「―――ん、む」


 閉じられた瞼の上に、窓から差し込んだ日の光が当たる。鮮烈なその刺激は、閉じた瞼の上からでも十分なもので、私は自然と目を覚ましていった。


「朝か……少し、寝足りぬな」


 時計を見て、茶々丸から教わった現代の時刻を確認する。六時―――卯二つ時といったところか。昨夜床についたのが一時前であるから、五時間の睡眠をとったことになる。まだ幾分眠気が残っておるが、これしき水を被れば冴えるであろう。


 二度寝の誘惑ごと掛け蒲団を腕で振り払い、寝巻きにと茶々丸が購入してくれた甚平を脱ぎ捨てる。先日から春休みという長期休暇に入ったらしく、今日は部活も休みなので眠っても構わないのだが、規則正しい生活は健康の基本だ。疎かにする訳にも行くまい。


 下帯一枚となり、縁側より草履を履いて中庭に下り、井戸から桶で水を汲み上げ、頭から被った。


 飛び散った飛沫と滴り落ちた水滴が地に吸い込まれ、辺りに斑模様が生まれていく。それを二、三度繰り返した頃には、眠気は綺麗に無くなっていた。


 水を一口飲んでから、予め用意しておいた大き目の手拭いで全身を拭いていく。身体に付着した水気はすぐに無くなったが、髪の毛が吸収した水分はそうはいかぬ。加えて私は長髪だ、水の含み具合は推して知るべし。結局、二枚の大型手拭いを使い切ってそれを終わらせた。生乾きではあるが、後は風が乾かしてくるであろう。


「さて、先ずは朝餉か」


 呟きつつ、手拭いを干してから家に上がり、一張羅である着物と袴を身に付けて台所へ足を運ぶ。


 陣羽織に袖は通さぬ。あれは私にとって正装のような物、家の中でまで着る必要はない。


 台所に着くと、真っ先に米櫃へと向かった。大よそ一合の米を取り出し、茶々丸から教わった通りに研いでから釜に入れ、水を適量加えて火にかけた。これで後は、炊けるのを待つのみ。


 次いで現代の食材貯蔵庫である冷蔵庫の取っ手を引き、流れ出す冷気を浴びながら中にある物を物色する。


「…………ふむ。これとこれ―――だけで良いか。折角茶々丸の作ってくれた物だ、早々に無くしては惜しい」


 山と野良で育った私は、魚や動物の肉を直火で焼く以外に調理法を知らぬ。それを以前の宴会の時に茶々丸に話したところ、


 ―――では、冷えたままでも食べられる物を多く作っておきますので、それを召し上がってください


 と申してくれ、多彩な料理をこの冷蔵庫に詰めてくれた。まこと、茶々丸には頭が上がらぬ。これ以上世話にならぬよう、誰ぞから料理を教わらねばなるまいか。


 今日の朝食は茄子を色の付いただし汁につけた物―――確か、茄子の揚げ浸しと言ったか―――と冷奴。私にとっては馳走以外の何物でもない。


「―――っと。確か、途中で火力を調整するのであったな」


 幾らか時間が過ぎたところで、茶々丸に教わった白米の炊き方を思い出した。それをしっかりと頭の中で確認しつつ実践して行き、何とか無事に白米を炊き終える。茄子の揚げ浸しと冷奴を適当な皿に盛り付け、朝食の準備は完了した。


 盆に載せ居間の机に運び、手を合わせてから食べ始める。


「ん、美味い」


 茄子を一口食べ、その味に舌鼓を打つ。茶々丸特製は伊達ではない。冷奴もまた何とも言えぬ味わいだ。二つしかないおかずを食べ終える頃には、白米を二杯平らげていた。地底図書室でも感じたが、全く持って良い時代になったものよ。


「ご馳走様」


 再び手を合わせて、食器を台所に運び水に浸ける。戸棚から急須と茶葉を取り出し、見よう見まねで食後の茶を淹れてみた。一口啜り味を確かめるが、やはり茶々丸のそれには敵わない。


 湯飲みを持って居間に戻り、一息ついて現在の時間を確認した。


 ……七時、か。何時もなら修業を始める時間だが、今日は八時から客が来る。今から始めては中途半端になってしまうだろう。


 まぁ、来てからもするのだが。むしろそちらが本番か。


「言葉の勉強でもするか」


 正直、あれは飽きぬ。一文字書く度に、己が言葉を理解して書き連ねている、という実感が得られてついつい頬がにやけてしまう。


 湯飲みを空にしてからいそいそと席を立ち、自室に戻って先日購入した紙と鉛筆を取り出して、据え置かれていた机に向かう。


「―――いざ」


 目を閉じて深呼吸を一つ。青江を握る心積もりで鉛筆を手にする。


 目を見開き、燕返しを放つが如く鉛筆を紙に走らせた。


「…………まだまだか」


 紙の上には、蚯蚓がのたうっていた。


 むぅ……あ行があ行に見えぬ。手本にと木乃香殿から頂いた『ひらがな四十六文字一覧表・木乃香殿作』に比ぶれば天と地、月とすっぽんの差だ。


「やはり丁寧に書くか。日進月歩、ゆるりと行こう」


 けしごむをかけて蚯蚓を抹消し、改めて鉛筆を手にする。何一つ気負わずゆっくりと、体に染みこませるように何度もひらがなを書いていった。


 わ行までを書き終えて、一文字一文字を口にして確認した後、さぁやり直しだとあ行を再び書き始めようとした時、ふと鉛筆を握っている右手を見た。


 青江だけを握ってきた右手。そこに全く正反対である文明の利器が握られていることが、少しおかしかった。


「これも、奇縁、と言うのであろうな」


 自嘲めいた笑みを浮かべて独り言ち、鉛筆でひらがなを書き連ねていく。幾度も四十六を往復させて、次々と紙を重ねていく。枚数が五枚に達したところで、一休憩入れることにした。


 伸びをして筋肉を解し、右手を閉じて開く作業を三度繰り返して指の痛みを取る。居間に戻って水を飲み気分を入れ替えたところで、再び紙にひらがなを書いていく。


 木乃香殿が私に課した一日の規定量のるまは紙二十枚分、しかも表裏両面を真っ黒に埋め尽くした物を一枚と数えてだ。短期間で人並みに書けるようになりたいと願ったのは私だが、想像を超えた鬼指導すぱるたに、後悔は無くとも早まった感は否めなかった。


「ごめんください」


 更に紙を三枚重ね、指が再び痛くなりだしてきた頃に、玄関から声が聞こえた。時計を見てみれば正に八時。どうやら、来たようだ。


 下ろしていた髪の毛を何時もの形に結い上げながら腰を上げ、客人を迎えるために玄関に向かう。草鞋を突っかけ履いて、戸を開いた。


「おはようございます、小次郎さん」


「おはよう刹那。時間丁度とは其方らしいな」


 出迎えの挨拶に、偶然です、と竹刀袋に包まれた夕凪を背にかけた刹那が答えた。休日だというのに何故か制服だったが、無粋な追求になると思い気にするのはやめた。


 剣の練習相手を受けて立つ。私の理想を話したあの日交わした約束に従い、稽古相手になって欲しいと刹那が願い出てきたのが先日のことだ。自分から言い出したことなので、二つ返事でその申し出を了承し、日付と時間と場所を私から指定して今日の運びと相成った訳だ。


 玄関で立ち話も何なので、刹那を中へと招き入れる。お邪魔します、と丁寧に一礼してから敷居を跨いで刹那が靴を脱ぎ、私の後に続いて板張りの上を歩いてくる。


「今茶を淹れてくる。それまで寛いでいてくれ」


「いえ、そんな……お構いなく」


「そういう訳にも行くまい。私はこの家の主で、刹那は客だ。持て成すのは道理よ」


 味は保障できぬがな、と笑いながら言って台所へ入っていった。刹那も茶を淹れだした私を見て諦めたのか、座布団の上に腰を下ろしたようだ。今朝よりも気を配って工程を進めて行き、茶請けと一緒に盆へ乗せて居間に戻った。


「待たせた。それと刹那、済まんが稽古はあと数分待ってくれぬか? 先程までやっていたことにもう少しで区切りがつくのだ」


 刹那の前に湯飲みと茶請け―――桜餅が乗った皿を置きながらそう告げる。


「わざわざありがとうございます。はい、私は構いません。このお茶を頂きながら待たせていただきます」


「忝い。では少し私室に戻らせてもらう。もし何かあれば、そこを右に出て角を曲がった先の部屋に来てくれ。そこが私の部屋だ」


「分かりました。こちらはお気になさらず」


「うむ。刹那もゆるりとな」


 片手を上げながら居間を去り、窓から挿す日の光を浴びながら私室に辿り着いた。先程まで座っていた場所に腰を下ろし、再び鉛筆を走らせて二枚を書ききり、のるまの半分である十枚を重ねた。


「良し、これで後は夕食の後にでも済ませるとしよう―――む、そうだ」


 居間に戻ろうとした時、ふと閃いた。考えてみれば私の文字を見た事があるのは木乃香殿だけだ。ここらで第三者の意見を聞くというのも、今後のためになるかも知れぬ。


 最後に新しい紙へ四十六文字を一回だけ丁寧に書き上げ、それから足早に刹那を待たせている居間に戻った。


「待たせた刹那」


「あ、終わったのですか?」


 ぴしっと正座をしていた刹那が、私を出迎えてくれた。何とも刹那らしいのだが、寛いでいいと申したのに律儀な事だ。崩して良いぞ、と告げながら対面に腰を下ろした。


「稽古を始める前に見てもらいたい物があるのだが、良いか?」


「? はぁ、構いませんが」


 刹那の了承の返事を聞いて、すぐに紙を机に置く。何ですかこれ、と言いながら刹那が紙を手に取った。


「…………もしかして、小次郎さんの文字ですか?」


「左様。で、だ。刹那から見て、その文字はどうだ?」


 勘良く答えてくれた刹那に、若干顔を乗り出しながら問う。恐らく刹那の事だ。嘘偽り無く、感じたままを評価してくれるだろう。期待に心を弾ませながら、その返答を待つ。


「―――」


「…………」


「―――」


「…………」


「―――えーと、その……」


 紙に視線を走らせた後、刹那が口篭った。何か良い言葉はないかと探しているようで、表情は曖昧になり視線も紙と私を行き来している。その仕草が刹那の感想を雄弁に語ってくれた。


「……下手か?」


「…………申し訳ないのですが、その通りです」


 自嘲を浮かべながら訊ねると、本当に申し訳なさそうにしながら刹那が改めて感想を口にした。正面切って『下手』という評価を下すのに心が痛んだのか、しゅん、と刹那が子犬の様にうな垂れてしまう。


「良い、気にするな。私が欲しかったのは正確な批評だ、下手なら下手で一向に構わぬよ」


「そう言っていただけるとありがたいです……」


 下手と言われた私が、下手と言った刹那を慰める。何とも面白い構図だった。


「それで、なぜいきなりこんな物を?」


「いや、最近文字を習い初めてな。先生を務めてくれている方以外に見せた事がないのを思い出し、刹那に評価をと思うたのだ」


「はぁ。というか小次郎さん、文字が書けなかったんですか?」


「如何にも。私の経緯は警備員の顔見せの時に学園長殿が説明してくれたろう。しがない百姓生まれの私には、学を習えるだけの暇や裕福さとは無縁だったのだ」


「ぁ―――」


 故に、今の状況は本当に夢のようだ、と心の中で付け加える。


 ちゃんとした職に付き、十分な給金を貰えている。美味い飯を食えて、豪奢な建物に住んでいる。これだけでも十分だというのに、果てには文字まで習えている。かつての私では考えられない、あらゆる意味で裕福な生活だ。


「…………その、申し訳ありません」


 嫌な過去を思い出させてしまったとでも思ったのだろう。刹那が再び申し訳なさそうになり、落ち込んだ表情で視線を落としながら謝ってきた。…………夜更かしのせいかはたまた白昼夢か、刹那の頭に垂れた犬の耳が見えた気がしたのは秘密だ。


「刹那が謝る事は無い。私も学園長殿も、文字が書けないと明言した記憶は無いしな。それにだからこそ、私は剣だけに生きられたのだ。あの頃の生活を恨んだり悔やんだ事は、今も昔も一度とて無いよ」


「何度もスイマセン……―――あ、えっと、誰から文字を習っているんですか? 小次郎さんなら、高畑先生でしょうか」


 ぱっと顔を上げながら、話題を変えようと刹那が私にそう聞いてくる。何気ない、会話の流れで誰でもしそうな当たり前の問いだ。


 だからだろう。私はそれに、何も考えず普通に―――他ならぬ刹那に、答えてしまった。


「木乃香殿だ」


「――――――ぇ?」


 私の答えを聞いて、刹那の表情が呆ける。しまったと思ったが時既に遅し。二人の関係を知っていながら、不用意にこの名を出してしまった自分を呪った。


「ぇっと、あの…………ど、どういったいきさつで、そうなったのですか……?」


 刹那が平静を装おうとしてしているが、無理をしているのは明白だ。隠し切れない動揺が言動の節々に現れている。私はその事にあえて目を瞑り、殊更平静を意識して答えを返す。


「先日行われた試験の三日前に、ネギと数名の生徒が行方不明になっただろう? 実は私もその中に、学園長殿の頼みで同行していたのだ。剣道部の方には学園長殿が何かしらの理由をつけておいた、と窺ったのだが」


「は、はい…………国重先生から『学園長先生の頼みで急遽出張に行ったらしい』―――と説明を受けました」


「なるほど。で、だな。その時に木乃香殿と話す機会があって、流れで文字が書けないという事を木乃香殿に話したのだ。すると木乃香殿が教えてくれると申し出てくれたのでな、渡りに舟と教授を頼んだのだ」


「そう、ですか…………おじょ―――近衛さんの言いそうな事ですね……」


 何故か途中で木乃香殿の呼び名を変えて、刹那はその一言を最後に口を閉ざした。はたから見てもそれは、自らを落ち着ける時間を手に入れる為の拒絶に他ならない。無理に話しかけても無駄だろうと判断し、居間に沈黙と言う暗幕を下ろして暫し思考に没頭する。


 木乃香殿が語ってくれた二人の過去。いつの間にか生まれたという溝は思っていたよりも深く、そして大きい様だ。改めて、迂闊に木乃香殿の名を口にしてしまった己を心の中で罵倒する。


『だが…………見方を変えれば、いい切欠ではあるか』


 そもそもいずれ刹那には木乃香殿の事をそれとなく聞かなければならない約束なのだ。ろくに考えもせず切り出してしまったのは反省するとして、言葉を選べばこの状況でも刹那の心中を幾らか聞き出す事は出きるやも知れぬ。素早く慎重に聞くべき項目を選出し、暗幕を引き上げた。


「刹那。無粋な問いであるのは重々承知だが―――木乃香殿と喧嘩でもしているのか?」


「え? あ、いえ、その様な事は…………」


「では…………木乃香殿を嫌っておるのか? 木乃香殿の名を聞いて、随分と動揺―――」


「そんな事はありませんっ!」


 バンッ、という音が私の言葉を止める。机を強く叩き立ち上がりながら、刹那が語気を荒げて断言した。表情には、心外な言葉を言われた事への怒りが見て取れる。机を叩いた衝撃で湯飲みがごとん、と音を立てて倒れてしまう。流石に予想外の反応を受けて、今度は私が目を見開いて言葉を失ってしまった。


「ぁ―――も、申し訳ありません…………」


「…………いや、今のは私が悪い。付き合いも長くないのに、踏み込みすぎたな…………許してくれ」


「そ、そんな。頭を下げる必要は有りません。近衛さんとは、その、少し折り合いが悪いだけですから、気にしないでください」


 取り繕うような笑みを浮かべて、頭を下げている私に先の弁明をする刹那。本当に済まなかったと最後にもう一度頭を下げた。


「―――」


「…………」


 再び、居間に沈黙が落ちてしまった。先程までと違う気まずい沈黙は、破るのが躊躇われるから厄介だ。間を取り持つために自分の分の茶を台所に淹れに行き、刹那の分を溜めた急須と共に居間へ戻る。お代わりを勧めると、いただきます、と静かに湯飲みを差し出してきた。


「…………時に、先日の宴会は楽しかったな」


「あ…………そう、ですね」


 一口茶を啜ってから、雰囲気を改善するために何気ない話題を切り出す。とつとつと刹那と会話を交わしながら、記憶を思い返した。


 春休みに入る前の最後の授業―――終了式という日に、生徒が一同に会して開かれた集会の場に私もいた。


 今日この日を持って正式契約を結ぶと同時に生徒全員へ顔見せを行いたい、とは学園長殿の言葉だ。『仮』のコーチという立場にいた私は、晴れて『正式』なコーチに昇格した。


 集会が終わった後に職員室という場所で国重殿やタカミチと語らっていると、くらすでの話が終わったのかネギが戻ってきた。何やら急いでいたようだが、私を見つけるとこちらに小走りで近づいてきて、


『僕のクラスが試験で一位を取った事を祝してパーティーを開くので小次郎さんもどうですか?』


 と声をかけてきた。


 本来なら私がそこに参加する事は叶わぬのだろうが、地底図書室でお世話になったからという理由で私を誘ってくれたらしい。あの活発な女子らと交友を深める良い機会だと思った私は甘んじてそれを受けた。


 宴会が開かれた場所は女子寮の近くにある小高い丘の上。中心に桜の木が植えられている、花見にはもってこいの絶景だ。言ってしまえば部外者である私がいきなり『ネギのくらすの宴会』に来た事で少々場を騒がせてしまったが、ネギから誘われたという私の言葉と木乃香殿や綾瀬殿の説明を聞くと一転、快く受け入れてくれた。


 主役であるネギが少々遅刻しているが、それでも宴会は楽しく進んでいった。積極的に話しかけてきてくれる皆々との会話を純粋に嬉しく思いながら時が過ぎていく。


 そうして幾らか話をしていると、椎名という名の女子が私の剣舞を見たいと言い出してきた。その言葉を切り口に、皆が口々に見たいと言い始める。話しかけてきてくれた事への礼という訳ではないが、祝いの席で断るのも無粋であるし、私はその申し出を了承した。


 皆から離れ、青江を背から外して抜き放ち、剣舞を披露していく。最後の一閃で偶然舞い散った桜の花弁を切断し、皆に一礼すると拍手と歓声が沸いた。口々に『すっごーい』『うひゃー……キレイー』『演劇部に出てくれないかな……』『やっぱり、今度じっくり調べたいです』等と声が聞こえたが、最後の一言に何故か悪寒を感じたのは秘密だ。


 剣舞が終了したところで、丁度ネギが到着した。主役の到着した宴会は、最高の盛り上がりを見せていく―――


「……しかし、長谷川殿は真に災難であったな」


「そうですね、流石にアレは同情します」


 互いに宴会の話をかいつまみながら、茶を啜って空気を柔らかくしていく。苦笑い気味に『長谷川』という名と共に出したこの話題は、あの日で最も衝撃的な事件だった。


 遅れてやってきたネギは、何やら兎を扮した服を着ている女子を連れてきた。皆がネギの恋人かと騒いでいる中、私はその女子にどこかで見た覚えのある雰囲気を感じたのだ。ネギの近くにいた神楽坂殿も同じく感じたようでその事を聞こうとするも、兎の女子がネギの手にあった“めがね”とやらを奪い返す方が早かった。


 ―――今にして思えば、女子にとってそれが拙かったのだが。


 急な動きに合わせて、兎の女子の髪が揺れる。それはネギの顔に当たり鼻をくすぐった。幼くあどけない表情を歪め『は……は……』とネギが我慢するも、当然堪えきれずにくしゃみをしてしまう。


 同時。凄まじい風がネギから吹き荒れると、兎の衣装を文字通り粉みじんに吹き飛ばしてしまった。似たような経験が前にあったからか、またも私はすぐさま視線を逸らす事が出来た。


 皆の騒ぎ声を耳で聞きながら兎の女子―――長谷川殿に、心中で同情の念を捧げた瞬間だった。


「―――さて……そろそろ、本来の目的を始めるとしようか」


「そう、ですね。時間にも限りがありますから、早めに始めてしまいましょう」


 雰囲気を良くするために始めた会話についつい話に花が咲いてしまい、ふと時計を見れば九時を示しているのに気がついた。空気もある程度は解けてきたので、頃合であろう。


「そうだ刹那。済まんのだが、今日は午後から用事があってな。修行は午前中だけで勘弁してもらえぬか?」


「あ、そうなのですか? 分かりました」


「忝い」


 そう一言断りを入れてから、先に出て待っておれ、と言葉を残して自室に青江を取りに戻る。襖を開け、定位置に立てかけてある青江を手に取り、刹那を待たせている中庭に足を向けた。


 さて。張り切っていくとしようか。










 修行を始めて一時間と少し。もう何度目になるか分からない打ち込みを小次郎さんに放つ。渾身の力を持って斬り込んだ私の一太刀を小次郎さんは容易く受け流し、瞬時に切っ先を返して首を狩りにきた。


 夕凪での防御は間に合わないと判断して、身を屈めて直線上から離脱しつつ斬り上げの反撃を試みる。だが意志を持っているかのごとく切り返された青江を捉えた瞬間、やむなく反撃を防御に切り替えた。


 気で強化した刀身で青江を受け流し、瞬動で間合いを取って仕切り直した。数瞬の間を置き、再び瞬動で間合いを詰める―――否、踏み越える。小次郎さんの左後ろを取ると同時に、逆手に持ち替えた夕凪で一歩背後へ踏み込みながら切っ先を突き込んだ。


 普通ならこれで終わり。例え同じ世界に住むモノであっても、これは易々と避けられない。それだけの自信と力を込めて、小次郎さんを貫かんとする。


 ―――だが、小次郎さんの立つ世界は、やはり私よりも高かった。


 小次郎さんの姿が掻き消える。逸歩だ。そう認識できた時には、首元に青江が寸止めされていた。


「ふむ、今のは惜しかったな」


「くっ……はぁ、はぁ……もう一本、お願いします」


 夕凪を下げて、額に浮いた汗を払いながら、この打ち合いでの降伏の意志を示す。小次郎さんもそれを受け取り青江を私の首から離し、数歩後退して自然体に体勢を備えた。その額に汗はなく、呼吸も平時と変わりない。


 乱れる呼吸を一度二度と深呼吸する事で鎮めて、私も夕凪を構えながら、以前刀子さんが語っていた事を思い出した。


 彼女は言った。小次郎さんは、柳のような剣士だと。


 こちらのあらゆる攻撃青江としなやかな体捌きが受け流し、押された分だけ跳ね返る青江は数瞬の間おかず首に切り返されてくる。


 小次郎さんと刀を交えるのはこれで二回目。真剣でならば初めてだが、刀子さんの感想はあの日、私が初めて打ち合った時に持った感想と瓜二つだった。


 自然に振り上げた形の右手を耳の辺りで止め、左手を添える。八双に似た形だが、これは蜻蛉というの示現流の構え。今の私の技量では、普通に打ち合ってもこの人に一太刀を浴びせる事は難しい。ならば初太刀に全てを注ぎ、後先も考えずに打ち込んだ方が望みがある。


 気を全身に張り巡らせ、私自身を刃、そして弾丸と化し、踏み込みの機を探る。


 小次郎さんも私の構え―――というより、覚悟を悟ったのだろう。視線が鋭くなり、その瞳と全身から漂う剣気が、私に『来い』と告げている気がした。


 意を決して、全てを解き放つ。踏み込みは瞬動。私の持ちえる最速。文字通り瞬く間に間合いを詰めた私は、引き絞った弦を解放するように夕凪を袈裟懸けに打ち下ろした。


 あの日と同じ、何の捻りもない純粋に速度だけを追求した一太刀。違うのは得物が夕凪である事と、込める気が私の全力である事。恐らく今の私が放てる最高の一刀で、小次郎さんに挑む。


「―――シッ!」


 私が夕凪を振ると同時に、小次郎さんの青江も空を裂く。先の意思表示を行動でも表してくれたのか、切っ先の舞う先には首ではなく夕凪があった。


 ギャンッ、と二刀がかみ合う。その接触する刹那、青江が傾いた。直線を斜めに逸らされた私は、後先を考えていなかったがゆえに、もろとも青江の示す先へ崩れてしまった。


 後は変わらない。舞うような切り返しが、私の首を襲撃しただけ。


「―――参りました」


 夕凪を地に落とし、両手を挙げて本当に降伏した。


「いや、今の一太刀は中々に見事であったぞ。初太刀に全てをかけるという思い切りの良さも感服した」


 皮一枚の距離で青江を寸止めした小次郎さんが、そう私を褒めながら青江を仕舞った。


 正直、一度とて掠りもさせられなかった相手に褒められても皮肉を言われているようにしか感じないが、こと剣に関して小次郎さんがその様な事を言うはずがないので素直に受け取った。


「さて……そろそろ休憩としよう」


 小次郎さんが、縁側に青江を置きながらそう言った。草鞋を脱いで板張りに上がり、居間の方に消えていく。その背中を見送った後、私も一息つきながら縁側に腰を下ろした。


 中庭の景色を眺めてぼうっとしていると、すぐに小次郎さんが戻ってきた。両手には一つずつ、氷水の入ったグラスが握られており、一つを私に差し出してくれた。お礼を言いながら受け取る。刀の握りすぎで熱った手に、キンとしたグラスの冷たさが心地よかった。


 手に続いて身体の内も冷やすために、一口水を飲んでから口を開いた。


「完敗です。あなたの技量には、心の底から脱帽しました」


「これだけに人生を捧げてきたからな、そう容易く負けてやるわけにも行かぬよ」


 先達の意地という奴だ、と小次郎さんが笑った。その程度で生まれる差ではないのだが、ここで反論をしても小次郎さんは更に謙遜するだろうから、そういうものですか、と相づちを打つ。そういうものだ、とまた笑う小次郎さんの顔は、子供のようだった。


 打ち合い中の小次郎さんを思い出す。


 私が一太刀振るうごとに、小次郎さんは嬉しそうに頬を吊り上げていた。一挙一動するたびに目を輝かせて、次を心待ちにしている顔で私を見ていた。


 それはまるで、新しい物を見た子供のように純粋だった。


 以前部活の休憩中に、どうやって今の我流の剣を築き上げたかを質問したことがあった。参考にした物は一つもない全くの我流だと返答されたときは、流石に開いた目を閉じるのに苦労したのを覚えている。


 だからこそ。れっきとした流派の使い手と打ち合えるのが嬉しくて、楽しいのだろう。それがこの現代において誰よりも純粋な剣士であるこの人への、私の感想だった。


「時に刹那。時折其方の体から、何か靄のような物が溢れておったが、あれは何だ?」


 恐らく気の事を尋ねているのだろう、ふいに小次郎さんが聞いてきた。簡単に理屈や効果を説明すると、ふむ、と顎に手を当てて何か思案しているようだ。考えが纏まったのか、こちらに視線を向けながら口を開いた。


「刹那。私との修行中だが、気の使用はなるだけ控えよ」


「……なぜですか?」


「その『気』とやらは、身体能力の底上げを可能とするのだろう。なれば、気による強化に重きを置くよりも、身体能力の上昇を重点的に行った方が『気』の強化は威力を増すはずだ。何より、私たち剣士の武器は己が身と、刀のみ。他の物は補助と割り切った方が良い」


 小次郎さんの話は少し極端だが、納得できるところも多いのは事実だ。確かに気による強化は、元の身体能力が高ければ更に力を増す。思えば、気を使わないで戦った経験は、剣道部を除けば無い。ここは小次郎さんに従っておく事にした。


 人心地付いたところで、稽古を再開した。先程までと何も変わらない内容だが、私には十分すぎる。


 私と小次郎さんの得物である野太刀。本来馬や化生といった己より大きい相手を想定して作られたこの刀は、よほどの修練を積まない限りまともに振るう事すらままならない。私も五年以上に渡る修練の果てに、夕凪を手足のように扱えるようになった。


 だがこの人は違う。手足のようにではなく、真実手足として青江を扱っている。それこそ人外を相手にするこの刀で対人も行えるほどに。どれだけの修練を積み重ねてきたか、想像するのは難しかった。


 三十分も打ち合った頃、初めての修行は終わりを迎えた。生身で戦ったのは本当に久しぶりで、二の腕の辺りが少し震えている。小次郎さんの指摘の正しさを実感した瞬間だ。


 どうも小次郎さんの用事とは人に会うものらしく、汗を流す時間も考えているようだ。持参したタオルで汗を拭き終わった頃、玄関先で小次郎さんの見送りを受けた。


「またな刹那。今日のを糧に、一層精進するのだぞ」


「はい。今後もよろしくおねがいします、小次郎さん」


 一礼をして帰路に着く。春の陽気に包まれた道を歩きながら、二時間半の稽古を何度も思い返した。これからもあの人から指導をしてもらえると思うと、剣士としてとても嬉しい気持ちになれた。


 ……だから、それがきっと拙かった。緩んでしまった私の心は、稽古に飽き足らず午前中を全て思い返してしまい、嬉しい気持ちは心の奥底に引っ込んでしまった。


 唐突に小次郎さんが聞いてきた、私とお嬢様のこと。私があからさまな反応をしてしまったのが原因だとしても、小次郎さんはなぜあの様な聞き方をしたのだろう。つい怒鳴ってしまったのは申し訳ないと思うし、謝罪してくれたので許してはいるが、あれだけは小次郎さんに非がある。


 だけど、思い出してしまった。私を貫く、悲しそうなお嬢様の目を。これ以上ないほど私の心を裂く、お嬢様の涙を。


 喧嘩なんてとんでもない。嫌うなんてありえない。


 ただ……私に、お嬢様の隣に立つ資格が、ないだけの話。あの日、私はお嬢様を助けられなかったから―――否。私が私である以上、もうあの頃に戻れる事はないだろう。


 陰鬱としてきた心を振り払うように、私は小走りで寮までの道を駆けた。












 後書き


 最近時代小説が面白い。逢千 鏡介です


 さて、十二話の前編、いかがだったでしょうか。


 満ち足りた生活の中、文字の練習に励む小次郎。さぞ幸せな事でしょう。そして鬼指導な木乃香。デフォルトな気がするのは私だけでしょうか?


 そしてとうとう動き出した、刹那と木乃香の仲立ち。剣だけに人生を捧げてきた小次郎はその役目を果たしきれるのか。


 感想お待ちしております。どんな些細なことでも、お気軽におねがいします。


 では。




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