぐっ、と自分の意思に反してネギの喉から呻きが漏れた。茶々丸がネギの喉を掴み上げたのだ。とても女性の腕力とは思えない。そのまま片腕で羽交い絞めの格好にすると、茶々丸はネギの上着を放り投げた。仕込まれているかもしれない何かを使わせないための行動だろう。


 エヴァンジェリンは、ネギの戦力が完全に無効化されたのを眺めた後、ゆっくりと足を踏み出した。


「フフフ―――ようやくこの日が来た。お前がこの学園に来てからと言うもの、今日という日を幾度待ちわびた事か……。危険を冒してまで血を集め、貴様に対抗出来るだけの力をつけた甲斐があった。これで、奴にかけられた私の呪いも解ける……」


 逸る心を抑えるよう細く息を吐き出しながら、エヴァンジェリンはネギの正面に回り、積年の願いを成就させたような面持ちで言葉を発した。ネギは必死に茶々丸の拘束と解こうともがくが、エヴァンジェリンの話の中に気になる言葉を見つけたのか、オウム返しのように口を開く。


「の、のろい、ですか……?」


「―――そうだ。真祖にして最強の魔法使い……闇の世界でも恐れられた、この私が舐めた苦汁……」


 その『呪い』がよほど屈辱なのだろう。僅かに目を伏せ、腕をワナワナと震わせながら一旦言葉を区切ると、弾けたようにネギの胸倉を掴み上げ、その向こうに見える忌々しい影にぶつけるように、エヴァンジェリンは吼えた。


「私はお前の父、即ちサウザンドマスターに敗れて以来魔力も極限まで封じられ、もう十五年間もあの教室で日本の能天気な女子中学生と一緒にお勉強させられているんだよ!」


 積もり積もった恨みを吐き出すように、エヴァンジェリンは一気にまくし立てる。理不尽とも呼べる憤りをぶつけられたネギは、ただ困惑する他なかった。


「この馬鹿げた呪いを解くには、奴の血縁たるお前の血が大量に必要なんだ……悪いが、死ぬまで吸わせてもらうぞ―――」


「ひっ―――う、うわぁぁぁぁん! 誰か助けてーー!」


 突如告げられた死の宣告と、それを行うであろう異様に尖った犬歯を見て、ネギの恐怖は最高潮に達する。何としてでも逃れようとなりふり構わず暴れるが、茶々丸の外見に似合わない力に取り押さえられて、なおさら己が恐怖の火を煽る結果に終わってしまった。


 プツリ、という音と共に、首から焼けるような痛みが走る。それがエヴァンジェリン―――吸血鬼に噛み付かれたものだと理解した時、ネギの思考が真っ白に飛んだ。少しずつ血液が吸いだされていく感覚は余りにおぞましく、それと一緒に体温まで奪われていく錯覚は、この世のものとは思えなかった。


 死ぬ―――その一つだけを認識できた時、ネギは最後の力を振り絞り、死にたくないと胸中で叫んだ。


「―――ぷぁ……はぁ、はぁ……ん?」


 息が続かなくなり、一度吸血を止めて口を離したエヴァンジェリンは、ふと気配を感じて後ろを振り返った。


 ―――油断といえば、これが油断だったのだろう。十五年に渡る束縛からの解放を目の前にして、周りへの注意を疎かにした事をそう言うのならば。これが平時の彼女であれば、隠そうともしない気配と足音にすぐさま気づいたはずだった。


「コラーーーーッ、この変質者どもーーー! ウチの居候に何すんのよーーーー!」


 颯爽と現れた乱入者は目標を補足すると、ここが屋根の上である事も意に介さず飛び上がり、見事な飛び回し蹴りをエヴァンジェリンと茶々丸に喰らわせた。その唐突さと余りの威力に、エヴァンジェリンは元より茶々丸までもが吹き飛ばされ、盛大に屋根を滑っていった。


「な、何だこの力は―――き、貴様は神楽坂 明日菜!?」


 自分が蹴られた事が信じられないエヴァンジェリンは、少しの間頬を押さえて放心したが、一人だけ見事な着地を決めた乱入者に気づくと、その名を叫んだ。


「あ、あれ? あんた達、ウチのクラスの……ちょ、どういう事よ!?」


 乱入者―――神楽坂 明日菜は、ネギを襲っていた人物たちの顔が余りに見知っている者だったので面を喰らってしまい、何故か一礼している茶々丸と頬を押さえているエヴァンジェリンの間で、何度も視線が左右した。


「ま―――まさか、あんた達が今回の事件の犯人なの!? しかも二人がかりで子供をイジめるような真似して……―――答えによってはタダじゃ済まないわよ!」


 ようやく思考がそこに戻ったのか、明日菜が威勢のいい啖呵を二人に向かって切る。視線も腰も物怖じしておらず、いざ戦いになってもすぐさま対応できるほどの気構えが、その立ち姿から窺えた。


「ぐっ…………よくも私を足蹴にしてくれたな、神楽坂 明日菜。お、覚えておけよ……!」


 恨めしい視線を明日菜に向けながら、エヴァンジェリンは三流の悪党のような捨て台詞を残し、茶々丸と共に屋根から飛び降りた。明日菜は慌ててその後を追って縁から下を覗き込んでみるが、肝を冷やすほど小さい地上が見えるだけで、二人の姿はどこにも見当たらなかった。


「うっ、うっ……」


「―――ネ、ネギ! もー、あんたってば一人で犯人捕まえようなんてカッコつけて! 取り返しのつかない事になってたらどーすんのよバカァ!」


 ネギのすすり泣く声を聞いて、明日菜は慌ててネギに駆け寄る。言葉こそ怒りが篭っているように感じられるが、その表情からはありありと心配の念が見て取れた。そもそもネギが心配でなければ、こんなところまでネギを追いかけても来ないだろう。


「あ、あれ……ちょっと、首から血が出てるじゃない。大丈夫なの、ネギ―――ん?」


 自分の言葉に反応せず、ただしゃくり声を上げるだけのネギを不安に思い、どこかに怪我でもしているのかとネギの体を見ていた明日菜は、首から血が流れている事に気づき、その事を聞き出そうとネギの顔を見て、自分の目を丸くした。


「ひぐっ、あうぅ―――うぁぁぁぁぁん! あ、アスナさーーーん! こ、ここ、こわ、怖かったですーーーー!」


 必死に堪えていたのだろう。目の端に限界まで涙を溜めていたネギは、アスナにしがみ付き、胸に顔を埋めてとうとう泣き出してしまう。だが、何の経験もない十歳の子供が命を狙われたのだから、それはむしろ良く耐えたと褒められて然るべき涙だった。


 唐突に泣き出したネギに抱き付かれた明日菜は、少し文句を言いながらも、ネギが落ち着くまで、実の姉のようにあやし続けた。










 坊やが神楽坂 明日菜に抱きつき、ここまで聞こえるほど大きな泣き声を上げ始める。情けないとも思ったが、十歳のガキなど所詮こんなものだろうと思い直し、坊やの頭を撫でている神楽坂 明日菜を見下ろしながら、忌々しく痛む頬を押さえた。


「……ふん、まぁいい。思わぬ邪魔が入ったが、坊やがまだパートナーを見つけていない今がチャンスである事に変わりはない。今日はもう引くぞ、茶々丸」


「はい、マスター」


 私の言葉を受けて、バーニアという物で宙に浮いていた茶々丸はその出力を上げると、腕に座っている私を気遣いながら我が家に向かって飛び始めた。最初はこの駆動音や噴出される炎の音が煩かったが、慣れとは恐ろしいもので今ではこれを騒音とは思わなくなった。単純に、耳が麻痺しただけなのかもしれない。


「マスター、申し訳ありませんでした。私がもう少し早く、神楽坂さんの接近に気づいていれば」


「いい、気にするな。私だって、坊やの血を吸う事に夢中で気づかなかったんだ。勝って兜の緒を締めよ―――とは言ったものだな」


 どこの誰かは知らないが、文字通り身に染みた教訓だったよと、私はこの言葉を生み出した者へ少しばかりの賞賛を送った。


 それからは暫し、家につくまでの間無言となった。帰る途中桜通り近くの上空を通ったのだが、当然のように小次郎の姿はそこになかった。


 十五年の時を共にした麻帆良の我が家が見えてくる。玄関前に降り立ったところで、ご苦労、と従者に労いの言葉をかけ、こいつに伝えなければならない事を今、伝える事に決めた。


 月の見える、この場所で。


「ところで茶々丸。私には一つ懸念していた事があったのだが、とうとう今日出会ってしまったよ」


「……? 神楽坂さん以外で、ですか?」


「あぁ。もっとも、ある程度は予測していたのだがな……」


 どこか自嘲めいた風に呟いた私は、少し大仰に肩を竦めて見せた。私と言う人格を理解している茶々丸は、それだけで私が言いたい事を察したのだろう、無表情に近い顔が珍しく驚きの色で染まった。


「どうやら分かったようだな。―――桜通りで、小次郎と会った」


「―――そう、ですか……。それで、その時に、一体何が……」


「何という事はない……いや、見方によってはあるか。奴め、私を捕らえられる距離にいながら、刀を振るう事が出来なかったのだ。生徒を助けるために私を捕らえる事を躊躇ったのだろうな……甘い事だ」


 桜通りで起きた事を、できるだけ細かく茶々丸に語ってやり、鼻で笑ってその締めをなす。


 出会った日からまめまめしく小次郎に尽くしているこいつには、小次郎の事を包み隠さず話すべきだと思った。たとえ小次郎が敵になっても、それを受け入れる覚悟を持たせるために。


「…………小次郎さんの事は分かりました。では、マスターは、小次郎さんをどうなされるのですか?」


「―――む」


 言われて、そこまで考えが及んでいなかった事に気づく。何故、と自分に疑問を持ったが、その答えは既に意味をなさないだろうと、率直な意見を答えた。


「さてなぁ……奴次第、としか言いようがない。私は呪いを解くまで坊やを襲い続けるし、そのための魔力もいつも通り集める。そして小次郎は、そんな私の行為を許しはしないだろう。
 全く、難儀なものだよ―――そう思わんか、茶々丸?」


 月を見上げながら、茶々丸にそう問いかけた。私は今、自分でもどういう顔か分かる程の苦笑いを浮かべているはずだ。なぜならこの胸の感覚は、過去六百年、もう何度も味わってきたものなのだから。


「さぁ……お前はどっちだ、小次郎。私の味方か、学園の味方か、それとも―――」


 独り言のように呟いた言葉。満月に向けたそれが、月を目指す男に届いたかどうかは、恐らく明日、分かる事だろう……








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