暗い夜であった。まるで墨を流し込んだ様に深い闇、その中に申し訳程度に備えられた街灯が、辺りを照らしているだけだった。


 その僅かな灯りを受けて、立ち並ぶ桜の木がうっすらと闇に浮いている。昼日中に拝む事の出来る華やかな美しさは、夜の闇に彩られて妖しい魅力を漂わせていた。魔がこぞって夜に現れるのは、桜の木が誘蛾灯になっているからかも知れない。


 佐々木 まき絵は、そんな闇の中、桜通りを走っていた。


 手にはシャンプーやタオルなど、洗面用具が入った洗面器を持っており、いかにも風呂帰りである事が窺える。恐らく、部活が終わった後も一人で練習に没頭し、汗をシャワーで流した帰りなのだろう。


 ―――ただ、妙な事が一つあった。


 走るまき絵の表情には、明らかな怯えの色が見て取れる。息も荒く、まるで何かから逃げている様だ。


 いかに夜に女性が一人とはいえ、周囲には人っ子一人の気配も無い。だからこその怯えというのも考えられるが、その事を考量しても、まき絵のそれは度が過ぎている様に見えた。


 ……そう。それはまるで、実際に今、襲われている様な―――


 まき絵の背後に追いすがるよう、影が蠢いていた。


 影は、人間ほどの大きさを持っていた。翼を広げた様な形に、獲物を狙う光を蓄えた目の様なものが二つ、影の中で輝いている。仮にそれを目撃する者がいれば、その姿から巨大な蝙蝠―――そういう伝承に詳しい者なら、吸血鬼を思い描いたかも分からない。


 影の速さは、まき絵の足を明らかに超えていた。距離が徐々に詰められていく。まき絵は、少しずつ大きくなってくる息遣いを聞いた気がして、必死に動かしている足を千切れんばかりにさらに速めた。


 だが、影の気配が背中に張り付くほど近くなり、吐息が耳元で聞こえたその時、まき絵は恐怖の余り足を縺れさせ、誘われる様に桜へと背を預けてしまった。


「ぁ―――い、いやぁ……」


 影がまき絵に覆い被さる。次の瞬間、絹を裂く様な悲鳴が、闇に溶けて消えていった―――






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