刹那との稽古を終え、出かける支度を済ませた私は、先方から指定された場所へと足を向けていた。もっとも支度と言っても、何時もの格好を気持ち丁寧に整える程度なのでそう時間はかからなかった。


 電車という交通機関を使えば早く着けるらしいのだが、一人で乗ると迷ってしまいそうなので自粛している。学校へ向かうのも、それは同様だ。


 コーチに着任して―――即ち、この世界に蘇ってから約一月が経った。春の足音も明確に聞こえる様になり、街行く人々からもどこかやる気が芽吹いているのを感じられた。見慣れた風景も出来てきたが、今歩いている道の様に未踏の地も未だ多々ある。その内当て所なく散歩するのも良いかも知れぬと何時かの予定を立てながら、柔らかい空気を一息吸い込み穏やかに吐き出した。


 家の屋根から時折顔を出す雲の形の変化を楽しみつつ歩いていくと、徐々に家の代わりに木々が目立つ様になり、道も少しずつ傾斜を持つようになってきた。木漏れ日が作るまだら模様の坂道を登った先に、私の目的地はあった。


 私の家と同じく麻帆良においては珍しい、和風の造りを持った旅館。恐らく今の町並みが作られる以前からあったのだろう、全体的にかなり痛んでいるが、何度も補修した箇所が、あちらこちらに見受けられる。蓄えた年月を窺える門構えから、えもいわれぬ温かみを感じた。


『……良い旅館だ』


 来るものは拒まず、という言葉を旅館そのものが体現していた。ここまで存続出来ているのは、偏に店主の一族の、お客を想った尽力によるものなのだろう。


 一族の熱意が人を呼び、その人がまた別の人を呼び、いつしか旅館にまで一族の想いが宿った。


 この温かさを一度受ければ、ふと思い出して足を運びたくなるに違いない。少なくとも、私はそうだ。


 春を連想させる玄関を潜り、外観と同じく幾度も手直しされてきた内装に頬を微かに綻ばせながら、ごめん、と一つ呼び声をかけた。何処かより返事が聞こえ、次いで控えめな小走りの音が近づいてきた。声は、どうやら女性の物らしい。


 淑やかに走ってきた女性が、私の前に三つ指を着いた。鮮やかな鶯色の布地に、銀糸で梅の花らしき刺繍を入れた、正しく春を思わせる着物を纏っていた。


「遠路はるばる、ようこそお出で下さいました。私が、当宿の女将でございます」


 声の落ち着き具合からして三十路半ばと見たが、全身から匂うような柔らかい雰囲気と、童女の様にくりっとした瞳のせいか、それよりも幼く見えた。細い髪の毛を後頭部で一つの団子の様に結い上げていて、化粧も見事に整っている。礼をする時の仕草も洗練されており、まるでこの空間だけ私が生きていた頃に遡った錯覚を受けた。


「其方が女将か。私は、」


「佐々木 小次郎様、でございますね。お話はお伺いしております。お部屋をご用意させて頂いておりますので、ご案内いたします」


 微笑みながら私の名を言ってみせた女将が立ち上がり、私が草鞋を脱ぎ終わるのを待ってくれる。足袋になると、どうぞこちらへ、と言いつつ衣擦れの音を従えて私の数歩先を歩き出した。


 仄かに香る木の匂いを満喫しながら女将の先導に従っていると、こちらでございます、と不意に女将が口を開いた。どうやら気づかぬ内に部屋に着いたようだ。


 中に入ると、まず五十畳はありそうな部屋の大きさに度肝を抜かれた。中央にはやや大きめの、長方形型の机が据え置かれており、その深い茶色が部屋の中で存在を誇示している。向かい側には障子窓が嵌められていて、その更に奥から覗く中庭の緑が、白い壁の内装に一層彩りを添えていた。


 一通り回って部屋を見終わると、机の前に腰を下ろした。女将は途中で、小次郎様をお待ちの方をお連れします、と言い残して襖を閉めて行ってしまった。旅館なら置いてありそうな茶を淹れる一式が見当たらなかったので、中庭の緑を眺めながら女将が戻るのを待つ事にした。


 ぼうっと時間を流していると、襖越しに女将の声が聞こえた。すぐさま同じ場所から、三つの気配を感じ取る。どうやら、私を待っていた者―――もとい、私を呼び出した方を連れてきてくれたようだ。


 気配が一つ遠ざかり、離れていった。恐らく、女将のものだろう。


 残る気配は二つ。あの御仁は『会わせたい者がおる』と仰っていた。ならば、もう一つの気配はその会わせたい者という事になるのだろう。


 だが私は、何故かそのもう一人の気配に覚えがあった。それも最近会った者だ。その人物を特定するため、ここ数日間の記憶を思い返す。


 …………さてこの気配は、確か―――


 答えに行き着く直前、しわがれているが良く通る声と共に襖が開かれた。そちらに視線を向け、二人の姿を認めた瞬間、私は全てを悟った。


 そういう事か、翁殿。










『急で悪いのじゃが、実は今日お見合いがあるのでな、これに着替えてくれんかの』


 今朝、おじいちゃんからメールで急に呼び出されて言われた用件がこれやった。もう何度目になるか分からへんお見合い話。ウチが何回嫌って言うても、フィアンセやとか曾孫の顔が見たいゆうて、おじいちゃんは無理やり話を進めてウチの所に持ってきてまう。


 今までは何日も前に連絡くれて見合い写真撮ったりもしたんやけど、その度にウチが逃げだしてたからか、今日は当日連絡とえらい強行やった。先方はもう見合い場にむかっとるとか、ワシの面子がどうとか言うとったけど、おじいちゃんの事や。きっと部屋の外には、ウチが逃げ出してもすぐに捕まえられる準備くらいもうしてあるんやろ。


 気は進まへんけど、おじいちゃんが言うには向こうさんも『会ってからでなければ分からない』言うてるらしいし、お見合い終わってから話をなかった事にすればええか、なんて考えでウチは初めてお見合いを受けた。最初っから逃げ場がないんやから、選択肢は無さそうやけど。


 用意された着物に着替えて、髪を左右に分けてから簪で留める。結構前に撮らされたお見合い写真と同じ姿になったウチが、鏡の中におった。


 無駄におっきい車におじいちゃんと乗り込んで、ウチの心模様とは反対の空を眺めてるうちに、今日のお見合い会場に到着した。途中おじいちゃんの部下たちが『ついに、お嬢様も……』とか呟いて涙流しとったのは、ちょっと対応に困った。


 麻帆良やと珍しい和風の旅館。鶯色の着物に身を包んだ女将さんに丁寧に出迎えられて、二重の意味であったかい旅館を案内される。途中でおじいちゃんが何か女将さんに耳打ちしとったけど、聞いてもはぐらかしたから諦めた。


 ホンマならこのままお見合いのための部屋に行くんやけど、時間がお昼近くやったからウチの小腹が空いてまった。いくら断るんが前提のお見合いでも、途中でお腹が鳴ってまうのは恥ずかしい。おじいちゃんに相談したらそのまま女将さんに掛け合ってくれて、


『では、おにぎりなどご用意いたしますので、こちらのお部屋でお待ちいただけますか?』


 女将さんの好意で、おむすびを食べれる事になった。おおきに、と感謝を述べながら頭を下げた。


 おじいちゃんがお金を払おうとしたけど、おにぎりの一つや二つ構いませんよ、お品書きにもありませんし、とおどけた風に笑って申し出を断りはった。もう一度、深くお礼した。


 通された部屋は二、三人様の小さめな部屋やった。床に座って、無理やりお見合い進めた事への愚痴をおじいちゃんに零しながら女将さんが来るのを待つ。そう時間がかからん内に、女将さんがお盆片手に部屋に入って来はった。


 小腹を満たすのにぴったりな少し小さめのおむすびとお茶が二つずつ、お盆に載っとる。どうぞ、と音もなくお盆をテーブルの上に置いてから、一組をおじいちゃんの前に置いた。二人で改めてお礼を言ってから、おむすびを口に運んだ。海苔を巻いただけの塩おむすびやったけど、とっても美味しくて、温かかった。


 のんびりした幸せに浸りながらお茶を飲んでると、襖がノックされた。失礼しますって言いながら女将さんが入ってきて、お見合いの相手が到着した事を伝えてくれはった。


 その言葉を聞いた途端、さすがに胸がドキドキしてきた。初めてのお見合いゆうのもあるけど、やっぱり相手がどんな人やろうってのが一番大きかった。それと一緒に、会ったらどんな事話すんやろう、ウチの事どう思うんやろう、やっぱ二人っきりになるんやろうかって、色々な不安がどんどんあふれて来た。


 最後に髪や着物の崩れを再確認してから、心の整理もつかんまま、女将さんに連れられてお見合いする部屋に向かう。距離はあんまりなかった。玄関に入って、内と外とを区切る襖を前にして、また胸のドキドキが大きくなる。密かに深呼吸して、おじいちゃんの後ろに体半分隠れるようにしながら、お見合い会場に足を踏み入れた。


 ―――その途端、頭ん中が真っ白になってもうた。


 部屋の中には、男の人が一人。それは当たり前の事やし、むしろいなかったらおかしいんは分かっとる。


 ……でも、それが最近知り合った人っていうのは、予想外にもほどがあるっちゅうもんや。


 何回見ても、女の人と見間違みまちごうてまうほどに艶やのある髪の毛。顔立ちもやっぱり嘘みたいに綺麗で、切れ長の瞳と視線が合うとつい逸らしてもうた。髪の毛とは対称的に明るっぽい色合いが目立つ着物と袴が、お互いを引き立てとった。


「……こ、じろう、さん……?」


 真っ白なまんま硬直しとったウチは、ようやくそれだけ口から搾り出せた。それで堰が切れたみたいに、今度は疑問が頭ん中に氾濫してきた。


『こ、小次郎さんがウチのお見合い相手? そ、そういえば小次郎さんのお父様、おじいちゃんの友達見たいやし、小次郎さんイケメンやから、おじいちゃんならやりかねへんかも…………って、ちゃう! も、問題何は、そんな事やなくて―――』


 そうや。そんな事、問題でない―――事はないけど、ウチはもっと重要な事に気がついた。確認のために、部屋を見渡すけど、やっぱり誰もおらへん。


 ……ま、間違いない。小次郎さんが、お見合い相手として、ここにおるんなら。それって、つまりは―――


『――――――小次郎さん、ウチが相手て知ってお見合いに……!? え、それってまさか……―――』


 その考えに行き着いた途端、頭ん中がグラグラに瞬間沸騰してもうた。顔もどんどん火照ってきて、何かに掴まっとらんと倒れそうになってまう。おじいちゃんが歩き出したのを見て、こっそり服を掴みながら進んで、小次郎さんの向かい側に座り込んだ。


 でも、顔なんか見れへんかった。肩を縮こまして、きっと赤い顔を俯かせながら、何か言おうと考えるけど、煮立った頭でそんなんがでる訳もない。


 ほんならと、おじいちゃんか小次郎さんが何か言うのを待とうおもたけど、何でか二人とも顔を向き合わせてまま口を開かへん。もしかしてウチを待っとるんやろうか。そう考えると、煮立った頭が余計にグチャグチャになって、体が左右に揺れとる錯覚まで感じ始めてまった。


「―――それで? 私と木乃香殿を見合いさせようと、そういう魂胆か、学園長殿?」


 結局。ようやく聞こえた小次郎さんの一言がウチの頭を冷やすまで、ウチは釜茹での刑を受け続けてた。










 学園長殿と睨み合いを始めて数分。私は漸く口を開いた。


 木乃香殿が共に入ってきた時点で目論みは見え見えなのだが、一応口に出して確認させたかった。常よりいくらか冷たくした視線を向けて、問いただす。


「フォッフォッフォ、まぁそう見えなくはないのう。じゃが言うたじゃろ、『会わせたい者がおる』と。然るにワシは君を騙してはおらんはずじゃが?」


 しかし、その視線を受けてなお、普段の飄々とした雰囲気を崩さずに学園町殿が答えた。正確な年齢を伺ってはいないが齢八十を確実に超えるであろうこの御仁には、三十年も生きていない若輩の視線などどこ吹く風、と言う事だろう。


 確かに私は、学園長殿より『会わせたい者がいる』と言われ、指定されたこの旅館にやってきた。故に、言う通り騙されてはいないのだが、釈然としないのもまた真実であった。


「では、後は若いもんに任せるとして、お邪魔虫は退散するとするわい。それと小次郎君、この後ワシはまた仕事が入っていての。ちょうど通り道じゃろうし、帰りはこのかを寮まで送っとくれ」


「ちょ、おじいちゃん!?」


「ふぅ……承知した」


 呆れが大部分を占めるため息をついて、学園長殿の言葉を承諾した。どうやらこの旅館を選んだ事すら策の内であったようで、恐らく仕事も故意に入れたのだろう。確証もなくそう確信して、孫の声すら耳に入れず、してやったりという風な笑い声を残して去っていく学園長殿の背を見送った。


「―――ぁ」


「…………むぅ」


 ……何とも言いがたい空気が部屋に漂う。何故だか知らぬが、木乃香殿は私と視線が合うと顔を赤くし、折角上げた顔を再び俯かせてしまった。木乃香殿も私と同じく学園長殿に謀られた口で―――これは真実だろうが―――己が祖父への怒りで身を震わせているのやも知れぬ…………とも思うたが、それにしては反応が変だ。ここは下手に刺激しない事とし、木乃香殿が落ち着くまで口を閉ざす事に決めた。


 ただ、その間何もしないのも暇だ。部屋は先ほど見回ったし、席を立てる雰囲気でもないので、失礼ながら木乃香殿の格好を拝見させてもらう事にした。


 桜の花が咲き誇る紅色の布地に、木乃香殿の白い肌が映える。要所要所に花弁も散りばめられて、派手な色合いながらどこか落ち着いた雰囲気を感じた。髪形も普段とは違い、左右に分けて額を出し、その状態を簪で固定している。たったそれだけの違いでも印象が変わるのだから、女性というのは侮れぬ。


 木乃香殿も十五―――私の時代でならば『女』として見られる歳だ。まだ幼さが残っているが、一個の女として成長しつつある木乃香殿を、正直に美しいと感じた。


「…………えと、ちょっとええかな」


 おずおずと上目遣いに私を見ながら、木乃香殿が聞いてくる。服装などを注視していた事がばれないよう、何かな、と何時も通りに返した。


「何やさっき、二人で話しとったけど…………小次郎さん、おじいちゃんに何て言われてここに来たん?」


「『会わせたい者がいる』―――この一言だけだ。まさかそれが見合いだとは夢にも思わなんだ」


「じゃあ、ホンマに何も知らないで来たん?」


 再三の確認に、左様、と頷きながら明確に答えた。その言葉が木乃香殿の何に触れたかは分からぬが、よかったぁ、と安堵のため息と共に小さく呟いていた。


「そういう木乃香殿は、学園長殿に何と言われて?」


「ウチは、『お見合いがある』言われて。おじいちゃん、ウチにお見合いさせるのが趣味みたいなものなんよ。…………でも、相手が誰かは聞いとらんかったから、小次郎さんが部屋にいたときはえらい驚いたわぁ」


 先ほどまでの恥じらいはどこに消えたのか、何時もの木乃香殿がおどけた風に笑いながら言った。


「そうだな、私も少し驚いた。木乃香殿が学園長殿と一緒に部屋に入ってこなければ、初見ですぐに木乃香殿だと分からなかったであろうからな」


 赤面していた理由も少し気になったが、無粋な問いという事で口に出すのはやめ、初め見たときの正直な感想を話した。


「ふぇ? それって、どういう意味や?」


「いや、木乃香殿が着物を着ているのは初めて見たからな。加えて髪型も違っていた故、不覚にも直ぐに誰か分からなかったのだ」


「ふーん…………それってつまり、ウチが別人に見えたって事?」


「結論を言えば、そうなる」


 木乃香殿の言葉に素直に頷くと、何やら企んだ表情を浮かべて木乃香殿が立ち上がる。机に向かって一歩下がり、私に見せ付けるようクルリとその場で一回転すると、袖を持って両手を広げて、


「どや、似合におとる?」


 そう、笑顔で聞いてきた。


「あぁ、似合っておるよ。綺麗だし、とても可愛らしいと思う」


「……へへ、ありがとうな〜」


 木乃香殿の仕草を微笑ましく思いながら、正直な褒め言葉を贈る。よほど嬉しかったのか顔がやや赤くなり、ふにゃ、と崩れる様に木乃香殿が笑った。再び腰を下ろしても、しばらく表情は綻んだままだった。


「お気に入りの服なのか?」


「ううん、別にそんなんやないんやけど…………おじいちゃん以外の男の人から褒められたん、えらい久しぶりやったから、何や嬉しくて」


 小次郎さん上手やなー、と言って木乃香殿が机に顎を乗せた。女子としては少し咎められそうな行いだが、私以外誰もおらぬし、何より随分幸せそうな表情だったのでそのままにしておく。


「そうだ木乃香殿。文字の方だが、無事に全て覚えたぞ」


「あ、ホンマ? ちゃんとウチが言ったノルマやったん?」


「無論。先生の言い付けだからな。ただ、今後はもう少し緩く頼む」


「あ、やっぱ? ウチもあれはやりすぎたかなー、って不安やったんよ」


 聞き捨てならぬ事を木乃香殿が笑いながら言ってのけた。そう思っていたのであれば、少し減らしてほしかったというのが本当のところだが……まぁ、過ぎたる事だ。結果的に私の願い通り短期間で文字を習得出来たのだから、文句を言うのはお門違いであろう。


「ほしたら、実際にやってみてくれる? 最終チェックや―――あ、でも書くものがないなぁ」


「そこは抜かりない。元より私もそのつもりだった故、紙とえんぴつは持参済みだ」


 言いながら、懐からそれを取り出してみせる。用意ええなぁ、と木乃香殿が笑った。


 先生の目の前で、最終試験を受ける。ゆっくりと、一文字に数秒をかけて丁寧に、今までの集大成を書き上げていく。


 全てを書き終えて、やや緊張しながら木乃香殿に紙を渡した。


「…………うん、合格や。ちゃんと読めるえ」


「それは良かった」


 無事に合格を頂き、心中で安堵の息を漏らした。


「けど―――まだまだ下手やなぁ。よう練習せなあかんえ。小次郎さんもええ大人なんやし、不恰好な文字やと恥かいてまうからな」


「……心得ている」


 だが、しっかりと釘も刺されてしまった。苦笑いしながら、先生の忠告を素直に受け止めた。


 書き取りが終わると、次は読みの試験に入った。渡した紙を返され、それを見ながら順々に一つずつ口にしていく。無事に『わ、を、ん』と読み切ったところで、私は紙を机に置いた。


「ん、おっけーや。これでひらがなは卒業やね」


「次は確か……かたかな、だったか?」


「そやよー。あ、折角やから、今書いたるな」


 そう言うと木乃香殿は、私が今置いた紙を引き寄せて裏面に“かたかな”を書き込み始めた。私とは違う素早いえんぴつ捌きで、紙の上をえんぴつが踊った。


「はい、出来たえ。形が違うだけで、読みも順番もひらがなと同じやから、その辺はそっちを参考にしてな」


「承知。して、のるまは?」


「うーん、そやな…………慣れて来たやろうし、片面十枚や」


 ひらがなに比べて角ばった文字を一通り眺めながら、随分と優しくなったのるまに一安心した。新しい文字を覚えられる事に喜びを感じながら、紙を丁寧に折りたたみ大切に懐へ収めた。


「しかし、木乃香殿にはまこと感謝の言葉もない。こうして文字を覚えられたのも、偏に木乃香殿のおかげだ」


「ややなー、大げさやよ」


「私にしてみれば、それだけの事なのだよ―――さて、それでは私も、約束を果たすとしよう」


 改めて礼を告げると、片手を頬に当てながら木乃香殿が謙遜した。時代の違う私からすれば真に『それだけの事』なのだが、そこまでは言うまいと言葉を噤む。


 そして、これからの話を考えて、佇まいをピンと屹立させた。


「約束―――ぁ」


「左様。刹那の事だ」


 木乃香殿も私の話を察したようで、表情を一変させる。やはりかなり内容が気になるのだろう、不安そうな顔で私に向かって身を乗り出してきた。


「そ、それで……どうやったん?」


「とりあえず、木乃香殿の心配が杞憂である事が分かった。刹那は木乃香殿の事を嫌ってはおらぬ」


 何しろ聞いた途端激昂されたからな、と苦笑い混じりに告げてから、その時の対話を再現するよう事細かに話していく。ただ、話しに入る切欠だけは少々恥ずかしい内容なので、口に出す事なく省かせてもらった。


 話が進むにつれて、木乃香殿の表情が安堵のものへと変わっていった。


「そっかー…………せっちゃん、ウチの事嫌いになった訳やなかったんやぁ…………よかったぁ」


 本当に心の底から喜ぶよう破顔した木乃香殿が、今まで溜まりに溜まった鬱屈を吐き出すように、ほぅ、とため息をつきながらそう言った。


 そこに。少々心苦しいが、先ほどされた様に大事な釘を刺した。


「だが木乃香殿。分かっておると思うが、これに油断して迂闊に近づくのは禁物だ。正体は掴めなかったが、やはり刹那はどこかしら木乃香殿から距離を取ろうとしている嫌いが見受けられた。酷かも知れぬが、それがはっきりするまでは今の距離を保ったほうが良い」


「……うん、分かっとるよ。急がば回れ、って言うしな。それに、せっちゃんがウチを嫌ってないって分かっただけで、ウチ十分嬉しいし。―――ホンマに……ホンマにありがとな、小次郎さん」


「喜んでもらえて恐悦至極。先生の役に立てたのならば、私としても嬉しい」


 木乃香殿が、優しい微笑みと共に最大級の礼を私に述べてきた。それだけで、この役目を引き受けてよかったと、そう思えた。


「さて……互い、話さねばならぬ事は話したように思うが…………もし木乃香殿もそうであれば、折角の見合いなのだ。予行練習とでも思うて、それらしい会話を楽しまぬか?」


 先程までの重い流れを断ち切る様に、なるたけ明るい声を意識して切り出した。一瞬、木乃香殿が狐に摘まれた様な表情になったがそれも束の間、すぐに私の雰囲気を察して楽しそうに笑った。


「あ、それええなー。ほなウチから―――えーと、ご趣味は何ですかー?」


「剣術を少々。そういう木乃香殿は?」


「ウチは家事全般と、占いが趣味や。折角やし、何か占ったろか?」


「それはありがたい。では―――恋愛運を」


「オッケー。ほしたら、手ぇ出してや―――ふわ〜……。小次郎さんの手の平、甲と違ってごっついなー」


「まぁ、刀を振り続けていれば自然と、な。それで、運勢の方はどうなのだ?」


「ふむふむ…………きゃー、困るわどないしよう。ウチと相性バッチリや」


「ははっ、確かにそれは困るな。学園長殿の謀が上手く行ってしまう」


「ほんにねー、どないしようか。おじいちゃんにも困ったもんやなー」


「学園長殿だからな、是非も無い」


 打って変わった、他愛ない冗談の応酬。見合いの予行練習とは思えないほど軽い口調で会話が進んでいく。私の最後の言葉が面白かったのか、そりゃそうやなぁ、と言って木乃香殿が声を出して笑った。つられて、私も笑った。


 窓から差し込む光が部屋を茜色に染めるまで、私達の予行練習は続いたのだった。










 頃合いを見計らって旅館を後にすると、木乃香殿を寮まで送り、何時もより足早な歩みでそのまま帰路に着いた。今日は刹那との打ち合いに時間を割いたので朝の稽古が出来ず、早く帰ってその分をこなしたかったからだ。


 まだ目に痛いほどの夕明かりが、空と大地に色を塗っている。太陽に手をかざして仰げば、鬼灯の様に赤くなった姿を拝む事が出来た。


 ―――人々が夕日を見て美しさと同時に物悲しさを感じるのは、もしかすると一時の別れを惜しむ太陽が、涙でその姿を赤くしているからかも知れない。


「あ……これは小次郎さん、いいところでお会いしました」


 後ろから響いた声に呼び止められる。振り返ると、茶々丸が半透明な袋を提げてこちらに近づいていた。隣には当然の様にエヴァもいて、知らぬ者が見れば姉妹の買い物帰りの風景、と見て取れたかも知れない。


 無論、どちらが姉でどちらが妹かは、言うに及ばずだ。


「……おい、今何か失礼な事を考えなかったか?」


「さてな」


 勘良く私の思考を察知したエヴァが剣呑な目を私に向けてきたが、含み笑いを浮かべて空惚けた。


「それで、こんな所までどうしたのだ? 見たところ袋の中身は食材の様だが」


 茶々丸の手にある袋に一瞥を向けながら聞いてみた。うっすらと透ける向こう側には、豊富な種類の野菜や肉などが見て取れた。


「はい。そろそろ、以前お作りした料理がなくなる頃かと思いまして、ちょうど小次郎さんのお宅へ向かうところだったのです。後、折角ですから、晩ご飯もお作りしようかと思いまして」


「む…………それは、わざわざ忝い。後で食材の代金を払おう」


 茶々丸の申し出に恐縮しながら、頭を下げる思いで礼を述べる。私の言葉にエヴァが『当然だ馬鹿者、私の金だぞ』と、もっともな言葉を発した。


 エヴァと茶々丸と三人で、別れを惜しむ太陽の下を歩く。道中、どこへ行っていたのかとエヴァが問うてきたので、言ってもいいかと一瞬躊躇ったが、思えばエヴァも学園長殿の―――木乃香殿曰く趣味は知っている覚えがあったので、正直に打ち明けた。話を聞き終わると、またか、とため息混じりに呆れていた。どうやら、木乃香殿の言は正しいようだ。


 家に着くと、茶々丸はすぐ調理に取り掛かった。対する私は敷居を跨がず、そのまま中庭に回って青江を抜き放つ。エヴァはどうやら茶室に向かおうとしていた様だが、私の姿を見た途端、見学させてもらうと言いながら縁側に腰を落ち着けた。


 目を閉じながら息を深く吸い込み、細く吐き出して全身に気を張り巡らす。青江の柄を何度か握りこむ事で意識を浸透させ、身体と一体化させた。


 目を開くと同時に、青江が赤い世界で舞った。あらゆる角度より一点を目掛けて青江の切っ先を飛び交わせていく。


 三十分はそうしていただろうか。一度も止まる事なく振り続けた事で荒くなった息を落ち着けるために、深呼吸を数度繰り返した。時間的に言えば一分にも満たない僅かな時だが、精神的には十分な休息を与えられた。意気も新たに、いざ、と青江を振ろうとする。


 ―――だが。それを感じた瞬間、青江との一体化が解かれてしまった。


 青江を鞘に収めてから居間に上がる。時間を確認して、稽古時間が三十分程度である事を確かめた。やはり、その時間に間違いは無い。


 しかし、全身に感じる疲労感は明らかにそれ以上の稽古量に相当している。以前にも、これと同じ感覚に陥った事があったのを思い出した。


 ……あれはそう、図書館島の地下に落ちた時だ。あの時も、青江を振るった時間に見合わぬ疲労感を感じた。


 あの日以来、これを感じる事は無かったのだが、どういう訳か今日、再びその姿を見せてきた。


 病や怪我ではない。身体の調子は万全だし、青江を振るう感覚も好調だった。精神的に不調である訳でもなかった。


 依然として正体は不明だが、二度目の経験だからか、何となくその像を掴む事は出来た。


 この感覚は、言うなればそう…………どこか別のところに体力が吸い取られている様な、そういうものだ。


「……急にどうしたのだ、小次郎。時計の前で考え込んで」


 エヴァの言葉が耳に入り、はっと我に返った。魔法使いであるエヴァに相談してみようかとも思ったが、私自身でも分からない事なので、相談しても無駄だろうと判断して止めた。


「いや、何でもない。今日は少し、やる気が失せた。修練はここまでとしよう」


「何、もう止めるのか? まだ三十分しかやっていないだろう」


「たまにはこういう日があっても良かろう。済まぬが食事が出来るまで、私室で休憩させてもらう。好きに寛いでいてくれ。茶々丸も、食事の方、期待しておるぞ」


 そう言い残して、返事を待たずに居間を後にした。おい小次郎、とエヴァの呼び止めるような声が聞こえたが、無礼と承知で意図的に無視させてもらった。今は早く横になって、この感覚を落ち着けたかった。


 春の到来を目前に控えた季節。私の行く道に、正体の判別がつかない、靄の様な物が立ち込めていた。








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